連れ去った男2
子供に対する虐待描写(恫喝、殴打)があります。また、少年に対して怪しい言動をするキャラクターがいます。ご注意願います。
扉を解錠して男が戻って来た。飛び上がって驚くニーダーを、微笑ましそうに眺めながら、男はスープ皿を載せたトレイを、ベッドの傍の丸いテーブルに置いた。皿の縁にスプーンを置くと、情けない姿を見せまいと、シーツに潜り込んで隠れ、頭だけを出すニーダーに、にっこり微笑んでうながす。
「熱いから気をつけて食べるんだよ」
ニーダーは男の邪気のない笑顔と、美味しそうな匂いと湯気をたてるスープを睨み付ける。不本意ながら腹の虫がなったけれど、口は付けない。
ニーダーの頑なな態度を見た男は、不思議そうに首を傾げた。
「どうして食べないの? 食べさせて欲しいのかな? いいよ、食べさせてあげよう」
男はスープ皿を手にとり、スプーンでスープをすくう。琥珀色の液体をなみなみとたたえたスプーンが、ニーダーの口元に寄せられる。
「ほら、口をあけて」
そこまでしても、唇を引き結んでそっぽを向いたままでいると、男はやっと、訝しげに眉根を寄せた。
「ん? どうしたのかな? 恥ずかしがらなくてもいいじゃないか。ほら、前にもこうして、食べさせてあげただろう? あの頃はまだ、君はスプーンを上手に使えなくって、殆どこぼしてしまっていたから、俺が手伝っていた。懐かしいね」
ニーダーは男をちらりと見た。男が嘘をついているのではないかと、ニーダーは疑っていた。
幼い頃、ニーダーの世話は乳母がしてくれていた。ブレンネンでは、子どもの世話は女がするものだ。男の世話役なんて、きいた事がない。平民の生活はわからないが、少なくとも貴族の紳士が子守りをするなど、家の恥だと見なされる。
この男はいよいよ、怪しい。もはや、ニーダーを人喰いの獣から助けたのかどうかすら、怪しい。
疑うことに迷いはあるけれど、そうと知らずにころりと騙されるわけにはいかない。この男は、恐ろしい野望を抱いて、王子であるニーダーに近づいてきたのかもしれないのだ。慎重にならなければ。
ニーダーはごくりと喉を鳴らす。緊張に肩を強張らせながら、ゆっくりと、はっきりと言った。
「君は何ひとつ、質問に答えていない。このままでは、君を信用出来ない」
男が瞬きを繰り返す。小首を傾げた。
「いま、なんて?」
男のとぼけた態度が、ニーダーの目には不穏な影としてうつる。ニーダーはおじけづきつつも、それを気取られまいと気持ちを励ました。
「いま、質問しているのは私で、君は答える側だろう。答えてくれ。ここはどこなんだ? 君はいったい……」
ニーダーは言葉を続けずに、息を呑んだ。男が荒々しい動作で、スープ皿を丸テーブルに叩きつけたのだ。
男は俯いている。晒された首筋がかたい。スープ皿の隣で握りしめられた拳が、わなわなと震えた。
「俺を拒絶するつもりか?」
男は背筋が凍るような声で言った。
「いけない。それだけは、絶対にいけないよ。君は俺と一緒にならなきゃいけない。でないと、きっと、必ず後悔する。お願いだ。出来ることなら乱暴はしたくない。君の苦しむ姿を見るのは、とても辛いからだ」
暗い澱みから突き上げるような男の目は、本気だった。ニーダーの心臓が、恐ろしい鉤爪に掴まれる。
ニーダーは飛び退いていた。壁にしたたかに背をぶつけた拍子に、カンテラがベッドの枠組みに当たって割れる。
男が、シーツに燃え移った火に気を取られたすきをついて、ニーダーは寝台から飛び降りた。考えもないが、迷いもない。目の前の男がひたすらに恐ろしい。それはもう、間違いようがなかった。
しかし、突発的な偶然は、あまり時間稼ぎにならなかった。男は簡単に火を揉み消して、扉の前に立ちはだかる。逃げをうつニーダーの体に、男の長く太い腕が伸びて来る。ニーダーは考えるより先に、足元に落ちていたガラス片を手に取った。両手で握りしめ、男の前に突き出す。
破片で手が切れた。血が流れ落ちる。しかし、痛みは微塵も感じない。そんな些細なものを凌駕する恐怖がニーダーを奮い立たせていた。
ニーダーは男を牽制するべくほえた。
「我が身を惜しみ跪くとでも思ったか。見縊るな! 私はニーダー・ブレンネン。気高きブレンネン王の末裔として、その誇りを穢しはしない」
ニーダーは、男が暴力的な衝動に突き動かされることを確信していた。たった今、この男に、母を打つときの父王が重なったのだ。だからこそ、ニーダーは立ち向かわなければならないと思った。背後にいる筈のない母の存在を感じた。
(僕がここで逃げたら、母上を守れない!)
