殿下とルナ3
ルナトリアは困惑したように眉を潜めている。複雑な思いが浮かび上がるニーダーの微笑みから、何を汲み取ったら良いのか、迷ってしまったのだろう。ニーダー自身、この名状しがたい感情を持て余している。
ルナトリアがニーダーの絵という名前の心を愛でてくれたのは、掛け値なしに嬉しい。嬉しいのだ。けれども。
(ダメなんだ。ダメなんだよ、ルナ。僕は王子だから、完璧じゃなくちゃいけないんだ。絵を描くなら、見た人が皆、すばらしいと感動するような絵を描かなきゃ、いけないんだよ)
ニーダーには完璧である自信がない。ほっそりとした震える線と、淡く霞むような色彩は、ニーダーの心の弱さだ。ルナトリアやイレニエル公爵といった、好意的な人々の目には優しさという好ましいものにうつるかもしれない。けれど、大多数のひとの目には、見たとおりの弱さとしてうつる筈だ。
「王子のくせに、なんて頼りない心をもっているのだろう」
と失望され、落胆されるのが関の山だと思う。それこそが、名王と名高い父王がくだした評価なのだから。
ニーダーはしょんぼりした。
「自信がないんだ」
ニーダーがうっかり漏らした本音をきいたルナトリアは、ひどく驚いた顔をしていた。
「まぁ、殿下ったら、また、おかしなことをおっしゃって! 殿下は、もっと自信をもたなきゃいけません! 『殿下に足りないのは、ご自身にたいする信頼と愛情だ』って、お父さまもいっていました」
ルナトリアは心からそう思っているようで、ちゃんとそう聞こえる口ぶりだった。ルナトリアの気持ちは嬉しいけれど、ニーダーは全幅の信頼を重いと感じてしまう。そんな自分が情けなくて、ニーダーは「ありがとう」のあとに、余計な言葉を付け足してしまう。
「君たちの気持ちは嬉しいよ。でも、僕が不甲斐ない王子だから、いけないのさ。僕がもっとうまくエスコート出来れば、姫はあんなことを言わなくて良かったし、ルナに嫌われることもなかったんだろうね」
ルナトリアはゆっくり瞬きをすると、頬を膨らませて、ぷいっとそっぽをむいてしまった。爪先で草をかきわけながら、ぼそりと呟く。
「オフィリア姫のことなんか、知らないわ。……殿下にはいつもにこにこしていて頂きたいけれど、それでも後悔してしまうなら、あんな意地悪姫のことは気になさらないで『ルナがお父さまに叱られることもなかった』って、そう嘆いてくださればいいのに」
普段は、もう少し声をおさえた方が良いと思うくらい、大きな声ではきはきと話すルナトリアの小さな呟きを聞きとることが出来なくて、ニーダーは「え? なに?」と訊き返す。ルナトリアは顔をあげると
「なんでもありません」
つけつけと言ってから、一転して、にっこりとほほ笑んだ。
「お父さまが、心配していました。『殿下はご自分を律しすぎる』って。どういう意味かおわかりになりますか?」
「ええと……僕がきまりを設けて、僕自身を管理している……それが、いきすぎているってことだね」
語彙の豊富さに関してなら、ちょっとした自信がある。伊達に本ばかり読んではいない。
「やっぱり殿下はものしりですね!」
とルナトリアが拍手をしたので、ニーダーは照れくさくなって頬をかいた。
父王や教師たちと違って、ルナトリアはちょっとしたことでニーダーを誉め称える。イレニエル公爵がそうするからだろう。彼らの大袈裟な称賛は、ニーダーをいたたまれなくさせるけれど、少しだけ、得意にもさせる。だから、自慢出来るほどではないとわかってはいるけれど、知識をひけらかすような真似を止められない。
ルナトリアは笑顔を消すと、大真面目に言った。
「ルナもわかります。お父さまにききました。つまり、殿下はガマンのしすぎなのです。がんばりすぎています。もっと自由に、ワガママに、なってください」
ニーダーは苦笑してしまった。ニーダーが我慢をし過ぎているなんて、そんなことを言うのは、ルナトリアとイレニエル公爵くらいである。父王をはじめとして、城の大人たちは皆、ニーダーに足りないのは努力だと思っている。出来て当然のことが出来ていないのだから、そう思われて当然なのだ。母が父王に辛く当られてしまう程、ニーダーは不束な王子なのである。
