殿下とルナ2(2015.08.29加筆)
ルナトリアの目の奥で、ばちっと火花が散った。ルナトリアは昂然とニーダーを睨み上げると、地団駄を踏んで叫んだ。
「やっぱり! ウソつき殿下! もうぜったいに信じない!」
「聞きわけてくれ。今度の母上のお頼みは、本当に危ないんだよ」
困り果てて、ついうっかり、口を滑らせてしまう。はっとして口を押さえるが、ルナトリアは聞き逃してくれなかった。
「お妃さまのお願いごとですか?」
ルナトリアの目がきらきらと光っている。ニーダーは思わず天を仰いだ。こうなったルナトリアは、好奇心の塊だ。イレニエル公爵の鞭をもってしても、もう止められない。ましてや、ニーダーに止められるわけがない。
ニーダーは観念して白状した。
「実はそうなんだ。母上はコマドリの卵をご所望で」
ニーダーが言い終わるまで待ち切れず、ルナトリアの甲高い声が、高らかに食い込んできた。
「ルナにおまかせください! 殿下がのぼられているあいだ、ゆれないようにしっかりと、木をおえていてさしあげます! このまえ、木の実をとったみたいに。もしも、木の実のかわりに殿下がおっこちてきたら、ルナはうけとめてさしあげますね!」
声だけではなくて、ルナトリアは体ごと弾んでいる。ニーダーは遠い目をして、過去を思い返した。
母の願いをかなえるために、半べそをかきながら木登りして、一番高い木の実に手を伸ばしたとき、ただ待っていることに飽きてしまったルナトリアが
「殿下、殿下ぁ! ごぶじですか? だいじょうぶですか? 殿下、まだですか? 殿下、ルナはたいくつしています。おはやくおもどりください! でーんーかー!」
と騒ぎ出し木を揺すったので、ニーダーは木から落っこちた。新しい記憶だ。あのときの体を無理やり縮められたような苦痛も、しっかりと覚えている。
(僕が木から落ちるだけなら、まだいいさ。でも、受け止めるってはりきったルナを下敷きにして、押しつぶしたら、大変だぞ)
ルナトリアには、悪気がない。悪気はないのだが、肝心なところで、ちょっとだけ、ニーダーの邪魔をする。
ルナトリアを諦めさせるには、どうすればいいだろう。ニーダーは知恵を絞って考えた。
最後の切り札として、少しかわいそうだが、おどかしてみることを決める。ニーダーはわざと怖い顔をして、ルナトリアにずいっと顔を寄せた。
「……コマドリの卵は、暗い森にしかないそうだよ。いいかい、暗い森に行かなきゃいけないんだ」
ルナトリアが息をのむ。うまくいった、と拳を握った。ところが、束の間の喜びだった。ルナトリアは手を叩いて歓声を上げた。
「暗い森へ行かれるのですかっ? ルナは、暗い森にいったことがありません。やっぱり、ルナもいっしょにいきます!」
ニーダーはえっと声を上げた。どうやら、当てが外れたようだ。ルナトリアは、暗い森の恐ろしさを知らないのだろうか。ニーダーは心配になって、ルナトリアにきいた。
「ルナ、暗い森のことは、イレニエル公爵から聞いているよね? 恐ろしい森だよ。人喰いの獣が出る」
ニーダーの噛んで含めるような物言いが気に入らなかったらしく、ルナトリアは目を三角にして食ってかかってきた。
「もちろん、知っていますよ。ブレンネンの子なら、みんな知っています。バカにしないでください」
頬を膨らませるルナトリア。ニーダーは困惑しながら、おずおずと確認する。
「僕の思い違いなら、いいけど……暗い森はとても楽しそうな場所だと、考えているんじゃないだろうね?」
すると案の定、ルナトリアは淑女らしからぬ、にやにや笑いをして、声を潜めた。
「ねぇ、殿下。大人がダメっていうことは、たいてい、すごくおもしろいんですよ!」
そういうと、ルナトリアは興奮した様子で、身振り手振りを交えて話しだした。
「このまえね、こっそり屋根裏にあがったんです。お父さまのお言いつけをやぶって! そうしたらね、しっぽまで入れたら、こぉんなに大きなネズミがたくさんいたんです。ネズミの赤ちゃんもいました。すごくかわいかったの」
ルナトリアは誇らしげに薄い胸をはっている。ニーダーは顔を引き攣らせて、ルナトリアの武勇伝を聞いていた。
顔より大きなネズミなんかと遭遇したら、ニーダーは卒倒するかもしれない。
想像しないように気をつけながら、そうなんだ、と愛想笑いを返そうとしたとき、ニーダーの記憶の中から、父の教えが勝手にとびだしてきた。
『王には時として、民に憎まれることも、敢えて行わなければならぬ時がある。それが民の、ひいては国の為となるならば、我々は憎悪を甘んじて受け入れるべきだ』