気持ちの問題だ。ニーダーは初めて、暴力で他者を支配しようとする男と対峙した。ここで尻尾を巻いて逃げるようなら、母に乱暴する父王にも、立ち向かえない気がした。
男は前のめりになって、だらりと腕を垂らす。力を抜いているように見えて、その実、いつでも飛びかかることができる、獣の姿勢だ。男は瞳のぎらつきを隠すように、目を細くする。
「こらこら、お転婆がすぎるぞ。そんなものを振り回しちゃ、いけない。君の柔らかな肌に傷がついてしまった。さぁ、そんな物騒なものはこちらに渡しなさい」
「それ以上近寄るな!」
ニーダーが鋭く叫んだ次の習慣には、男は竜巻のように動いた。痛みに苦鳴をあげてから、ニーダーは気が付く。腕を捻りあげられ、硝子片を取り上げられていたことに。
ニーダーの両手を、まるで子ウサギの耳を掴み吊るすように、左の手で纏めて拘束した男は、右手に硝子片を握っている。ニーダーの血に濡れた硝子片を、男は食い入るように見つめている。
男が軋るように首を回して此方を向いたとき、ニーダーは卒倒しないのが不思議なほどに恐怖した。
男は唇の端を耳に引きつけた。オオカミが大きな口を開けるように笑って、男は硝子片を床に落とす。
ニーダーの手を両手で包む込むと、慈しむように撫でさすった。
「この可愛らしい手は、剣などをとるべきではない。いいかい」
そう言って、男はニーダーの両手に唇を這わせた。血まみれの指先、掌を舐めまわし、手の甲に口づける。おぞけがはしり、手を引こうとするけれど、男はニーダーをはなさない。力で押さえつけているようには見えない、優しげな所作が、かえって恐ろしい。
「君の手は、こうして接吻を受け、そっと大切にされるべきなんだ。そうとも。もっと自分を大切にして。君は、とても美しいんだよ」
男の手を振りほどこうともがくニーダーの抵抗を安々といなし、男はニーダーを腕に納める。ニーダーの耳元に唇を寄せて、男はうっとりと囁いた。
「君は神の最高傑作、最も高く跳ねる鹿だ。塔に引き籠った気違いどもにも、森の外の愚かな人間どもにも、それとわかる。誰もが君に欲望を抱かずにはいられない。だれもが君に狂うが、君はどこまでも正気だった。塔を出たいと、願った君は正しい。俺も同じ気持ちだ。あの忌々しい塔は、閉ざされた狂気の壺……正気を保っていたのは、俺たち二人だけだった。俺は、君を連れて逃げるつもりだった……君は待てなかったが」
男の声が地を這うように低くなる。ニーダーがびくりとすると、男はすぐに、とりなすように猫撫で声を出してニーダーの背を撫でた。
「いや、いいんだ。俺は君を責めない。こうして、清らかな乙女のまま、俺の許へ帰ってきてくれた君を、どうして責められるだろう。責められるべきは俺だ。血の呪いに抗えなかった。影の民の血統は、薄まることなく混じり合い、限りなく黒に近づいていく、血の道……俺の血も、姉さんの……同じ胎のなかで、共に育った姉さんの血と……ああ、俺はなんておそろしいことを……! でも、誓って言うよ。俺が愛しているのは、君だけだ。俺の心が君を裏切ったことは、一度たりともない。愛している、俺のミシェル。愛しい姫君」
ニーダーは瞠目した。反射的に、ニーダーは男に問いかけていた。
「どうして、母上の名前を知っているの?」
ミシェルは、ニーダーの母の名だ。父王が王城の高い部屋に閉じ込めてしまった、可哀そうな母、ミシェル。ニーダーと同じ、氷のような瞳をもっている。
(このひとは……僕のことを、母上だと思い込んでいるんだ)
男はニーダーの瞳を真っ直ぐに見詰める。瞬きもしないで見つめたまま、笑みという亀裂がその顔にはしった。
「ははは、おかしなことを言わないでくれ、ミシェル。君のことだよ、ミシェル。君しかいないだろう、ミシェル。ミシェル、その青すぎる目。ミシェル、その冷たい眼差し。ミシェル、君は麗しき姫君。髪をとかせば、櫛に流れるようにゆらぐ、誇らしげな黒髪が……」