ルナトリアとイレニエル公爵が、ニーダーを砂糖漬けのように甘やかそうとするのは、二人が優しいからだ。優しいから、ニーダーが王の器であると信じてくれている。信じてくれているから、優しくしてくれるのだ。
二人の信頼に報いる為にも、不断の努力が必須だろう。努力をする為には我慢が必須だ。自由が欲しいなんてワガママを言っていられる余裕は、実のところ、ニーダーにはない。
ニーダーは悪戯っぽく微笑みかけて、訝しそうに顔を顰めているルナトリアをからかった。
「ルナみたいに?」
「まぁ、ひどい殿下! ルナは、ワガママじゃありません!」
他愛なく腹をたてるルナトリアの頭を、ニーダーは暴れ馬を宥めるようによしよしと撫でた。
「わかっている。冗談だよ。ルナは優しい良い娘だ」
「ほんとうに? ほんとうに、そう思っていらっしゃいますか?」
「もちろん」
「じゃあ」
ルナトリアは前髪をかきあげて、額を露出させる。爪先立ちをして、目をつむった。
鈍いニーダーだが、ルナトリアが何を待っているのかは、わかる。何度となく繰り返してきたやりとりだ。ニーダーは軽く笑って、ルナトリアの額にかすめるようなキスを落とした。
ルナトリアは額にキスをされるのが好きなのだ。はじめて強請られたときはまごついてしまったけれど、何度も何度も強請られているうちに、恥ずかしがらずにキスが出来るようになった。
額にキスをすると、ルナトリアはえへへ、と嬉しそうにわらって、ニーダーに抱きついた。
「『殿下は、おやさしすぎる』って、お父さまが言っていました。でも、やさしすぎて困ることなんて、ないと思います。わたくしはおやさしい殿下がだいすき」
ニーダーの胸に頬をすりよせるルナトリアの頭を撫でながら、ニーダーは心の中でそっと溜息を吐く。
(わかってないな。ルナ、僕は優しくなんかない)
嫌われるのが怖いから、自分より相手の気持ちを優先するだけだ。本当に優しいなら、嫌われてでも、ルナを置いて行くべきだと思う。ルナがどんなに、ついて行くと言い張っても。地団駄を踏んで悔しがっても。非情になって、置いて行くべきだ。
それに、とニーダーは高い窓を見上げた。閉ざされた窓硝子にうつる青空は、虚ろな色をしているように見える。ニーダーはシャツの胸元を握りしめた。
(母上のお頼みも、お断りするべきなんだ。本当は)
本当に母の為を想うのならば、母の頼みをつっぱねた方がいいに決まっている。ニーダーにはうまくやる自信がないのだから。
それが出来ないのは、母に嫌われるのが怖いからで、所詮は、母よりも自分自身が可愛いから、なのだろう。
(なんて情けないんだろう、僕ってやつは)
暗い緑色の草が生い茂るニーダーの視界に、ルナトリアの丸い顔が飛び込んできた。ルナトリアは腰を屈めて、ニーダーを見上げている。驚いてのけぞるニーダーを逃がすものかと首っ玉にすがりついて、ルナトリアは声をたてて笑った。
「まぁ、殿下ったら、怖いお顔! また、むずかしいことを考えておいでですね? 殿下は、かんたんなことをむずかしくする、名人でいらっしゃいます! ルナは殿下が大好き。だから、殿下がお妃さまのお願いごとを叶えてさしあげる、お手伝いがしたいのです。それで、いいじゃありませんか」
「でも……危ないんだよ」
煮え切らないニーダーに痺れを切らしたルナトリアは、ニーダーの頭をぐいっと引き寄せる。ごつん、と額と額がぶつかった。ニーダーも痛かったが、ルナトリアも痛かったのだろう。でも、自分がやった手前、痛いとは言えないようだった。
「わかっています。だから、殿下おひとりではいけません。ルナがお供して、殿下をおまもりしなきゃ」
ニーダーはルナトリアの赤くなった額を優しく擦ってやりながら、涙の膜がはったはしばみ色の瞳を覗き込んだ。
「ルナが僕を守るの?」
ルナトリアは擽ったそうに首をすくめて笑い、はりきって頷いた。
