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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第九話「過日」
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暗い森1

 長く暗い地下道を抜けて地上に出ると、空気が冬のようにひんやりしていた。吹き抜ける風の音に耳を済ませれば、不気味な鳥の鳴き声や、恐ろしげな獣の唸り声が聞こえてくるようで、幼い心はざわめく。

 ぎゅっと手を強く握られて、ニーダーは振り返った。ルナトリアは小刻みに震えながら、ニーダーの背にはりついている。 


 ルナトリアはすっかり怯えてしまっている。幼いルナトリアにもわかるのだ。この森がおかしいことが。


 石の扉の隙間から、森の気配を感じ取った時点で、ニーダーは怖気づいていた。出来ることなら、回れ右して、王城へ引き返したい。こんな恐ろしい森で、何処にあるともわからないコマドリの卵を探すくらいなら、ゴルマックにみっちりしごかれた方がまだ良い。


 だが、残念なことに、ニーダーには引き下がれない理由がある。だから、おめおめと逃げ帰ることは出来ないのだが、ルナトリアはそうではない。ルナトリアは、溢れんばかりの好奇心と、少しの心配から、ニーダーについてきただけだ。いつでも引き返せる。


 けれど、ルナトリアの性格からして、今更帰りたいなんて、言いだせないだろう。ニーダーは気づかうつもりで、もう一度、ルナトリアに言った。


「ルナは、ここに残っていても、引き返してもいいんだからね?」


 これまでは、打てば響くように「殿下にお供します」と答えていたルナトリアだったけれど、今度は迷ったようだった。瞳が揺れて、来た道とニーダーの顔を交互に見る。


「……殿下は、おもどりにならないでしょう?」


 ルナトリアは、ニーダーが翻意することを期待しているようだ。ニーダーを残して帰ることは、どうあっても考えられないらしい。


 ニーダーの笑みがこぼれる。半分は苦笑で、半分は安堵の笑みだった。情けないことだけれど、ルナトリアが付いて来てくれることが嬉しい。一人では、ここから動けなくなりそうだ。


 森へ続く四角い石の扉は、鋭い牙を備えた獣のあぎとのように、ニーダーとルナトリアを待ち構えている。不用意に飛び込めば、顎は閉ざされ、噛み砕かれてしまいそうだ。


 足が竦む。それでも、母の為に行かなければいけない。


(勇気をだすんだ。母上のお心をお慰めすることが出来るのは、僕だけなんだから)


 ニーダーは怯んでしまう心を励ますように、意識して明るく、ルナトリアの問いかけにこたえた。


「うん。ちっとも怖くない。思っていたより、ずっと明るいね。てっきり、一歩先も見えないくらい、真っ暗なのかと思っていたんだ」


 暗い森には、霧雨のように細く弱弱しい日差しがさしている。薄暗いが、真っ暗ではない。日の光は低い霧に差し込み、白くきらきらと光った。それはどこか幻想的で、やはりとても気味が悪かった


 ルナトリアは信じられないと言う表情でニーダーを見上げている。


「……まぁ、殿下。すごいわ。とっても勇敢なのですね」


 ニーダーのぎこちない微笑みに、ルナトリアもまたぎこちなく微笑んで応える。


「殿下と一緒なら、ルナも怖くありません。怖くありませんけど……卵を見つけたら、すぐに戻ってきましょうね」

「うん。そうしよう」


 ニーダーとルナトリアは、手を固く握り直した。温もりを失わずに済んだことに、ニーダーはひどく安堵していた。ついさっきまでは、どうやってルナトリアを置いていこうか、そればかり考えていたというのに。現金なものだと、自分でも呆れてしまう。


 二人は身を寄せ合って、そろそろと暗い森へ足を踏み入れた。


 蔦草に締めあげられ、黒く硬化した木が互いの領地を争うように枝を伸ばし、空を覆い隠す。樹の根が隆起し絡まり合っており、油断していると足をとられそうになる。ニーダーはルナトリアに注意を促しながら、慎重に進んだ。


 ルナトリアはニーダーにぴったりとくっついている。少しでも隙間をつくると、引き剥がされてしまうと信じているのかもしれない。お転婆なルナトリアがはしゃいて駆けて行ってしまう心配は、しなくて良さそうだ。そんなことで、安心できるような心のゆとりは、少しも残っていないけれど。


 ニーダーは少し進んでは、後ろを振り返った。木々の間を縫って、真っ直ぐ進んできた道を確認する。振り返れば王家の秘密通路の出入り口が見える。あれを、見失わないようにしなければいけない。幸いなことに、立ち込める霧は雪のように重く、足元に落ちているので、視界を遮られてはいない。


