殿下とルナ1
幸運なことに、ニーダーはゴルマックどころか、誰に見つかることもなく、列柱廊下を駆け抜け、中庭に出ることが出来た。
中庭に一歩踏み込んだところで、ニーダーは立ち止った。風がなく、静かで、真珠のような光がぼうっと滲んでいる。
広々とした円形の中庭のそこかしこで、庭樹が花を咲かせていた。象牙色に輝く東屋を、色とりどりの花花がぐるりと取り囲んでいる。多種多様な花の種を両手いっぱいにすくいあげて、ぱっと巻き散らしたみたいだと、ニーダーは思う。ここは誰の思惑も介入しない、のびのびとした野原だ。
しかし、この自由な中庭に、母の好きな白薔薇だけが咲かない。白亜の迫持ちに絡みついていた白薔薇は先日、父王が庭師に命じて、処分させてしまった。母の部屋に飾られている白薔薇は、母に頼まれたニーダーが庭師の目を盗んで、打ち捨てられていたものの中から、こっそりと持ちだし届けたものだった。
いつもどこか上の空で、ぼんやりしている母が、その時ばかりは少女のように明るく微笑んで、白薔薇を受け取ってくれた。
『よく届けてくれました。この白薔薇は母の大切な宝物なのです』
母が白薔薇に向けた笑顔は太陽よりも輝いて、ニーダーの目は眩んだ。暖かい光に満たされ、胸が膨らむようだった。ニーダーがしたことで、母があんなに喜んでくれたことは無かった。
だからこそ、迫持ちの周りの、掘り返された土を見ると、ニーダーの心はざわつく。
(どうして陛下は……母上の大切な白薔薇を捨ててしまうなんて、ひどいことをなさるのだろう?)
白薔薇は、父王が母の為に手ずから植えたものだと、幸福にまどろむように母は語ってくれた。ニーダーには、父王がわからない。白薔薇を植えて母を喜ばせ、白薔薇を捨てさせて母を悲しませる。恋心を燃え上がらせて母を抱きしめたという両の腕で、今は母を打つ。
すべては愛のなせる業だと、母は言うけれど。
ニーダーは遠く霞むような視線を、母の窓に向けた。窓はよく磨かれた鏡のように、青い空と白い雲と、ぴかぴかの太陽をうつしている。中の様子は見えない。
「愛しているのに、どうしてあの方は……あなたを傷つけずにはいられないのでしょう?」
ニーダーの問いかけは、当たり前のように母には届かず、固い窓硝子にあたって砕けた。答えのない虚しい問いかけをすることに、ニーダーは何の不満も感じない。物心ついた頃にはもう、同じようなことを繰り返していたのだから、いい加減、もう慣れっこだ。
ところがこの時は、返事があった。耳元かと思うほどすぐ近くで。
「きっと、殿下にはおわかりになりません。だって殿下はおやさしいんですもの。だれにもキズがつかないように、おさびしいのをガマンなさっていらっしゃること、ルナは知っています」
すぐ傍の生垣がふるえて、大輪の白い花のように、可愛らしい顔がぱっと飛び出したとき、ニーダーは飛び上がって驚いた。
「ルナ! そんなところで、なにをしているんだっ!?」
イレニエル公爵のひとり娘、ルナトリア・アルル・イレニエルはくすくす笑いながら、生垣から這いだすと、腰を抜かしかけるニーダーの前で立ち上がった。見事なあま色の髪に、レースに縁取られた桃色のリボンと、青々とした葉っぱをつけている。ふわりとした桃色のドレスの裾を叩き払いながら、ルナトリアは涼しい顔で言った。
「なにって、殿下をおさがししていたんです。きまっているじゃありませんか。ルナはちゃんと見ていましたからね。殿下が白いロープをよじのぼって、お妃さまのお部屋をおたずねになるのを、ハラハラしながらみていたんです。いまもむねがドキドキしているわ。ほんとうに、こわかった。殿下が、またおっこちたらどうしようって! だってあの窓は、この前のぼった木なんかより、ずっと高いんですもの。ああ、でも、すぎたことをくどくど言っても、しかたがありません。それよりも、これからのことについて、おはなししましょうよ!」