ニーダーは無責任に開こうとした唇を閉ざした。父の教えについて、よく考えてみた。そうしたら、無責任なご機嫌とりは、とても出来ないと思い直した。
気が重かったけれど、ニーダーは言った。
「そういう考え方は、危ないんじゃないかな」
ルナトリアの顔から、蝋燭の火を吹き消したように、わくわくした、楽しそうな笑みが消える。心苦しいと思いつつ、ルナトリアの為に言わなければいけないことだと、ニーダーは己を励ましながら続けた。
「イレニエル公爵は、君を危険から遠ざけようとしているんだよ。屋根裏に上がるのを禁じていたのも、きっとその為さ。僕も、屋根裏は危ないと思う。床が抜けるかもしれないし、それに、ネズミに噛まれたら、病気を貰ってしまったかもしれない。君が無事だったから良かったけど、今後はやめておいたほうがいい」
ルナトリアは苦い薬を一瓶飲まされたような顔をしている。途中でくじけそうになりながら、ニーダーはなんとか言うべきことを言い切った。
適当に話を合わせて、いい気持ちにさせることは、簡単に出来る。実際に、ニーダーは本心に蓋をして、いい顔をすることが少なくない。そんなニーダーを、父王がいつも苦々しい顔つきで見ていることを、ニーダーは知っている。
ニーダーが無理をして忠告したのは、ルナトリアのことが好きだからだ。ルナトリアは気分を悪くするだろうけれど、ここでニーダーが安易に調子を合わせて、ルナトリアが同じような無茶を繰り返していたら、そのうち本当に、取り返しのつかないことになりかねない。そうなってからでは、いくら悔やんでも悔やみきれない。
しかし、やってみてわかったことだが、反感を買うとわかっていて、相手を否定することは、すごく疲れる。
(陛下は国の為に、常にこれを行っていらっしゃるんだな)
やはり父王は強いのだと、ニーダーは思った。ニーダーとは違う。父王は強いから、常に正しいという自負をもっていられる。ニーダーのように、びくびくして、迷って、他人の顔色をうかがったりしない。
「つまらない殿下」
千切って投げるように言ったのは、ルナトリアだ。
「殿下って、いっつもそう。そんなだから、オフィリア姫にきらわれるんです」
丈高き霊山の向こうにある隣国の王女、オフィリア。実り多き国交を結ぶべく、二国の王家は交流を始めたばかりである。父王が隣国の王妃とその娘、オフィリア王女をブレンネンに招いたのは、つい先の月のことだ。
隣国の王妃と王女が、銀の瀑布を抜けて来ると聞いた時、ニーダーはその旅に携わる全ての人々の正気を疑った。古の伝承には、生きる銀は時として、女性の体を奪うとある。王妃が出立したと聞いてから、ニーダーは顔も知らない女性らの無事を毎晩、神に祈った。
隣国の王妃と王女は無事にブレンネン王国の地を踏んだ。
隣国の王妃は常春の花の精のように可憐だが、国益の為、霊山の断崖を超える険しい旅路に挑む烈女である。優しくも凛として、大勢の供を引連れる姿も威風堂々と様になる。男性の後ろに控えるブレンネンの女性とは、まったくの別物であることは、一目瞭然だった。
ニーダーの憂慮など、王妃の傍ら、つり上がった目でニーダーを見据えていたオフィリア王女に知られたら、大きなお世話だと一笑にふされたに違いない。
オフィリア王女はニーダーより三つ年上で、オフィリア王女の滞在中、最も年の近い王族であるニーダーが、王女の相手を任された。しかし……このオフィリア王女、たおやかな王妃の娘とは俄かに信じがたいほど、苛烈な気性をしている。
二言三言、言葉を交わしただけで、二人は水と油のように、分かり合えないだろうとお互いに悟った。
ニーダーはオフィリア王女が苦手だ。オフィリア王女は王女で、ニーダーのやることなすこと気に入らないらしい。ニーダーが言い返さないから、喧嘩には発展せず、オフィリア王女がへそを曲げるだけなのだけれど、それだって、小心者のニーダーには辛い。
二人の関係は険悪なまま、改善の兆しはない。それなのに、ブレンネン城でひらかれた華やかな舞踏会で、ニーダーはオフィリア王女をエスコートしなければならなかった。
思い出すだけで、腹の底に重い石がずどんと落とされるようだ。
華やかは席で、ニーダーはオフィリア王女の嫌味や非難に耐えながら、のろまな時計の秒針をのろいたくなる時間をすごしていた。ご機嫌ななめのオフィリア王女に、ちょっと失礼と言い置いて、イレニエル公爵の隣でにこにこしているルナトリアのところへいけたら、どんなにいいだろうと想像しながら。