 後ろを振り返りながら、林冠を振り仰ぐ。鳥の姿も鳥の巣も見当たらない。鳴き声も聞こえない。ニーダーは眉を顰めた。


(ひょっとして、コマドリは近場にはないのかな? よわったな。あまり遠くまで行きたくないのに……)


 ニーダーの浮かない顔を見上げて、ルナトリアがニーダーの袖をひっぱった。


「殿下? どうなさいました? 大丈夫ですか? 怖くなっちゃいましたか? 戻りますか?」


 ニーダーが首を横にふると、ルナトリアは肩を落とした。そうですか、と項垂れる姿は、可哀そうだけれど、すこしおかしい。


 ニーダーは怯えている。でも、ルナトリアはニーダーよりも、もっと怯えている。きょろきょろして落ちつかないルナトリアといると、不思議と恐怖心が波のようにひいていくのを、ニーダーは感じていた。


(怯えるな。小さなルナが一緒だ。僕がしっかりしなきゃ、いけないんだ)


 ニーダーはルナトリアの恐怖を和らげるために、能天気な笑顔をつくった。


「怖くない。ほら、見てご覧。ミルク色の濃い霧が低いところに蟠って、まるで雲の上にいるみたいじゃないか。わくわくしてこない?」


 普段のルナトリアなら、目をきらきらさせて喜ぶだろう、素敵な例えをしてみる。しかし、ルナトリアはすげなく、ふるふると頭を振った。ふっくらとした頬が、すっかり青ざめている。


「いいえ、殿下。怖いわ。これはきっと、悪魔の溜息です。どこからか、悪魔がわたくしたちを見張っているの」


 ルナトリアの不吉な言葉に、ニーダーは目を瞠った。


「悪魔? どうして。悪魔なんかいないよ」

「いいえ、殿下。さっきから、ずっと見張られているのです。そんな気がします。きっと悪魔だわ。そうでなくちゃ、あんな恐ろしい目で、わたくしたちを追いかけて来ないもの!」


 ニーダーは歩みを止めた。ルナトリアの怯えようは、笑い飛ばせる範疇を飛び出している。ニーダーは、ルナトリアに向き合って、真剣に訊ねた。


「ルナ、それは本当? 僕たちは誰かに見られているのか?」


 ルナトリアは心許なさそうな顔で頷いた。ニーダーの背を悪寒という氷塊が滑り落ちる。


(誰かに、尾行されている? それとも……木陰に獣が潜んでいるのか?)


 ニーダーは弾かれるように、ぐるりとあたりを見回す。怪しい風が吹いて、木々がざわめく。言われてみたら、二人の他の、何者かの存在が、何処かに潜んでいるような気がする。その正体を、ニーダーはルナトリアの瞳の中に探した。


 ニーダーを見上げるルナトリアの瞳が、その時、微妙にぶれた。そうして、凍りつく。


 ルナトリアの唇が小さく開いた。消え入りそうな声で何かを必死に伝えようとしているようだが、風の音に掻き消されてしまって、聞こえない。


「え? なに?」


 ルナトリアはぶるぶると震えている。ニーダーは焦燥にかられながら、ルナトリアの震える唇に耳を近づけた。


 震える吐息で、ルナトリアが懸命に囁いていた、恐ろしい言葉がやっと聞きとれた。


「……殿下……うしろ……うしろ……!」


 ルナトリアが見ている、ニーダーの背後に忍び寄るものが、とても危険であるということは、振り返るまでもなく明らかだった。ニーダーの耳にも聞こえてくる。血に飢えた獣の、あらい息遣いが。


 ニーダーは首にかけられた縄を引かれたように振り向く。次の瞬間には、その動作を後悔した。


 木々の陰から忍び寄る、のびやかでしなやかな四足の獣。それは、オオカミによく似ていた。しかし、オオカミより二周りも大きい。さらに、オオカミにはない筈の、ヤギの角が耳の隣からにょっきりと生えている。尾は異様で、白金のサーベルのようだ。

 その体は霧にとけこむミルク色と、影に消える漆黒の輝殻に覆われていた。


 ぴんと立てた三角の耳は、どんな小さな音も聞き逃さない。琥珀色の瞳は鋭く遠くまで見渡す。濡れた黒い鼻は、濃い霧の中にあっても獲物の匂いを嗅ぎつける。


 そうして探しだした獲物を、躍動する四肢で追い詰め、強い牙と爪で仕留めるのだろう。


 ニーダーには、わかった。これは人喰いの獣だ。塩の肉と石の心臓をもち、人の血肉と苦痛を好む。悪魔のような獣である。


 人喰いの獣は、頭を低くして、じりじりと近づいて来る。鼻先に寄せた皺と、吊り上げた双眸、そして轟くような低い唸り声は、機嫌が悪くて、凶暴な様子だった。または、どうしようもなく腹を空かせて、飢えている様子だ。


