高い塔の惨劇
シーナが痙攣する瞼をもちあげる。コハク色の双眸が愕然と見開かれた。
「ひ、めさ、ま……どうし、て……?」
「シーナ、シーナ、シーナ!」
ラプンツェルは夢中になって手を伸ばす。ノヂシャはもがくラプンツェルの体を軽々と掲げた。そして高らかに声を張り上げた。
「ニーダー! 見てくれよ、ニーダー! 連れて来た、言われた通り、連れてきた! 良い子だろ、俺は、良い子だろ、ニーダー! 良い子にしてるから、返してくれ、マリアを! ヨハンを! 返してくれよぉぉぉ!」
ラプンツェルは反射的に身をよじった。しかしノヂシャは、ラプンツェルの抵抗を軽々といなしてしまう。もがくうちにノヂシャと目が合い、ラプンツェルは震えあがった。
ノヂシャがニーダーに反逆するなんて、あり得なかった。ノヂシャの目には一かけらの希望も残っていない。暗闇が覗きこんだ者をも取り込む、絶望の渦がそこに口を開けている。
壊れていた。ノヂシャは既に壊されていたのだ。シーナを刺し貫きながら、陽気に声をたてて笑うニーダーに。ニーダーは良い子だ、とノヂシャを褒めた。
「良い子だ、ノヂシャ。よくやった。あとでちゃんと届けてやるさ、お前の大切な家族をな」
「ヨハン、マリア、マリア、ヨハン! ふふふ、ははは、ありがとう、ありがとう、ニーダー! あははは、あははははは!」
ノヂシャが哄笑する。かっと瞠目した双眸から、夜のように黒い血の涙が淋漓とくだった。ラプンツェルは泣きながら、ノヂシャの肩をつかんで揺さぶった。ノヂシャは笑ったままだ。まるで壊れたおもちゃだった。
ラプンツェルはニーダーを睨み上げ、喉が張裂けんばかりに叫ぶ。
「もうやめて、シーナを放して!」
ニーダーがひょいと眉を跳ね上げる。ラプンツェルとシーナを見比べて、困ったように笑った。
「私は構わないが……それはちょっとまずいんじゃないか?」
え? とラプンツェルが声を上げると、ニーダーは銀の刃を一閃させた。宙に放り出されたシーナの体は、血の尾をひいて、真っ逆さまに落ちてくる。両腕を広げたラプンツェルの目の前で、剣状柵の切っ先にふかぶかと刺し貫かれた。
「え……えぇ?」
なぜだろう、とラプンツェルは思った。
なぜ、シーナの喉から、お腹から、柵が突き出しているのだろう。
なぜ、シーナはこんなに血だらけなのだろう。
なぜ、シーナはそんなに悲しそうな顔をしているのだろう。
茫然自失のラプンツェルに、シーナは震える手を差し伸べた。ひび割れた唇が、ぶるぶると震える。
「……に、げ、……くだ……さ……ひめ、さ……」
ラプンツェルはノヂシャの腕から跳ね起きた。シーナの手を両手で握ろうとする。しかし、ラプンツェルの手が届く寸前に、シーナの手はおちてしまった。
「し、しし、シーナ……シーナ……」
ラプンツェルが呼べばいつだって「姫さま、お呼びですか?」と即座に応えてくれたシーナが、目の前にいるのに応えてくれない。人形のような虚ろな顔で、物言わぬ四肢を投げ出している。ラプンツェルの伸ばした手が、もう届かない。
ラプンツェルは行き場のない手で、顔を覆った。こうすれば、見たくないものは見えない。
「あ……ああ……あああああああああ!!」
ラプンツェルは顔を五月雨に掻き毟り絶叫した。こうすれば、聞きたくないものは聞こえない。それでも、感じたくない痛みは消えない。
もう取り返しは付かない。
「だから言ったんだ」
ニーダーの嘲弄。兵士たちのどよめき。ノヂシャは悲嘆にくれるラプンツェルを供物のようにささげ持ち、ニーダーに媚びた笑みを向けた。
「ニーダー! ニーダー! 聞いてくれ! あんたの妃を、裏切り者を、連れてきた! 俺が連れて来たんだ、俺が、俺が彼女をこんな風にした! 俺が、俺、おれ……」
黙りこんだノヂシャの隣に、ニーダーがバルコニーから身軽に降りたった。あの高さから飛び降りたのに、平然としている。ニーダーはノヂシャの肩を気安く叩いて「それはもう聞いたよ」と楽しそうに笑っている。そうして、ノヂシャに抱えられたラプンツェルを見下ろし、顎を掴んだ。
ニーダーは無感動な瞳をひたとラプンツェルに据えている。蝋燭のともしびが消えることを恐れるように、ひそかな声でニーダーは言った。
「……ラプンツェル。私を、裏切ったな」
ニーダーの瞳の奥に、怒りが燃えている。それを見た途端、触発されるように、燻っていた憎悪がラプンツェルの総身をあっと言う間に舐め上げた。
ラプンツェルは力いっぱいニーダーの頬を叩いた。唇を割って、憎悪が噴き出す。
「黙れ、黙れ黙れ黙れ! 裏切るなんて、お前は最初から、そんな言葉に値しない! 悪魔とはお前のことだ! 殺してやる! 火炙りにして殺してやる!」
再び振り上げた手首が、騒ぎを聞き付けた隻眼の騎士に掴まれる。たいして力をいれているようではないのに、びくともしない。
ぎりり、と手首が絞め上げられたかと思うと、次の瞬間、ものすごい力がこめられる。ラプンツェルの手首を潰そうしているのか。隻眼の騎士の怒気が熱量をもってラプンツェルの肌をじりじりと焼くようだった。
ラプンツェルは悲鳴を上げると同時に痛みから解放される。ニーダーが隻眼の騎士の手を払ったのだ。
「ラプンツェルに触るな」
吐き捨てるように言うと、隻眼の騎士の物言いたげな沈黙にこたえず、ニーダーは人形のようになってしまったノヂシャからラプンツェルを受け取り、地面におろす。挑むように見上げるラプンツェルの頬に手を添えると、その手でラプンツェルの頬を打った。
足を踏ん張っていたにも関わらず、ラプンツェルの軽い体は吹き飛びかける。それを許さずに、ひきとめたニーダーは、ふらつくラプンツェルの唇にキスをした。嫌悪にかられたラプンツェルが唇に噛みつくと、ニーダーは唇をはなす。流れ出た血を舐める舌が、不吉なほどに紅い。血で濡れた口唇もまた紅く
「悪い子には、お仕置きが必要だな」
下弦の月の形にたわんだ唇が、傷跡のように浮かび上がっていた。