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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十話「黙過」
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やさしいゴーテル

 

 残酷な仕打ちは、ニーダーのか細い心の芯をへし折ってしまった。王家の誇りも王子の意地も、心を立て直す助けにはならない。ニーダーは天災にも似た怒りに怯え、ただひたすらゴーテルの顔色をうかがっていた。


 せめてもの救いは、ゴーテルは意識の殆どを夢の世界に置いていることだ。ゴーテルはたいていのことなら、都合の良いようにねじまげてしまえる。ニーダーがゴーテルの一挙手一投足にびくついていることを、ゴーテルは正しく認識しなかった。


 恐怖から逃れるために、必死になっておもねるニーダーの姿は、ゴーテルの目と耳を通すと、体を預けきって甘えるミシェルにかわる。


「辛くないかい、ミシェル? 無理をしてはいけない。女性は我慢強いってよく言うけれど、我慢出来るからって、平気な訳じゃないだろう? 辛いことがあったら、俺に言って。君の苦痛を取り除くために、俺は出来る限りのことをするから」


 ゴーテルはそう宣言した通りに、大きな籠にこんもりとなるほど大量の草葉を摘んできた。そのどれもが薬草であることが、ニーダーにはわかった。

 ベッドの傍らの丸テーブルの上に乳鉢を置き、乾燥させた薬草を煎じるゴーテルの手許を、ニーダーは首を伸ばして覗き込む。


 すると、ゴーテルがぱっと顔を上げた。ばっちりと目が合ってしまう。反射的に視線を逸らすが、ゴーテルはにこにこと話しかけてきたので、ニーダーは己の浅はかさを呪った。


「どうしたの、ミシェル。興味があるのかい? 何を煎じているかわかる?」


 話しかけられたら、無視するわけにはいかない。逆上したゴーテルに殴られるのは御免だし、それに、対話しようとする相手を蔑にするのは、あまりに礼を欠いている。


 ニーダーはぼそぼそとひとりごちるように答えた。


「……ヨモギ粉。木炭の粉末と煎じれば、傷薬になる。痛みをおさえて、患部を清潔に保つ効果がある……んじゃ、なかったかな……」


 父王に与えられた薬草学の本で学んだ知識だ。何度も何度も読み返して、要点をまとめて描きだす作業を繰り返し、内容は全て頭に叩きこんでいる。しかし、その知識を引きだすとき、ニーダーはいつも自信がない。自分の口をついて外に出て行った途端、知識は信頼性を無くしてしまう気がする。


 ゴーテルが目を瞠っている。ニーダーはいたたまれなくなってシーツの中に潜り込んだ。頭の中に、家庭教師たちの厳しい顔がいくつも浮かぶ。正解していたとしても、今のような答え方をすれば、嫌な顔をされる。勉強不足だから自信がもてないんだと、呆れられてしまう。


 ところが、ゴーテルは明るい声でニーダーを褒めた。


「驚いたな、すごいじゃないか、ミシェル! 君が薬草に詳しいなんて知らなかった。いつの間に勉強していたの?」


 シーツの中から亀のように、ぽかんと呆けた顔を出したニーダーに、ゴーテルは屈託なく微笑みかける。ニーダーの手を壊れ物でも扱うようにそっととると、五指を一本一本丁寧に拭き取り、煎じた薬を塗り込む。


「君の言った通りだよ。痛み止めと化膿止めの塗り薬だ。傷によく擦り込んで、清潔に保つ。そうすれば、すぐに痛みが引いて、傷が塞がるよ」


 ニーダーはゴーテルの太い指が不器用に動くのを、ぼんやりと眺めていた。さっきまで竦み上がっていた体は、少しだけ、解れつつあった。


 ニーダーの体は持ち前の旺盛な回復力で、ゴーテルに追わされた傷をたちまち治癒してみせた。ニーダーに暴行を働いたあくる日、包帯をとりかえようとしたゴーテルは、折れた五指がきれいに治っていることに気が付いて目を丸くした。


 ニーダーは青くなった。


 母の体はニーダーのそれよりも傷の治りが遅い。父王にやられた痣や擦過傷は、痛々しくも青白い肌に、我が物顔で長いこと居座り続ける。


 ニーダーは殻のように体を固く強張らせ、息を詰めた。ゴーテルがまた癇癪を起こすかもしれない。


「おかしいね?」


 沈黙に堪えかねたニーダーの口は勝手に喋っていた。


「こんなに、はやく傷が治るなんて、おかしい。どうかしてる。なんでだろう、本当に、不思議だ」

「そうだね、不思議だ」


 ゴーテルはニーダーの指に纏わりつくヨモギ粉と木炭の粉末を練り合わせた薬を拭いとる。伏せていた顔を上げると、そこにはニーダーが懸念していたような、疑い深さはなかった。