「はい! お父さまの剣のお稽古を、ルナはいつも見ているので、剣の振り方はおぼえています!」
そう言って、ルナトリアは身をひるがえす。灌木の生垣の下におちていた枝を一本拾い上げると、ぶんぶんと振り回した。
「こうやるんです。えいっ、やぁ!」
尖った枝の先端がニーダーの頬を掠める。ニーダーは飛び退いて、悲鳴をあげた。
「ルナ、振り回しちゃダメだ! 危ないだろう!」
「平気です! ルナはスジが良いって、お父さまもゴルマック卿も、ほめてくださったんですよ。てぇい!」
そういうと、ルナトリアは枝の剣の検先をニーダーの、ぎりぎり鼻先につきつける。ニーダーは寄り目になった。
枝の先端に、ニーダーの親指くらいの、丸丸と太った芋虫がしがみ付いている。ぶんぶん振り回されて、堪らなかったのだろう。芋虫はぐっと身を擡げて、ニーダーの鼻先に乗り移ろうとした。
ぷにぷにした柔らかい芋虫の、無数の小さな足がニーダーの鼻先をかすめる。ニーダーはわっとおめいて、尻もちをついた。
「虫! ルナ、その枝、虫がついてる!」
恐れ慌てたニーダーの視線を辿ったルナトリアは、枝を顔の近くにもっていき、まじまじと芋虫を見つめた。芋虫とルナトリアが、見つめあう。
「まぁ、いもむしさん! そんなとこにいたの。きがつかなくて、ごめんなさいね」
ルナトリアは躊躇いなく芋虫を摘まみ上げて、灌木の葉っぱの上におろした。
「はい、どうぞおかえりなさい、いもむしさん。きれいな蝶々さんになって、また会いに来てくださいね」
ルナトリアは、もぞもぞと葉っぱの影に隠れるいもむしをにこやかに見送る。一部始終を、青ざめて眺めていたニーダーを、ルナトリアがぱっと振り返った。それから、ぷっとふきだした。
「ほら! ルナがこうやって、虫さんをとってさしあげなきゃ。殿下、こまっちゃうでしょう?」
言いたいことは、山ほどある。けれど、その殆どが、ルナトリアを不機嫌にさせたり、泣かせたりする危険性のある類のものだったから、ニーダーはそれら全てを飲み込んだ。
がしがしと頭髪をかきまぜて、ニーダーは弾かれたように居上がる。ルナトリアから枝を取り上げ、灌木の茂みに投げ捨てる。言葉も一緒に投げ捨てた。
「わかったよ。ただし、約束するんだ。僕の傍を離れないこと。僕の言うことをよく聞くこと。ひとりでどこかへ行ったりしちゃ、絶対にダメだからね。そうじゃなきゃ、君を守ってあげられない」
「大丈夫です。殿下はブレンネン王国のすべての民をおまもりくださるお方ですもの。ルナのことも、まもっていただけます。ルナは殿下を信じています!」
ルナトリアの無邪気な笑顔を見ていると、ニーダーの腹の底にわだかまっていた不満は、魔法のように消えてしまう。そのかわりに、何があっても、ルナトリアを守らなければいけないという責任が重圧となって、ずっしりと圧し掛かって来た。
ニーダーはいずれ、ブレンネン王国を背負う身だ。しかし今はまだ、ルナトリアひとりを背負うだけでも、押しつぶされそうになる。
ニーダーとルナトリアは、生垣の下をウサギが掘った穴をくぐりぬけて、中庭を抜けだした。哨戒する兵士にみつからないように、小さな体を茂みに隠して少しずつ進む。途中で何度も、何のきっかけも無いのに、ルナトリアがくすくす笑いの発作を起こしかけたので、ニーダーはその都度、青くなってルナトリアの口をふさがなければならなかった。
馬車が通る、石畳の大きな道を横切ると、やっとのことで、王家の墓地へと続く、輝くシラカバの並木道にでた。
王家の墓地へ向かう道すがら、ルナトリアはご機嫌だった。小さく歌を口ずさみ、足取りは舞踏のステップを踏んでいるかのように軽やかだ。ルナトリアはニーダーの手を引っ張って斜め前を歩く。こまめに振り返っては、満面の笑みでニーダーに話しかける。本当に楽しそうだった。
「殿下は、お妃さまがお好きなんですよね。ルナも、お妃さまが好きです。だって、お妃さまのお願いごとのおかげで、殿下と冒険ができるんですもの! お妃さまのお願いごとがなかったら、殿下は大人がよろこぶ、つまらないことしかなさらないでしょう?」
