連れ去った男 1
その時のニーダーの目覚めは、酷く不安なものだった。ぴくぴくと震える瞼が開かれると、せき止められていた涙が、頬を伝い落ちる。涙の滴が耳に届く前に拭いとったのは、ニーダーではない。鞣皮のように固い皮膚に覆われた指先は、真っ赤な錬鉄のようだ。触れられた瞬間、冷たいと錯覚するほどに熱いと感じた。
小さく悲鳴を上げて首を竦ませる。ぎゅっと固く閉じた瞼に触れたのは、さっきと同じ指先だ。武骨だが、羽根で触れるように優しい。ニーダーはそろりと目を開いた。
浅黒い顔が、ニーダーを覗き込んでいる。厳しい冬の寒さと空腹に耐えている、オオカミのような顔だった。削げた頬と、ぎらぎらした琥珀色の吊り目が、飢狼を連想させる。
頬はこけているようなのに、顎はがっしりとしていて、つらなる首は太い。衣服のしたに鎧でもつけているかのように、肉体は逞しい。
ニーダーは目玉が眼窩からこぼれおちそうなくらい、目を見開いた。
(え? 待って、彼は誰? ここはどこ? 僕は一体、どうしてしまったんだ?)
目の前には見知らぬ屈強な男がいて、半ば覆いかぶさるように身を乗り出してくる。樹の幹のように太い腕の檻に閉じ込められている。
ニーダーの混乱は極まった。
とても冷静ではいられない。恐怖と焦燥が記憶の糸を縺れさせる。なぜ、こんなことになっているのか、思い出せない。
(もしかして僕は、致命的な過ちを犯してしまったんだろうか? 軽率な真似をして、浚われて……軽率な真似? 待てよ、僕は確か、ルナと一緒に暗い森に……そこで、人喰いの獣に襲われて……)
悩みに悩んだニーダーが、うんうんと唸っていると、男はくすりと含み笑った。ニーダーがおそるおそる見上げると、男は厳めしい顔に柔和な笑顔を浮かべている。ニーダーは目をしばたいた。
男の顔には見覚えがない。それなのに、その眼差しに、奇妙な既視感がある。甘くとろけるような、突き刺さり焼け付くような、微妙に焦点がずれた、そんな眼差し。
「気が付いて良かった。大丈夫かい?」
男の声調は優しく、少なくとも、そこからは危険性を感じ取ることはない。ニーダーの張り詰めていた緊張感が、ほんのすこしだけ撓んだ。
それでも、ニーダーは男と目を合わせていられず、視線を外した。男の熱視線に居心地の悪さを感じていた。それに、顔が近すぎる。
すると、沈黙が続いた。ニーダーは不安になる。沈黙が何か恐ろしいことを招く気がしてならない。
ニーダーはごちゃごちゃになった頭の中にぽんぽんと浮かび上がる疑問府の中から、この男が何者であっても、差し支えがないだろう質問を選びだして、訊ねた。
「君が、助けてくれたのか?」
その可能性が最も高いとニーダーは考えた。なにせ、ニーダーは人喰いの獣に完全に捕らわれていたのだ。あのままでは、まず間違いなく、食い殺されていた。だが、ニーダーは生きている。固いベッドに寝かされて、見知らぬこの男に、恐らくは介抱されていた。
「そうだとしたら……礼をするに吝かではないのだが」
ニーダーは意識して尊大な物言いをした。この男はニーダーがブレンネンの王子であることに気が付いている。ブレンネン王国で、銀髪碧眼が王家の人間を象徴する色彩だと、知らない者はいない。
(人喰いの獣は恐ろしい。人間の苦しみの味を好んでいる。屈強な男が銀火器で武装して徒党を組んで立ち向かっても、一歩間違えば食い殺される。彼は命の危険を犯して、僕を助けてくれたんだろう。僕が王子だと知っていたのか、知らなかったのかは、わからないけれど……その働きに報いる、然るべき報酬を彼は受け取るべきだ)
彼を伴って城へ戻り、ニーダーが自ら彼の功績を伝えれば、父王は褒美をはずむだろう。まがりなりにも、ニーダーは唯一人の王子だ。ブレンネン王国の重要人物の命を救ったのだから、国家に対して多大なる貢献をしたことになる。命の重さに序列をつけるなど、おかしなことだとは思うけれど、そういう仕組みなのだ。
父王に陳情することを考えると、胸に鉛の玉が落ちたようだ。父王はニーダーを侮蔑の眼差しで見据え、諦念の溜息をつくだろう。もしかしたら、母が連累を食らってしまうかもしれない。
