理想の父親
ニーダーは窓から自室に戻った。母からの迎えのロープが、高い窓に引き戻されて行くのを、寂しい思いで見送る。
母はロープを引きあげると、すぐに窓を固く閉ざしてしまう。母の窓を見上げるニーダーに、顔すら見せてくれない。
(きっと、僕が見上げていることに、気が付いていらっしゃらないんだ。僕は声を出して母上をお呼びしたことがないもの)
項を逸らして母の窓を見上げるニーダーの溜息は、湿り気を帯びてずっしりと重く、真っ逆さまに落ちて行った。
その時、控え目なノック音がして、ニーダーの足の裏は一瞬、床をはなれた。体ごと振り返る。扉の向こう側から、洞穴に吹き込む風のような、豊かに響く低い声が言った。
「殿下。ロキシュエル・ルン・イレニエルがお目通り願います」
「……イレニエル公爵?」
「はい、殿下。失礼仕ります」
「えっ!? だ、ダメ、まだダメ! ちょっと、待って!」
ニーダーは上ずった声で返事をしながら、窓を閉めて鍵をかけた。カーテンを引いて閉める。慌てて部屋を横切ろうとしたら、向こう脛をぶつけてイーゼルを倒してしまった。倒れたイーゼルが、ぞんざいに積み上げた本の塔を倒壊させる。咄嗟に頭を抱えたニーダーの頭上に、分厚い本が落ちてきた。
大きな物音を不審に思ったのだろう、イレニエル公爵が気遣わしげに声をかけてくる。
「殿下? 如何なさいました?」
「っ……、なんでもない! 君はそこでそのまま待つんだ。勝手に部屋に入っちゃダメだぞ!」
ニーダーは向脛と頭の痛みを堪えながら、裏返った声で言いつけた。イレニエル公爵は暫く沈黙してから「御意に」と応じる。
ニーダーは、秋の木々が落とし秋風が巻き散らした枯れ葉のように、あちこちに散らばった本を壁際に追いやった。いけないことだとわかっているが、数冊は蹴飛ばした。
こうなる原因になったイーゼルは、力任せに壁に叩きつける。壁にたてかけるつもりだったのだが、乱暴に叩きつけたから、壁にあたったイーゼルは跳ねかえり、ニーダーの顔面を、まるで仕返しするかのように、したたかに打った。
そうこうしていると、部屋に人を招くスペースをつくるのに、必要以上に手間取ってしまった。ニーダーがやっとのことで入室を許可すると、散々待たされたイレニエル公爵は恭しく扉を開けた。
拝跪したイレニエル公爵の賢い鷹のような瞳が一瞬、ニーダーをとらえる。どこまでも見通しているように見えて、ニーダーはギクリとした。
たとえば、ニーダーの鼻の頭が赤い理由も、片足跳びして移動していた理由も、大きな物音がした理由も。ひいては、ニーダーがなぜ、イレニエル公爵の来訪に、慌てふためいたのかという理由さえ、見通しているようだ。
ニーダーはぎくりとしながらも、辛うじて、体面を取り繕おうとした。
「待たせたな。片づけに手間取っていた。少しばかり、部屋が散らかっていたものだから」
と言いながら、ニーダーはイレニエル公爵の顔を見ることが出来ない。挙動不審だという自覚はある。
(少しばかり散らかっているだって? 足の踏み場もないこの部屋が? そんなことが心から言えるなら、物盗りに荒らされても気がつかないな、きっと)
イレニエル公爵は静かにニーダーが並べたてる、苦しい言い訳を聞いていた。やがて、言葉が尽きたニーダーが黙り込むと、イレニエル公爵は慎ましく視線を伏せたまま言った。
「画を描きあげられたのですね」
イレニエル公爵は入室した一瞬で、部屋の中にくまなく目を配っていたらしい。ニーダーは部屋中に視線を巡らせて、思わず口走った。
「ああ、うん、まぁね。でも、出来が気に入らなくて、捨ててしまった」
まだ聞かれてもいないことをぺらぺらと喋ってしまったのには、ニーダーが迂闊だからというだけではない、理由がある。
イレニエル公爵ならば、ニーダーの部屋に無造作に保管された、完成済みの画がいくつあったか、覚えているに違いない。新しい画を完成させたのに、完成済みの画が増えていないことを、遠まわしに言及されたに違いないと思った。
イレニエル公爵は誠実で信頼出来る男だが、父王の忠実な僕だ。何せ、臣下に降りるより前、父王が生まれたその時からずっと、父王に仕えているのだ。イレニエル公爵がニーダーと母の繋がりに勘付いたら、必ず、父王の耳に入ってしまう。そうなっては、母の身が危うくなる。