ルナトリアが早口でまくしたてるように話すので、ニーダーは相槌をうつこともままならない。ルナトリアはちっとも構わないようだった。擽られたように、身を捩って笑う。
「まぁ、いけない殿下! 今日も剣のお稽古をすっぽかすおつもりですね? 本当にいけない殿下。おひとりでお出かけになるおつもりだったでしょう? それで? どちらへお出かけですか? ルナがお供します!」
ルナの声は高らかなラッパの音のように、やわらかい空気を震わせて響きわたる。ニーダーははっとした。母の部屋を訊ねるとき、注意を払っていたつもりが、ルナに見られるという失態を犯していたことにたいする、落胆と反省はひとまず向こう側に押しやる。
次から次へと矢継ぎ早に、大きな声で喋りつづけるルナトリアの唇に、ぴんとたてた人差指をおしつける。ニーダーは押し殺した声でルナトリアを諌めた。
「しっ! 声が高い!」
ルナトリアは優しいはしばみ色の目をぱちくりさせる。ニーダーの手に唇を押しつけて、気が済むまで忍び笑った。
「おかしな殿下! 国中が殿下のおにわなのに、まるでドロボウみたいにこそこそなさって!」
ルナトリアはぴたりと笑い止むと、真面目な顔になった。額をすこし傾けて、草のつゆに濡れた靴の爪先を睨みながら、考えをめぐらしているようだ。
「ううん、そうですねぇ。ゴルマック卿にみつかったら、きっと大目玉をおめしになります。ゴルマック卿は、石頭ですもの」
ルナトリアはニーダーの手首を掴むと、強くひっぱった。
「さぁさぁ、はやく出発しましょう! みつからないうちに、ね!」
ニーダーはつんのめりながらも、踏みとどまる。不思議そうに瞬きをするルナトリアに、ニーダーは出来る限り優しく言った。
「すまない。ルナは連れていけないんだ」
ニーダーはルナトリアの大きな双眸がさらに大きく見開かれるのを、固唾をのんで見守った。心の中で祈りながら。
(神様、お願い、お願いです。今日くらいは、ルナトリアがおとなしく、僕の言うことを聞いてくれますように)
神様にお願いしながら、ニーダーはたぶん、このお願いは聞き届けられないだろうな、と諦めていた。ルナトリアの柔らかい頬が、みるみるうちに強張っていく。ルナトリアは大きな声で言った。
「いけません、殿下! ルナがいないと、殿下はおさびしいですよ! おひとりで、泣いちゃったらどうしますか? ルナがおそばにいなきゃ、お涙をふいてさしあげられません!」
「そんなにぼろぼろ泣かないから、大丈夫だよ。すぐに戻るから、ルナはここで待っていて」
ニーダーは和やかに笑おうと、苦労して試みて、失敗した。引き攣り笑いでたどたどしく説得しても、もちろん、ルナトリアは納得しない。ニーダーは頭のなかをすみずみまでさらって、ルナトリアを言い包めることが出来る魔法の言葉を探した。でも、見つからなかった。それもそのはず。このひとつ年下の幼馴染をうまくあしらえたためしがない。
ルナトリアはぶんぶんと頭をふって、劈くような声で言い募る。ほとんど喚くようだった
「いいえ、殿下! 殿下は泣いちゃいます! 殿下は泣き虫でいらっしゃいますもの! この前だって、いもむしがこわくて、泣いてしまわれたじゃありませんか! 殿下はルナがおそばについていないと、ダメなのです!」
ニーダーはほんの少し唇を尖らせた。なにも、一年以上も前の醜態をむしかえさなくてもよいだろうと、むっとしたのである。
(そもそも、いもむしを襟元に放り込んだのは、ルナだろ)
素肌を滑る芋虫の感触を、思い出すだけで大きな波のように鳥肌がたち、腹も立つ。ニーダーは少しつんけんしながら、言った。
「ダメじゃない。もう、泣き虫は卒業したんだから。僕はもう、ひとりでなんでも出来るさ。ルナがいなくても平気だ」
ぷいっとそっぽをむいたものの、すぐに「しまった、言い過ぎた」と後悔した。ちらりとルナトリアを盗み見て、目を剥く。