(母上のお頼みで森へ言ったとは、口が裂けても言わないけれど……陛下は僕の不手際を、なんとしても、母上になすりつけなければ、気がすまないようだ)
ふと時間が気になる。部屋を見回すが、枕元の鉤に吊るされたカンテラに照らされた部屋には窓がひとつもない。あれからどれくらいの時間がたったのか、自分で確かめる術はなさそうだ。いずれにしても
(きっと、城は大騒ぎだな……)
遠い目をしたニーダーは、そこではっとした。
(そうだ、ルナ! ルナは、大丈夫だろうか? 無事に城に戻ることが出来ただろうか?)
ルナトリアが隠し通路に入って行ったのは見届けた。あのまま真っ直ぐ行けば城に辿り着く。しかし、ルナトリアは足に怪我をしていた。もしも、途中で歩けなくなってしまっていたら、今もまだ、暗い地下通路で蹲っているかもしれない。
ぞっとした。今すぐにでも、ルナトリアの無事を確かめなければ気が済まない。
跳ね起きたかったのだが、肘をついて身を起こしただけで、男の額にしたたかに額をうちつけてしまうだろう。そんな距離に男の顔がある。
ニーダーは困り果てて男を見上げた。男が察して、退けてくれたら良いのにと思う。命の恩人に、起きあがるのに邪魔だから退いてくれ、とは言いにくい。
困惑するニーダーの頬に熱い雫が滴り落ちる。程なくしてその正体を知り、ニーダーは絶句した。
大の男が肩を震わせて泣いている。ニーダーは驚きのあまりに、声も出ない。
(わぁ……大人の泣き顔なんて、初めて見た。大人って、泣くんだ)
父に酷く打たれた母すら、泣いているところを見たことがない。大人はこどもに涙を見せないものなのだと思っていた。
それに、さっぱり理由がわからない。もちろん、理由があるのだろうが、ニーダーには、男が何の脈絡もなく泣き始めたとしか思えないのだ。
唖然としながらニーダーが凝視しても、男は頓着しない。泣き顔を隠そうとすらせず、ニーダーがそうしている以上に、ニーダーを凝視しながら、身を捩るようにして言った。
「なんて青い目だ……君は少しも変わらない! 君のその……朝冷えに凍てついた夢々のような青い瞳と、また、こうして見つめあうことが出来る……なんて幸せなんだ。信じられないくらいに幸せだよ」
感極まったように、男の体躯がぶるりと震える。涙に濡れた男の目が、爛々と光っているのは、カンテラの光の加減だけが原因ではない。
男は獲物を目の前にした、腹を空かせた獣のように、さもしく舌舐めずりをすると、本能的に肌を泡出せるニーダーの顎を掴み、持ちあげた。
黒々と影を纏った男の顔が傾く。呆気にとられていたニーダーが、男の無礼な振る舞いを咎めたのは、男とニーダーの睫毛が絡まりそうなほどに近づいたときだった。
ニーダーは咄嗟に、男の頬を打っていた。打音はあまりにも軽くて、可愛らしいくらいだったが、ニーダーは血の気が引いた。生れてこの方、人を打ったことなどなかったニーダーである。じんと痺れる掌が燃えるように熱い。
ぽかんとしている男の目にうつるニーダーは、彼以上に呆気にとられている。ニーダーは発作的に謝罪の言葉を口にしようとしたが、ぐっと思いとどまった。
ブレンネンの民は王家の庇護と支配の下に置かれている。その序列を乱すことは、果ては国の秩序をも乱すことにつながりかねない。民が許しも無く王子に触れるなど、もっての外だ。
目の前の男の得体が知れず、恐ろしくて堪らなかったとしても、ニーダーは王族として然るべき振る舞いをしなければならない。
ニーダーは顎を少し上げた。出来る限り厳しい声調をつかって、ぴしゃりと言った。
「なにをする。この私をブレンネンの王太子と知っての狼藉か」
男はニーダーを見つめている。面白くもなさそうに、失笑すると、ぶっきらぼうに言った。
「君が何者かなんて、そんな些末事、どうでもいい。重要なのは、君が君だということだ。君は俺の唯一の姫君。それだけが真実なのさ」
ニーダーは目を剥いた。
(なんだ? 彼はいったい、なんだ?)