国中に愛される父王だが、ニーダーにしてみれば、彼を愛する余地などない。父王は、恐ろしい。一掴みの恵みすら与えず、災厄だけを運ぶ竜巻のようなひとだ。
イレニエル公爵はそっと目を上げて、ニーダーの苦み走った顔を盗み見る。思慮深く言葉を選びながら、イレニエル公爵は言った。
「左様でございましたか。殿下の素晴らしい作品を、拝見しとうございました」
ニーダーは王子という立場上、お世辞など言われ慣れている。普段は、心にもないことをと思っても、いちいち目くじらをたてたりしない。鷹揚に聞き流す術くらい、幼い頃に身に付けている。
しかし、ニーダーはむっとしていた。画のこととなると話が別なのだ。知りもしないのに、知ったような口を聞かれると、不愉快になる。ニーダーの画は、ニーダーの心を透き写したようなものだから。
ニーダーは口を不機嫌な形に曲げた。千切って投げるように言う。
「素人の駄作なんて見ても仕方がないだろう?」
「いいえ、殿下。私は殿下の表現なさる、優しい世界が好きなのです」
ニーダーは面食らった。体制を取り繕うことを失念して、王子にふさわしくない言葉が口をついて出る。
「え? どうして? 僕は、君に画を見せたことがないのに」
イレニエル公爵が表を上げる。その表情が水面下で、慇懃な臣下のものから、子煩悩な父親のものに変わった。人の心の機微に疎いニーダーではあるが、そこは見逃さなかった。
イレニエル公爵は、大切な宝物をそっと掬い上げるみたいに、そっと優しく言った。
「恐れ多くも殿下がお描き下さった、我が娘ルナトリアの肖像画を拝見致しました。ルナトリアはとても喜んで、全ての家人に見せびらかして回ったのです」
ニーダーは言葉を失った。心の中では、頭を抱えて叫んでいた。
(うっ……なにしているんだ、ルナ! 皆には内緒だって、あれだけ言ったじゃないか!)
ルナトリアを恨んでも、もう遅い。ルナトリアのおねだりを断り切れなかったニーダーが、結局は悪いのだ。ルナトリアに画を見せたのがそもそもの間違いだった。ニーダーはルナトリアを実の妹のように、よく知っている。こうなることはわかりきっていたのに。
ニーダーの画を知ったルナトリアは「わたくしのことも、かいて下さいな」とニーダーに強請った。描いた線画を見せてやると、ルナトリアはその画を欲しがった。
「ぜったいに、ヒミツにしますから!」
ニーダーは断った。ルナトリアの「絶対」が当てにならないことは、知っていた。ルナトリアは幼いからだろうか。ニーダーの話しをちゃんと聞いてくれない。約束なんてしたって無駄だ。三歩歩いたら、無かったことになる。
けれども、何度断ってもめげずに画を無心するルナトリアに、結局は根負けして、色をつけた肖像画を贈ったのだった。
ルナトリアには、恥ずかしいからこのことは他言無用だと言い含めておいたのだが、やはり、ルナトリアはちゃんと聞いていなかったようだ。よりによって、イレニエル公爵にまで見せていたなんて。
ニーダーはルナトリアを恨めしく思いながら、かっと焼ける頬を隠すように俯いて、もごもごと言った。
「ほんの手すさび程度の絵だ。恥ずかしいから、人に見せないように、君から今一度、申し伝えてくれ。ルナはどうも、私の話をちゃんと聞かない節がある」
「それは……。申し訳ございません。ルナトリアには、私からきつく言い聞かせておきます故、なにとぞ、娘の不敬をお許しください」
イレニエル公爵の声が重く沈んでいる。ニーダーははっとして、取り成した。
「いや……いいよ。そんなことより、私の画を好ましく感じてくれる者がいるなんて、嬉しい限りだ。次の機会には、イレニエル公爵。君の為に画を描こう」
ニーダーはまた、思わず口走っていた。
ルナトリアが叱られては可哀そうだと思って、話を逸らそうと苦し紛れに捻りだした言葉ではあるが、満更の嘘でもない。画を褒めて貰えるのは、素直に嬉しいのだ。
イレニエル公爵は「ありがたき幸せ」と畏まっている。イレニエル公爵の表情は凪いだ水面のように静かだ。ニーダーは秘かに小さく嘆息した。この様子なら、帰宅次第、ルナトリアが鞭打たれるようなことはないだろう。
鞭打ちは、ブレンネンでは一般的な躾の手段である。愛する子に鞭を惜しむな、という格言があるくらいだ。ルナトリアも、それなりの頻度でイレニエル公爵に鞭で打たれていた。