(つまらないって……一言余計だよ、ルナ)
心の中で文句をつけながら、ニーダーは周囲に目を光らせる。警戒することに余念がない。しかしルナトリアに
「まぁ、殿下! きょろきょろしすぎです。まるでおびえた雪ウサギみたいです」
と指をさされて笑われたので、やめた。ニーダーは行く先を見据えて、ずんずんとルナを追い越して歩いた。何かに付けて足をとめるルナを引っ張って先を歩く。
(ルナはちっともわかってない。遊びに行くんじゃないんだぞ。やっぱり、連れて来るんじゃなかった)
ルナトリアは頭上を飛び交う小鳥を目で追い、目の前を通り過ぎる蝶々に手をのばし、木を駆け上るリスを指さして、能天気にはしゃいでいる。
ルナトリアはニーダーの手としっかり繋ぎ合わせた手を元気よくふりながら、笑顔で話しかけてくる。ニーダーは生返事を繰り返していた。
ニーダーがろくに相手をしてやらなくても、ルナトリアはひとりで喋り続ける。
「ねぇ、殿下。ルナもお妃さまにお会いしてみたいです。どんなお方なのかしら? 殿下のお母さまだもの。きっとおきれいで、おやさしいお方なのでしょうね」
ニーダーが視線を向けると、ルナトリアはにこにこと笑っていた。
「ルナのお母さまは、ルナにそっくりだったんですって。お父さまが言っていました。ルナも大きくなったら、お母さまみたいな、すばらしい淑女になれるんですって」
ルナトリアの顔に寂しげな影が落ちる。それは、健やかな木漏れ日の陰ではなさそうだった。ニーダーはすかさず言った。
「そうさ。ルナはブレンネンの淑女の鑑になれるよ」
それから、はたと思いついて、にやりと笑いつつ、余計なひと言を付け足す。
「ただし、ルナがもっとお淑やかにして、虫を捕まえて僕を追い回さなければの話だけれど」
わざと意地悪な言い方をしたので、ルナトリアは間違いなく怒り出すとニーダーは予想していた。ところが、ルナトリアは少しも怒らなかった。ただ、真っ直ぐにニーダーを見つめて、こうきいた。
「殿下は、おてんばなルナはおきらいですか?」
ルナトリアがとても真剣な様子だったので、ニーダーはやや面食らいながらも、慌てて否定した。
「そんなこと、ない。ルナがブレンネンの淑女じゃなくても、僕はありのままのルナが好きだよ」
そう言うと、ルナがほっとしたように笑ったので、ニーダーもほっとした。ルナトリアはニーダーの手をぎゅっと握りしめる。
「だったら、ルナはいまのルナのままでいいと思います」
ルナが元気よく言ったので、ニーダーは安心して、ふざけてまぜっかえした。
「でも、そうしたらお嫁にいけないぞ」
「殿下がもらってくださればいいんです」
「ははは。心配しなくても、大丈夫さ。イレニエル公爵が、君にふさわしい紳士を選りすぐってくれるよ」
ルナトリアは答えない。ニーダーが振り返ると、ルナトリアは足元に目を落としていた。
(蟻の行列でも見ているのかな? 立ち止まらないように、ちゃんとひっぱって行こう)
ニーダーが前に向き直ると、ルナトリアが囁くよりも小さな声で言った。
「ルナは、好きなひとのお嫁さんになりたいです」
その呟きはニーダーの耳にちゃんと届いていたけれど、ニーダーは聞こえないふりをした。
ルナトリアはブレンネンの王侯貴族の娘だ。結婚は貴族の務めの内。庶民のように、自由に気儘に相手を選ぶことは出来ない。
(ルナはまだ小さいから、きっと言って聞かせても、納得できない。かわいそうだから、今は何も言わないでおこう)
女の子ならば、物語のような、胸がときめく運命の出会いを期待するだろう。いずれ、理想と現実の折り合いをつけなければいけないとしても、今はまだ、夢を見ていられる罪のない時期の筈だ。
(心配しなくても、大丈夫だよ、ルナ。イレニエル公爵は君を愛している。君を不幸にする縁談をもってきたりしないさ)
ニーダーは、痛いくらいに握りしめて来るルナトリアの手を、卵を包みこむように優しく握り返す。太陽の角度をみながら、王家の墓地を目指す。