ルナトリアは可愛い顔をくしゃくしゃに歪めて、大粒の涙をぼろぼろ流している。しゃくりあげるたびに涙が零れ落ちた。
ニーダーはうろたえて、両手を無意味にぱたぱたさせながら、素っ頓狂な声を上げた。
「ルナ!? どうしたんだ!?」
ひっくひっくとしゃくりあげるルナトリアにじっとりと睨まれて、ニーダーはひるんだ。ルナトリアは「殿下のおなみだをふいてさしあげる」為に持ち歩いているという、絹のハンカチで頬をぬらす雫をごしごしとふき取りながら、くぐもった声で言った。
「びっくりしました。びっくりするくらい、殿下ってば、つめたいんだもの。殿下のお体には、血のかわりの氷河のお水が、ながれていらっしゃるのかしら。お目目もお肌もお心も、雪と氷で出来ていらっしゃるのだわ。きれいだけれど、とてもつめたいの。そうじゃなきゃ、ルナをいらないなんてひどいこと、おっしゃらないわ」
ルナトリアはハンカチをぞんざいに袖に押し込むと、両手に顔を埋めてしまう。ニーダーは慌てて言った。
「ちがうよ、ちがう。誤解だよ、ルナ。君は大切な僕の友達だ。いらないはずがないじゃないか」
ルナトリアは指の間から、恨めしそうにニーダーを見る。すん、と鼻を啜るとそっぽをむいて、つけつけと言った。
「ルナがいなくても、へいきだっておっしゃったもん」
「ごめん、ウソだ。あれは、ウソ。ルナがいないと、すごく困る」
「うそ?」
「そう、ウソ!」
ニーダーが力をこめて頷く。ルナトリアは憮然とした表情でニーダーは凝視して、ゆっくりと言った。
「ウソつき殿下。ルナはもう、殿下のおことばを信じられません」
まるで、落とし穴だらけの道を、おっかなびっくり歩いているようだと、ニーダーは思った。鈍いニーダーには、落とし穴がどこでぽっかり口をあけているのかわからない。けれど、黙っているわけにもいかなくて、どんなに気が進まなくても、ニーダーは唇を開かなければならなかった。
「ウソじゃない。さっきのはウソだけど、これはウソじゃないんだ。なんだか、ややこしいけど、そういうこと」
ルナトリアは黙ってしまった。ニーダーを見る目は疑わしそうだ。
ニーダーは致命的な間違いを犯してしまったように感じて、落ち込んだ。別に、今に限ったことではない。いつだって、何かしらの言動をとった直後に、そのように感じる。杞憂だったと、胸を撫で下ろすことができる時もあるが、相手の顔にくもりやかげりを見つけてしまって、どん底まで落ち込んでしまう時のほうがずっと多い。
(僕は本当にダメな王子だ。こんな、他愛ないことですらまちがってばかりで。こんなんじゃ、国を任される王になんてなれやしない)
こうやって、卑屈になってしまうところも、悪いところだとニーダーは自覚している。王子として生まれついたのだから、王になるにふさわしい王子にならなければならない。そのために努力を惜しんではいけないのだ。落ち込んだり、卑屈になったりする暇はない。
ニーダーは萎えそうな気力をふるいたたせて、陰気な顔をこねまわし、笑顔らしきものをつくった。ルナトリアの肩にそっと手をおいて、俯いてしまった小さな顔を覗き込む。気持ちと声を励まして、ニーダーは言った。
「とにかく信じて、ルナ。大切なルナ。ひどいウソをついて、すまなかった。傷つけるつもりはなかったんだ。君とケンカをしたくない。ね、仲直りしよう?」
ルナトリアはそろりと顔を上げる。ニーダーの青い瞳の奥の奥を探るように見つめる。ニーダーは居心地が悪かったけれど、ルナトリアの気が済むまで、好きなようにさせてやった。
やがて、ルナトリアはささやくように言った。
「信じてさしあげても、いいです。そのかわり、ルナにお供させてください」
(やっぱり、そうくるよなぁ)
ニーダーは項垂れた。
「……それはダメだ。今回ばかりは連れていけない」