ルナトリアは「きのうは、とてもひどくぶたれました。ルナもわるいのかもしれませんが、お父さまはやりすぎだとおもいます。お父さまをしかってください!」と泣きながら、柔らかい手腓を差し出してニーダーに見せたこともあった。
一目見れば、一度も打たれたことのないニーダーでも、弾けるような痛みを想像しただけで背筋が凍る。白く脆い肌に、焼きつけたような鞭の痕が痛々しかった。
しかしニーダーは、痛がるルナトリアを可哀そうだと思う一方で、ある種の憧憬も感じていた。
愛するからこそ、鞭はふるわれる。敵に向けるならば刃だ。鞭は愛の証なのだ。母がそう教えてくれた。父王につけられた痕を愛しげになぞりながら。
物思いに沈んでいたニーダーの意識を、イレニエル公爵の思いもよらない言葉がひきあげる。
「今度、お描きになった画を、陛下にご覧頂いては如何ですか? お喜びになられます」
ニーダーは以前、父王に画を見られたときのことを思い出しながら、暗澹たる気持ちで頭をふった。
「陛下は、画家の傑作を見慣れたお方だ。私の絵をご覧になっても、粗ばかり気になられて、お楽しみ頂けない。それに、陛下には不出来なところをご覧に入れたくないのだ」
そもそも、父王がニーダーの画を気に入る筈がない。画は心そのものだ。ニーダーを疎んでいる父王が、ニーダーの心を愛でるわけがない。
イレニエル公爵は少し腰を浮かせて、心配そうにニーダーをちらちら見て言った。
「私ごときが、陛下のご心中を推し量るなど、恐れ多いことではありますが……陛下は、殿下に御期待をかけていらっしゃるのです。ですから、どうしても辛いお言葉ばかりおかけになってしまわれるのでしょう。ですが、本心は別にあられます。陛下は殿下のことを深く愛していらっしゃいますから、殿下のご成長を何よりも喜ばれるのです。殿下は覚えていらっしゃるでしょうか。殿下が五歳におなりあそばされた頃にお描きになった鳥の絵を、陛下は今でも大切になさっておいでですよ」
「たぶん、僕が描いたということも、お忘れなのさ」
「……お言葉ですが、殿下」
「もういい」
ニーダーはうんざりして頭をふった。
「やめてくれ、イレニエル公爵。そういう、子ども騙しの慰めは、私には通用しない」
イレニエル公爵は誠実の化身のような男だが、そうである前に忠誠の化身である。敬愛する父王の為になら、イレニエル公爵は平然と話を盛るし、嘘もつく。
(そもそも、イレニエル公爵は間違っているんだ。僕と陛下の仲をとりもとうとしたって、無駄だ。だって、陛下は僕を嫌っていらっしゃるんだから)
母といればわかる。母のありようが、ニーダーに教えてくれるのだ。父王は献身的な愛を捧げる母を顧みない。父王には、ひとを愛する心がないのだろう。ニーダーに対して父王が望むのは、良き王子であること、そして良き王となること。それだけだ。そこに親子の情はない。
イレニエル公爵は、ひっそりと囁くように言った。
「殿下」
優しい声色に哀れみの片鱗を聞きとって、ニーダーはやや厳しい調子で遮った。
「陛下の話はもういいと言った。そんなことより……ルナは来ているのか?」
イレニエル公爵の顔がぬっと曇るが、ルナトリアの名前を出すと、強張りが解けた。
「ええ。陛下にお目にかかれるのは、午後からだと言い含めたのですが、もう嬉しくて、居ても立ってもいられぬらしいのです。ブレンネン淑女の風上にも置けぬ不束な娘でございまして、お恥ずかしい限りです」
嘆いてみせながら、イレニエル公爵の目は優しい。さっきもそうだった。イレニエル公爵が娘を思い出す時、彼の体から、娘に対する大きな愛情が押え切れずに溢れだす。
少しぼんやりしていた。イレニエル公爵は我に返ったように、一端口を閉ざす。それから、心許なさそうに寄せられた眉の下から、上目使いで訊いた。
「ルナトリアは、殿下に御迷惑をかけてはおりませぬか?」
それは杞憂だ。ニーダーはルナトリアのいとけなさを理解した上で、天真爛漫な無邪気さを好ましく思っている。
イレニエル公爵の不安を拭い去る為に軽く微笑んでニーダーは言った。
「心配は要らない。困らされることはあるが、私の話し相手はルナを置いて他にはいないと思っている」
「左様でございますか」
イレニエル公爵が目許を和ませる。慇懃に畏まって感謝した。
「殿下のご厚情に、深く感謝申し上げます」