そうこうしているうちに、舞踏の時間がやってきた。ニーダーにとって、一番気が重い時間の到来だった。オフィリア王女を舞踏に誘わなければならない。
でも、なかなか勇気が出ずに、ニーダーはぐずぐずしていた。父王の焦れたような視線が、焦げ付くほどに刺さっていることがわかっていた。
ここで立派に振舞わなければ、母はまた責められる。ただでも、父王に部屋に軟禁され、舞踏会に顔を出すことすら許されず、気がめいっているはずだ。これ以上、悲しませたくない。
ニーダーは意を決して、オフィリア王女を舞踏に誘った。ところが、差し出した手は叩き落されてしまった。
あのときの、オフィリア王女の冷淡な態度は、何度も夢にみる。
『あなたとご一緒していると、机に縛り付けられて、難しい本を読まされているみたいですわ。つまらない方ね、ニーダー殿下。こんな時ぐらい、お父上のお顔色を窺うのではなくて、わたくしを気にかけてくださるべきじゃなくて? 本当に、つまらない方』
隣国の王妃の慌てようといったら、大変なものだった。普段はおっとりとしている女性だからこそ、なおさら気の毒に思われる。
けれどあのときのニーダーには、大切な来賓を気にかけて、気遣う余裕なんて、なかった。それよりも、父王が落とした落胆のため息と、侮蔑の眼差しが恐ろしく、萎縮していた。
隣国に帰る王妃と王女を見送りながら、ニーダーは安堵のあまり、体中の骨が柔らかく萎えてしまったようだった。
辛い追想ですっかり消耗してしまったニーダーに、ルナトリアは無邪気に訊ねた。
「あらら? もしかして、殿下。がっかりなさっていらっしゃるのですか?」
ニーダーは苦笑して、頭を振った。
「がっかりというより、反省しているんだ。楽しいお喋りで姫を楽しませて差し上げるのが、王子である僕の役割だったのに、うまく出来なかったからね」
「殿下はわるくありませんよ! オフィリア姫はいじわるなのです。ルナは、殿下にあんなひどいことをおっしゃるオフィリア姫が、好きではありません」
ルナトリアの剣幕に、ニーダーは目を丸くする。ルナトリアはまるで、自分が許せない意地悪をされたみたいに、腹を立てていた。
「オフィリア姫が、もう二度と来ないとおっしゃったとき、ルナはうれしくて、小さな声で『やった』と言ってしまったんです。あとで、お父さまに叱られました」
ニーダーは口をあんぐりあけていた。はっときがついて、口を閉じるついでに「そうなんだ」と言うのが精一杯だった。
ルナトリアがどうして、こんなに怒っているのか、わからない。そもそも、オフィリア姫の話題を出したのは、ルナトリアなのに。
ルナトリアはしばらくの間、ぷりぷり怒っていたが、くるりと身を翻すと、ニーダーに身を寄せてきた。「お耳をかしてください」と言われたので、ニーダーは腰をかがめる。手でつくった囲いのなかで、ルナトリアはこしょこしょと耳後を吹き込んだ。
「ねぇ殿下。ぜったいにヒミツにしますから、ルナにだけ、こっそりおしえてくださいな。本当は、オフィリア姫のこと、怒っていらっしゃるでしょう?」
ルナトリアは一応、質問のかたちに言葉を当て嵌めてはいるけれど、断定的である。
ニーダーはすぐさま否定しようとした。ニーダーがオフィリア姫のことを怒っているのではなくて、オフィリア姫がニーダーのことを怒っているのだ。そう説明しようとしたのだけれど、ふと、気まぐれな悪戯心を起こす。もったいぶった口調で、ニーダーは言った。
「打ち明けるべきか否か、考えものだな」
「どうしてですか?」
「ルナの絶対にヒミツにする、はあてにならない」
ルナトリアは目を大きな皿にして、言葉を失った。しばらくしてから、沸き立つように、かんかんになって喚く。
「まぁ、殿下! どうしてそんなヒドいことをおっしゃるのですかっ?」
「ルナ。君に描いた肖像画、イレニエル公爵たちに見せただろう」
ニーダーはぴしゃりと言った。このくらいの意趣返しなら、いいだろう。
ルナトリアはわかりやすく、しまった、という顔になった。
「まぁ、お父さまったら、おしゃべりなんだから!」
ニーダーは真顔になった。ルナトリアは約束を忘れてしまったのではなく、約束を覚えていたのに、約束をやぶったらしい。
ニーダーの顔色が変わったからだろう。ルナトリアはしどろもどろになって、謝った。
「ごめんなさい、殿下。でも、どうしても、みんなにジマンしたかったのです。だって、殿下がルナを、とってもキレイにかいてくださったんだもの。ルナにはわかりません。どうして、あんなにステキな絵を、おかくしになるのですか?」