男の手が、ニーダーの肩の上で空を切る。男は幻の黒髪を見失っていた。男の目がはじめて、ニーダーを正確にとらえる。瞳孔が針のように引き絞られた。
「なんだ、この色」
男がぼそりと呟く。そして、ニーダーの銀髪を鷲掴みにすると、小さな頭を力任せに振り回した。
「なんて醜いんだ! あの男と同じじゃないか。醜い、醜い、醜い……!」
頭がぐわんぐわんと揺れている。頭が割れそうに痛い。目の前が真っ赤に染まり、何も見えなかった。血の味が口腔にむわりとひろがる。
何度も何度も、床に打ちつけられていることすら、ニーダーにはわからなかった。ただ、男の声が水の中にいるようにくぐもって聞こえていた。
「ミシェルと同じ青い目、あの男と同じ銀色の髪! お前はなんだ、なんなんだ!? ミシェルだろう、ミシェルなんだろう! なら、なぜそんな姿をしている!?」
前髪を掴まれ、頭を引きあげられる。ぶちぶちと音をたてて髪が抜けて行く。頭皮ごと剥がされそうだ。ニーダーは呻き、男の手を引き剥がそうと爪をたてる。しかし、爪を突き立てることが出来ず、固い皮膚の上をむなしくすべった。
よく見えないけれど、男の恐ろしい形相が目の前にある。怒鳴っている。鳩尾のあたりに強烈な打撃を受けて、ニーダーは体を折った。口腔から絞り出された呼気と、なりそこねた悲鳴が漏れる。男は激昂してがなりたてている。衝撃がやまない。
「無様に腹を膨らませて、なんてザマだ! 醜い、醜い、醜い!! その目! 卑しく媚びた、娼婦の目だ! その目であの男にとりいったのか!? 自由と引き換えに身を売ったのか!? ふしだらな女、お前は魔女だ!! なんてひどい女だ。俺の愛を裏切った! 性悪女が、俺をコケにしやがって! 俺は、こんなに愛しているのに、あんな男と……っ!」
男の拳がニーダーの薄い腹に突き刺さる。何度も何度も、突き抜けんばかりに。無意識のうちに両手で腹を庇うと、男は尚更、腹を立てるようだった。
体が火の玉になったようだ。苦痛でかっと燃えている。そのまま焼きつくされるように、ニーダーは意識を手放しかけた。
だらりと、腕を垂らして、しばらくしてからだった。ニーダーを襲っていた暴力がぴたりと止んだ。五感は正常に働かない。ぶよぶよとした膜につつまれているような、奇妙な感覚だ。
どこからか、悲痛な声が上がった。
「嘘だ……嗚呼、俺はなんてことを……大丈夫かい? ミシェル? 頼むから、大丈夫だと言ってくれ!」
さきほどまで、烈火の悪魔のごとく、ニーダーを虐待していた男が、寝台に横たわらせたニーダーの傍らに跪いている。五指が変な方向に曲がってしまった左手を両手で包み込み、縋りつくように泣いている。
「手荒くなってしまって、すまなかった。心の底から反省しているんだ。だが、ああする他にどうしようも無かった、俺の気持ちも理解して欲しい。俺はこのところ、ひどく混乱している。君を失ってからというもの……。君を二度も失ったら俺はもう、正気じゃいられないだろう。君への愛が、それだけ深く俺の心に根付いているんだ。君ならわかってくれるよな? ああ、そうだ。君ならわかってくれるって、知っているんだ。君のことは、君が生まれたときから知っている。俺たちはずっと一緒だった。君の笑顔も涙も、すべてを知っている。そして、もっと知りたいんだ。男として、君という女を、深く隅々まで知りたい」
立て板に水で、ぺらぺらと喋りつづける。男の言葉はすべて、夢の中の妄言だ。ここではない世界に身を置いている。
恐ろしい。恐ろしいからこそ、ニーダーは訊かずにはいられなかった。
「きみは……だれ……?」
ニーダーの手を優しく擦りながら、男は不気味なほどに優しく答えた。
「ゴーテルと呼んでくれ。あの輝かしい頃のように」