 ニーダーは生れて初めて人喰いの獣と対峙した。動けなかった。人喰いの獣がどれだけ恐ろしい怪物なのか、大人たちや本から教わったから、知っている。人喰いの獣に襲われ、悪戯に苦痛を与えられ、生きたまま食われた、可哀そうな犠牲者の話しを、何度も聞かされてきた。


 それらの知識がもたらす恐怖は、この場合、なんの役にもたたなかった。ただ、ニーダーの足を竦ませ、心臓を鷲掴みにして、その場に縫いとめただけだ。


 人喰いの獣が頭を低く落とし、前足を撓める。今にも飛びかかろうとしている。怯えたルナトリアが悲鳴を上げた。


 ニーダーはそこではっと我に返った。


(まずい……逃げないと!)


「走って!」


 ニーダーは振り向きざま、ルナトリアの手をとって駆けだす。つんのめるようにして、ルナトリアはなんとか付いて来る。人喰いの獣が追いかけて来ているかどうか、わからない。恐ろしくて、振り返ることが出来ない。


 ニーダーは全速力で走った。心臓が狂ったように鼓動している。体の末端の感覚がない。足をうまく動かせているのか、自信がない。意識してしまうと、途端にもつれて転んでしまいかねない。

 ニーダーは空回りする頭をめぐらせて、なにか役にたつ情報を思い出そうと試みた。


(オオカミは群をつくる。群で狩りをする。群を追われた雄のオオカミは、ひとりぼっちでいるそうだけど……。あの人喰いの獣は、オオカミによく似ていた。きっと、オオカミと良く似た生態をもっているんだ。だとしたら、仲間がいる。陰に潜んで、僕達を狙っているかもしれない!)


 結果的に、恐怖が上塗りされただけだ。待ち伏せを警戒して、周囲に注意を払ったり、回れ道をしたりする余裕もない。足を縺れさせる恐怖を振り払うように、息を切らせて走った。ただ、来た道を戻る。あの石の扉の向こうに、一刻も早く避難しなくては、命がない。危うい足元に注意を払う余裕もない。


 少しずつ、石の扉に近づいて行く。しかし、強引に引っ張っていたルナトリアの体がぐんと重くなった。転びかけたけれど、なんとか堪えたニーダーが振り返ると、ルナトリアは木の根に足をとられて転んでいた。


 冷水を浴びせかけられたようだ。ニーダーはルナトリアの腕を強く引っ張って、叫んだ。


「ルナ、立って! 走るんだ、はやく!」


 ニーダーに急かされて、ルナトリアはなんとか膝を立てたが、痛みに呻いて崩れ落ちてしまった。よく見ると、膝はずるむけ、脛は木の根に皮膚を削りとられ、血と泥に塗れている。目を逸らしたくなるような、ひどい怪我だ。


 ルナトリアは立ち上がろうともがいたが、痛みと焦りのせいで、うまくいかない。ルナトリアは、とうとう泣き出してしまった。


「殿下ぁ、ルナはもう走れません」

「走れる! ルナなら走れる! 走れるから、諦めないで!」


 泣き言を漏らすルナトリアの体を抱えるようにして、立たせようとする。ところが、ルナトリアは手助けをするニーダーをつっぱねた。戸惑うニーダーを、両腕を滅茶苦茶に振り回して遠ざけながら、ルナトリアは泣きじゃくる。


「ダメです、ダメです、ダメなんです! 殿下、ルナはもうダメです。足がいうことをきいてくれません。もう、ルナをおいていってください! ルナが……うっ……食べられているうちに、いそげばきっと、にげきれます……うぅっ……」


 姿を眩ませた人喰いの獣を探して、あちこちさまよっていたニーダーの双眸が、ルナトリアに釘付けになる。ルナトリアが、とんでもないことを言いだしたから、度肝を抜かれてしまった。ニーダーの答える声は、悲鳴のようだった。


「なんてことを言うんだ、ルナ! バカなことを言っていないで、立ち上がる努力をしてくれ! つかまったら、本当に食べられてしまうぞ!」

「そうです、このままじゃ、二人とも食べられてしまいます!」


 強引に掴みあげようとするニーダーの腕を振り払って、ルナトリアは癇癪を起したように喚いた。


「殿下のことは、ルナがかならずお守りするんです! 殿下はブレンネン王国の大切なお方ですもの。なにがあっても、ルナがお守りしなきゃいけないんです! お父さまが、いってたの……ルナは『殿下の忠実な友』にならなきゃいけないって! いざとなったら、殿下の盾になって、殿下をお守りしなきゃいけないの!」

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