父王の迎え1
ニーダーが久方ぶりに外へ出たのは、風が上空の暗雲を流し、斑な月明かりを雨粒のように転々と落とす、胸騒ぎの夜だった。
風は低く吠えながら、暗い森の低いところに吹き込んでくる。夜霧は鈍い鉛色をしていた。逃げ場を無くした風に巻かれて、ぐるぐると滞留している。
外に出てから、ニーダーは一度だけ振り返った。
暗い森のなかにあるゴーテルの小屋は、とても小さい。ブレンネン王城と比べると、リスの巣穴のようだ。ひょっとすると、ニーダーの部屋よりも狭いかもしれない。
(僕には、これくらいがちょうど良かった)
名残惜しかったけれど、迷いのない足取りで先導するシーナの後にぴたりとくっついて行かなければいけないから、感傷に浸っている暇はない。首筋を固くして俯くゴーテルの重い手をひいて、足早に歩きだす。あるべきところへ帰るのに、まるで追いやられたような気がしていた。
夜の暗い森には、不気味な鳥の鳴き声が木霊し、血なまぐさい獣の臭いがする。不穏な黒影が、視界の端にちらつくような気がした。
シーナはゼンマイ仕掛けの人形のように前進することを躊躇わないが、ニーダーはかさかさと葉鳴りが聞こえるだけで、びくびくと身を竦ませてしまう。ゴーテルはと言えば、人喰いの獣に齧り付かれても、気が付かないのではないかというくらい、上の空だった。それでも、ニーダーが木の根に躓くと、さっと手を出してニーダーの体を支えてくれる。
かなり長いこと歩いた。ニーダーは疲れ果ててしまい、枷を嵌められたように重い足を、なんとか引き摺って、前に運ぶ有様だ。そうしたら、唐突に開けた場所に出た。
月の影に切り取られたように、ぽっかりと丸い広場の真ん中に、高い塔が聳え立っている。とてもとても、高い塔だ。天辺が雲に突き刺さりそうな程に高い。仰け反るようにして見上げながら、ニーダーは呆気にとられた。目を凝らすと、黒々と影を纏う塔の窓から、仄かな灯りが漏れている。ちらちらと見えるのは、人影だろうか。
(この高い塔に、ひとが住んでいる。ゴーテルの家族……だった、ひとたちが)
そのとき、翼を広げた魔物のような突風が、物凄い速さで地を這い、塔の壁をつたって吹き上げた。砂塵が巻きあがり、ニーダーは反射的に手で顔を庇う。
指の隙間から、青鈍色の外套が黒揚羽の羽撃きをして逆立つのが見えた。
高い塔のすぐ下のところに、こんもりと小山のような人だかりが出来ている。頑強な鎧で身を固めた兵たちと軍馬が集まっているのだ。ブレンネン王家を象徴する鮮烈な青色が、その鈍色の群のなかで異彩を放っている。一等見事な白馬の上から、青い瞳がニーダーを真っ直ぐにとらえていた。
碧眼の男は外套の裾を優雅に翻し、颯爽と地上へ降り立った。屈強な兵たちは、男の前に恭しく道を開ける。
立ち竦むニーダーの許へと、男が歩み寄って来る。断頭台が不覚悟な死刑囚を待ち切れず、向こうからやって来る。
ニーダーの前に立っていたシーナが、さっと脇に避けて跪いた。男とニーダーを隔てるものは何もない。何処にも隠れられない。
月光を受けた男の銀色の髪が、星屑をまぶしたように煌めいて、目がちかちかする。月明かりを背負っている男の表情は影にのまれて、はっきりしない。青い瞳がだけが炯炯と光り、闇夜に浮かび上がる鬼火のようだった。
男は、一点の汚れも無い固い膝を、躊躇いなく濡れた地面についた。意想外の行動に、ニーダーは度肝を抜かれたが、当の本人は、少しも気にする素振りがない。
男は目を白黒させるニーダーに顔を近づけた。男の手がニーダーの頬に触れて、俯いた顔を上向かせる。そっと触れる手が、たおやかな母を打ち据える手であると思えば、髪が逆立つようだ。許されない反感が腹の底からこみあげてきて、瞳がきつく尖る。それを押し隠すためぎゅっと瞼を閉ざすと、男の手がぱっとはなれた。男ははっと、息を呑んでいた。
「どこか痛むのか」
思わぬ言葉をかけられた。心配とか、労いなんて、この男には、到底似つかわしくないのに。
ニーダーは訝しみながら、そろりと瞼を持ち上げた。辛うじて、男の目を見返す勇気を振り絞ることに成功した。恐る恐る、上目使いだったけれど。
目も眩むばかりの光と、底しれぬ暗黒を宿した混沌の美貌が、ニーダーの瞳の奥を覗き込んでいる。氷に彫ったようなその顔に、なんらかの感情のゆらめきを感じられるのは、珍しいことだ。しかし、それは良い種類のものではなさそうだった。滑らかな眉間に刻まれた皺は深く、目つきが険しい。