「本当に良かった。ミシェルが薬草のことをよく学んでいたから、森の神様が感心して、傷が治る手助けをしてくれたのかもしれない」


 ゴーテルは不思議がってはいたものの、早く治癒して良かったと手放しに喜んだ。ゴーテルは自らの蛮行を心から悔いており、また、心の底からミシェルの身を案じているようだった。


「……本当にすまなかった。君が俺の傍にいてくれるなら、もう二度と、君を傷つけない。だから、どうか愚かな俺を許して欲しい」


 ゴーテルは甲斐甲斐しかった。朝から晩まで、ねんごろにニーダーの世話を焼く。ゴーテルの大きな体は、はち切れそうなほどの労わりと愛情で満ち満ちていた。ニーダーは恐怖心を凌駕する戸惑いを覚えた。


 ニーダーはブレンネンの王位を継ぐにふさわしい王太子であれと、教育されてきた。父王は言わずもがな、父王の息のかかった乳母や教育係の者たちも、母でさえ、ニーダーが甘ったれたこどもでいることを是としない。然るべき教養と作法、知識と技術を授け、一日も早く立派な王子になれとしきりに尻をたたいた。


 雛鳥に噛んで含めてものを食べさせる親鳥のように、手ずから食事をとらされたり、眠るまで優しく宥めるように背をとんとんと叩かれ、寝物語を聞かされたりしたことなんて、物心ついてから一度も無い。


「ほら、口をあけて。あーん」


 満面の笑みでスプーンを口元に寄せて来るゴーテルの指先に、無数の切り傷を見つけた。ニーダーの視線に気が付いたゴーテルは、眉尻を下げて苦笑した。


「ペンを持つまえに剣をとって育ったから、刃物の扱いは慣れているつもりだったんだが、このザマだ。あたりまえだが、剣技と料理じゃ勝手が違う。でも、味はまあまあ、良いと思うんだよ」


 ニーダーが絶句していると、ゴーテルは広い肩を縮こめて俯いた。


「……まずいと思ってる?」


 ゴーテルは霜が落ちた花のように、しゅんとしてしまう。ニーダーは慌てて、スプーンを咥えた。肉の欠片を、よく咀嚼して、嚥下する。味つけの良し悪しはよくわからないが、肉が素晴らしかった。こんな肉は、王城でも食べたことがない。甘くとろける極上の肉だ。


「美味しい」

「よしっ!」


 ゴーテルは拳を握って無邪気に喜ぶ。ニーダーが満足するまで、せっせとスプーンを運んだ。ニーダーは肉を貪った。今まで食べたどの肉とも違う。最上級の肉だ。


 スープ皿が綺麗に空になると、ゴーテルは小躍りするように立ち上がった。


「おかわりだろう? たくさんあるから、いくらでも食べてくれ!」


 意気揚々と部屋を出ようとするゴーテルを、ニーダーは呼びとめた。


「慣れない料理を……僕のために?」


 傷だらけの手に視線を感じたのだろう、ゴーテルはきょとんとして自らの手を見つめてから、あっけらかんと笑った。


「ミシェルは優しいな。こんなの、気に病むことはない。君が美味しく食べてくれた。俺は本当に嬉しいんだ」


 ゴーテルが部屋を出ていった。彼がスープをことこと煮込んだ鍋ごと持ってくるまでの間、ニーダーは考え込んでいた。


 ニーダーは物心ついた頃から、どうすれば大人の手を煩わせないで済むか、他人に手間をかけさせずに済むか模索してきた。自分の力でどうにもならずに、呼びとめた大人たちの顔に過る軽い失望を見るたびに、恥ずかしさに身を捩じ切られるような思いをしてきた。


 ニーダーには、ゴーテルの行動原理が理解不能に思えた。ニーダーの為に何かをしてくれるとき、ゴーテルは偽らざる本心から嬉しそうに微笑む。ニーダーが必要としなくても、砂糖をまぶして糖蜜につけるかのように、ニーダーを甘やかそうとする。


 ニーダーはなんとも言えない気持ちでいた。ニーダーがうまくスプーンを咥えられずにスープを唇の端から垂らしてシーツを汚しても、緊張して口ごもっても、ゴーテルは愛情深い微笑みをたたえてニーダーを見つめている。


 ゴーテルがニーダーに求めることはただひとつ。ゴーテルの傍にいることだけだ。ゴーテルが何ひとつ儘ならない、情けないニーダーを責めることはない。


 ただ、一瞬の空隙をも惜しむように、ミシェルへの愛をニーダーに語る。それこそ、ニーダーに対するものなのではないかと、錯覚しそうになるほど、何度も何度も、執拗と言っていいほどに。