「うん」
ニーダーは気負いなく頷いた。ニーダー自身の耳には、ひどく間の抜けた返答のように聞こえた。
しかし、それはあまり、重要ではないような気がしていた。その時のニーダーは、イレニエル公爵の心からの笑顔に眩んでいた。
(イレニエル公爵は良い父親だ。良い父親って、こういうものだ)
ニーダーが唯一知っている、実在の良い父親がイレニエル公爵だ。我が子を愛している父親はこうなのだと、ニーダーは認識していた。
(イレニエル公爵とルナがいてくれて、良かったと思う。二人がいなかったら、僕は本当の父子というものを知らないまま、大人にならなきゃいけなかったかもしれない)
和やかな空気は、居心地が良い。ニーダーと二人きりでいて、こういう雰囲気をつくってくれるのは、イレニエル公爵と娘のルナトリアをいれて、片手の指で数えて足りるくらいしかいない。
だからと言って、長く引きとめてはいけないことを、ニーダーは知っている。イレニエル公爵には他にもするべきことが山ほどある。イレニエル公爵にとって、ニーダーは父王の次に優先するべき存在だから、ニーダーが楽しそうに会話を続ければ、イレニエル公爵はいつまでたってもここにいなければならなくなる。
(今日は、僕も暇じゃないしな)
ニーダーは気をきかせて、イレニエル公爵に本題に入るよう促した。
「して、イレニエル公爵。何用だ?」
イレニエル公爵はみじかく「は」と返事をしてから、丁寧に述べた。
「殿下のご機嫌うかがいに参りました。さらに、ゴルマックより言伝を預かったのです。『本日は定刻より早く、お部屋にお迎えに上がります故、殿下におかれましては、お部屋でお待ち頂きますよう、お願い申しあげます』とのことです」
「ええ?」
ニーダーが素っ頓狂な声をあげると、イレニエル公爵はちらりとニーダーを見た。その目が鋭く光る。
「何か不都合がおありですか?」
「ううん、別に何も」
ニーダーは苦労して涼しい顔をつくった。背中には冷たい汗がくだっている。
(まずいことになったぞ。この前、僕がまた鍛錬場に行かなかったから、ゴルマックは疑っているんだ)
この前は、母に頼まれた勿忘草探しに夢中になってしまって、うっかり剣術の鍛錬をすっぽかしてしまった。それ以前にも、似たようなことがあった。いずれも、母の頼みごとが関わっているが、そのことは幸い、まだばれていない。
だからゴルマックは、ニーダーが怠惰な生徒であると信じて疑わず、今日という今日は逃がしてなるものかと、血眼になってニーダーを押えにかかっているのだろう。
どうしよう。ニーダーは考えあぐねながら、とりあえず、イレニエル公爵の鷹の目をかわさなければならなかった。
散らかり放題の部屋をぎこちなく見回して、肩をすくめる。強張った頬をほぐして、微苦笑のようなものを顔に張り付けた。
「ええと……ゴルマックが来るなら、部屋を片付けないといけないな。ゴルマックは整理整頓がされていない、だらしない部屋が嫌いだから」
正確には、不真面目で、剣術に対する情熱が不足しており、約束を守れない、整理整頓が苦手なニーダーが嫌いなのだろうが。
ニーダーの引き攣り笑いを、イレニエル公爵は二呼吸分の時間をかけて、注意深く観察していた。視線はあっさりと解かれる。イレニエル公爵は目を伏せて、暇乞いをした。
「確かにお伝え申しました。それでは、これにて御前を失礼仕ります。御免」
イレニエル公爵が去った部屋で、ニーダーは慌てていた。ゴルマックがいつ来るかしれない。もしかしたら、もうこの部屋に向かって来ているかもしれない。今、部屋を飛び出して、廊下ではち合わせしようものなら、ゴルマックはニーダーを逃がさないだろう。
ゴルマックは貴族出身の騎士だ。若齢ながら、王子の剣術指南役に抜てきされる程の、卓抜した剣技の使い手である。剣術にかける情熱はブレンネン随一と言われる程だ。寝ても覚めても、もしかしたら夢のなかでも、剣のことだけを考えているのではないだろうか。
才なく心なく剣を弄ぶ愚物は容赦なく切り伏せる。流石に、王子に真剣で斬りかかるような真似はしないが、内心では、そうしたいと思っているかもしれない。
(次に会ったら今度こそ、真っ二つにされるんじゃないかな)
ニーダーは怯えた。だが母の為ならば、例え火の中水の底、だ。ニーダーは意を決して部屋を飛び出した。