戸惑いながら記憶の隅々までさらってみるけれど、やはり、この男とは面識がない。ニーダーは顔覚えが良い方ではなく、しばしば父王に叱責を受けてしまうが、いくらなんでも、こんなにも印象深い男を忘れるはずがない。
(……まだ物心つかない頃に、会ったということは……あるかな?)
しかし、ニーダーに「謁見する機会を拝する」ことが出来るほどの貴人ならば、ニーダーとて、その人相を頭に叩きこんでいる。
男は大きな体をするりと引いた。寝台の傍らに立ち上がる。男は人の良さそう笑顔で言った。
「おかしなことを言うね。まだ寝惚けているのかな? まだ、起きていなきゃいけないよ。君は半日も眠っていたんだ。腹になにか入れた方がいい。君の好きなスープを作ったんだ。持ってきてあげるから、待っていてくれ」
そう言うと、男は部屋を出て行った。重々しい施錠の音が、ニーダーをひどく心細くさせる。
ニーダーは上体を起こした。体は健やかで、少しもわるいところはなさそうである。寝台から足を床におろしたとき、ニーダーは素っ頓狂な声をあげて驚いた。
(す、スカートを履いている!)
ニーダーは慌てて立ち上がり、意識がない間に着替えさせられた、己の身形を確かめた。ニーダーがわたわたと動くたびに、ジョーゼットのドレスがひらりひらりと揺れる。薄氷のように繊細で透き通るような純白の絹が、ニーダーの血の気を引かせた。
(こんな姿を、母上やルナに見られたら堪らない……陛下に見られでもしたら、廃嫡されるかもしれないぞ!)
着替えを探して部屋中をうろうろしながら、ニーダーは、恩人の男の正気を疑った。
(彼はちゃんと目が見えているのか!?)
男児に女児の服装をさせるなんて、正気の沙汰ではない。ニーダーは髪を掻き毟りながら、なんとか落ちつこうとした。
(落ちつけ。落ちついて、好意的に考えよう。たまたま、替えの服がこれしかなかったのかもしれない。彼はあまり、裕福じゃなくって……これは彼の娘のもので……)
考え直している最中に、ニーダーはそんなバカな、と失笑してしまう。ニーダーが着せられているジューゼットのドレスは上等な絹でしたてられている。こんなものが、着るものにも困る貧民に仕立てられるわけがない。
(でも……だったら、どうして?)
そう言えば、彼はさっきニーダーをつかまえて「姫君」呼ばわりしていた。ニーダーはひ弱に見えるのだろう。オフィーリア姫になど
「殿下は、姫君としてお生れになればよろしかったの。だって、お姿はお美しくて、気持ちはおやさしくて、控え目でいらっしゃって、お父上のお言いつけをよくお守りになって、それに賢すぎない。大陸中の殿方が求婚なさったでしょうに、残念ですわね」
と辛辣に揶揄されたことがある。
しかし、ニーダーがいかに弱弱しくて女の子のようだったとしても、銀髪碧眼のこどもがブレンネンの王子であることは周知の事実なのだから、女児と見間違う筈がないのに。
(ひょっとして……彼はブレンネンの人間ではない?)