 朝、目が覚めると、ゴーテルがニーダーの顔を覗き込んでいる。

 ゴーテルは愛しくてたまらないという気持ちを少しも隠さずに、声を弾ませた。


「おはよう、ミシェル」

「……おはよう」


 起きぬけに冷や水を浴びせかけられたみたいに、ニーダーは一気に覚醒した。機嫌を損ねて打たれてはたまらない、と言うのも理由のひとつだが、一番の理由は、そわそわして落ちつかなくなるからだ。


 ニーダーが挨拶を返すと、ゴーテルは感極まったように涙ぐんだ。驚いて目を剥くニーダーの腹に縋りついて、ゴーテルは泣きじゃくる。


「……嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいだ。俺が君の名前を呼べば、返事をしてくれる。二人はこうあるべきだった。離れるべきではなかった。二人が離れ離れで過ごさなければならなかった、あの空虚な日々は、愛の試練と言うにはあまりに過酷だった。今はもう、夢にすら、君を奪われたくない」


 ゴーテルが泣きだすと、ニーダーは困り果てておろおろしてしまう。しばらくすると、ゴーテルは涙を乱暴に拭い、目許を赤くして微笑んだ。


「すまない。君とやっと、一緒になれたって言うのに、俺は泣いてばかりだ。こんなんじゃいけない。君がいる。それだけで、俺は世界で一番幸せなんだから。ずっと一緒にいてほしい。もう、俺をこんなところに、ひとりで置いていかないでくれ」


 こんなやりとりが、何度か繰り返された。ニーダーはいつのまにか、ゴーテルの泣き腫らした笑顔に、健気で一途な心を感じるようになっていた。


「ここにいるよ。ここにいるから……」


 目をあけて、この小さな部屋の限られた天井を眺めたり、扉の外から漂ってくる、肉をとろとろになるまで煮込んだ芳しいスープの香りをかいだりする前から、ニーダーは夢うつつに呟くようになっていた。すると、ゴーテルは泣くかわりに、はにかみ笑っている。


 目をさましたとたんに、ニーダーはあたかも自分が、ミシェルであるかのように考えることが増えた。それどころか、眠っている間も考えているのだろう。寝惚けまなこを擦るニーダーの髪を撫でながら、ゴーテルは嬉しそうに笑って言う。


「俺が君の名前を呼べば、返事をしてくれる。いつだって、眠っている時でも。君の優しい気持ちが伝わってくる。ありがとう、ミシェル」


 ニーダーは何も言えなかった。名前を呼べば答える。夢の中でも、ゴーテルが泣かないですむにはどうしたらいいか、考える。たったそれだけのことで、ゴーテルはこんなに喜んでくれる。


 ニーダーの周囲の大人たちは、いつもいつだって、ニーダーに次を、さらに上を求める。出来るのは当然で、出来ないのが問題なのだ。なぜなら、ニーダーはブレンネンの王子なのだから。


 ゴーテルが泣くことは次第に少なくなっていった。あれから、どれくらい朝と夜を繰り返したのか、この閉ざされた小さな部屋にいては皆目見当がつかないけれど、ゴーテルは最初の日以来一度たりとも、ニーダーに暴力をふるっていない。


 ニーダーはわけもわからず、献身的に尽くすゴーテルにされるが儘になっていた。

 わかるのは、ゴーテルがニーダーの母、ブレンネン王妃ミシェル・ブレンネンを狂おしく愛しているということだ。


 ゴーテルのひたむきで危うい愛情が、ニーダーに向けられたものではなくても、ニーダーの胸は暖かいもので満たされる。それと同時に足元からひやりとした罪悪感が這い上って来る。


(僕は彼のミシェルじゃないのに)


 ゴーテルが片手でニーダーを抱き寄せたので、ニーダーはその背にそっと腕を回した。たとえ紛い物であっても、ゴーテルが暖かさと安心と愛情を感じられるように、と気持ちをこめて。


 深雪のようなニーダーの恐怖心は、ゴーテルの愛情で次第にとかされていった。その後に訪れた春は、どうしようもなく刹那的で能天気なものだった。


 ニーダーとゴーテルの二人きりの生活は、奇妙な調和がとれていた。それはとても歪で、隙間だらけで、小さな蟻が一匹、道を誤っただけで崩壊してしまいそうなものだったけれど、少なくとも当の二人は満足していた。ニーダーは魔法にかけられたかのように、心配するべき多くの事をすっかり忘れてしまっていた。


 最初のうちは、ちらちらと気にしていた、固く閉ざされた扉のことは、気にしなくなっていた。その存在すら忘れ始めていた。そうしたら、突然、扉が開かれたのだ。ゴーテルとニーダーは部屋の中にいる。扉を開いたのは、見知らぬ女性だった。


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