ニーダーはごくりと喉を鳴らした。
(陛下のこんなお顔は、拝見したことがない。きっと物凄く、怒っていらっしゃるんだ)
無理も無いだろう。玉座をはなれ、冷たい夜に俊馬を駆り、忌み嫌われる暗い森を訪れた。ブレンネン王がそこまでするのは、王太子を失えば、ブレンネンの一大事だからだ。
父王は、国を背負う自覚と責任を持つようにと、我が子が幼い頃から、厳しく教育してきた。それなのに、なんという有様だと憤り、失望しているに違いない。
ニーダーは喘ぐように息を吸い込んだ。賢明になろうとしたが、恐慌をきたしていては難しかった。たとえ冷静であったとしても、ニーダーはそもそもあまり賢明な方ではない。そのニーダーが慌てふためいた状態で、うまく立ち回れる可能性は、限りなく低かった。
「陛下……あの……私は、平気です……大丈夫です……その、ええと……も、申し訳、ございません……」
案の定、ニーダーはへどもどした。つかえながら、父の事問いに答え、謝るのが精いっぱいだ。父王の凝視には譴責の意図が込められている筈だ。堪えかねて、俯いてしまう。情けないことに、目頭が熱くなっている。
(どうしよう……うまく言い繕わなきゃいけないのに……母上にご迷惑はかけられない。ゴーテルを助けないといけない。……でも、なにを言うべきかわからない。僕なんかが、陛下のお怒りを鎮めることが出来る筈がないんだ)
父王を目の前にしては、ニーダーのなけなしの覚悟など、砂上の楼閣もかくや。脆くも崩れさってしまっていた。
無力感に打ちひしがれるニーダーの体が、不意に、すっぽりと包まれる。優しく暖かく、抱かれている。ゴーテルかと思ったが、そうではなかった。
(えっ?)
信じられないことだった。しきりに目を瞬いたが、ニーダーを抱きしめる体は消えてなくならない。じんわりと体温が伝わって来る。
夢でも幻でもない。ニーダーは抱きしめている。抱きしめているのは、父王だ。父王だと、思う。耳のすぐ横にある顔はよく見えないけれど、銀髪であることはわかる。銀髪の人間は、ブレンネン王国では父王とニーダーしかいない。
それでも、俄かには信じられなくて、ニーダーは首を巡らせようとした。しかし、後頭部と背に回された手が、柔らかくニーダーを縛めているせいで、身動ぎも出来ない。
耳朶に感じる微かな吐息が、火傷してしまいそうなくらい熱かった。
ニーダーは当惑した。本当に、本当に、このひとは父王なのだろうか? 父王がいて、ヘマをしたニーダーがいる。それなのに、冷たい目で侮蔑されない。厳しい声調で叱責されない。失望の溜息が落とされない。あり得ないことだ。
この大きな腕のなかは、体を預けてしまいたくなる暖かい胸は、本当に父王のものなのだろうか?
(そんな筈はない)
父王は、そんな人間ではない。父王は立派な王だ。しかし、愛情深い父親ではない。契りを結んだ女性を暴力で支配するような人間が、愛や情けを持ち合わせている筈がないのだ。
酷い暴力に蹂躙される母の儚い様子を思い出したニーダーは、おぞましさにぞっとした。あんな惨い仕打ちを最愛の母にする男の腕におさまっていられない。発作的に、逞しい胸板を押しのけようとする。
ニーダーが抵抗すると、父王は拍子抜けするほどあっさりと、ニーダーを解放した。ニーダーの体が燃え上がったかのように、身を引いた。
父王がどんな表情をしているのか、確かめる勇気がない。ニーダーの抵抗を、父王は心外に思ったに違いない。
反抗してしまった。心臓が縮みあがり、体の末端から冷えていく。間違ったことをしたとは思わないが、まずいことをしてしまったとは思った。後悔していた。もっと、穏便にすませる方法は、いくらでもあった筈なのに。
父王は沈黙している。お決まりの溜息すら出ないほどに、気分を害しているのだろうか。父王をとりまく空気が硬直している。
ニーダーもまた、沈黙している。小賢しい言い訳のひとつも捻りだせない、己の愚鈍さに嫌気がさす。
沈黙を粉砕したのは、満月に吼えるオオカミのような、ゴーテルの咆哮だった。
常軌を逸した、恐ろしい叫びだ。ゴーテルが狂気に陥った。
ゴーテルは、本当は優しい心の持ち主なのだと、ニーダーは知っている。しかし、錯乱したゴーテルは恐ろしい。理解不能の怒りに我を忘れて、目を血走たせて、踊りかかって来る。
肩越しに振り返ったままの体制で、身動きがとれなくなったニーダーの腕を、父王は強引に引っ張った。それこそ、腕が抜けそうなくらいの力で。そのまま、地面に放り出される。




