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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第九話「過日」
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母を訪ねる1(2019.04.26加筆しました)

ニーダーの過去編です

 


 ***




 私は一目で恋に落ちた。あのひとを知れば知るほど、狂おしいほど、私はあのひとを愛した。


 愛するひとは震えながら、私にこう訊ねた。


 ーー愛するから狂ってしまうの? それとも、狂ってしまったから愛するの?


 愛するひとを抱き締めながら、私はこう応えた。


 ーーあなたが私の傍にいてくれるのなら、どちらであろうと構わない。




 ***


 かりかりかり。羽根ペンが皮羊紙を引っ掻く音だけがする。


 ブレンネン王国の王子、ニーダー・ブレンネンは、煽り窓から差し込む爽やかな日差しを浴びながら、一心不乱に羽ペンを動かし、分厚い本の頁を捲っていた。

 大陸史の文献をひも解きつつ、重要な個所を皮羊紙に纏めている。ニーダーはあまり覚えの良い方ではない。父王にはしばしば、そんなことも識らないのかと軽侮の視線を投げかけられてしまう。


 家庭教師に教わっているだけでは、ニーダーにはとても足りないのだ。だから、自由な時間の大半は、自習に費やすことを己に課している。読んで、書いて、それをまた読んで。それを繰り返して、なんとか固い頭に知識を叩きこむ。


 父王は名君と名高い。幼少のみぎりより、将来を嘱望しょくぼうされた俊彦しゅんげんだったという。そんな父王は、かつての自身と不出来な王子を比べて、嘆くのだ。


 ニーダーは、父王を納得させられる、優れた王子でなければいけない。ニーダー自身が、父王に失望されるのは構わない。けれど、ニーダーの才気が乏しいことで、母が父王に糾弾されるのだけは、何としても避けなければならなかった。


 椅子の隣にうずたかく積み上げた本の塔のてっぺんから、一冊の本を取り上げる。本の塔がぐらりと大きく揺れた。


「あっ……!」


 慌てて押さえようとするものの、もう一歩のところで間にあわず、本の塔は倒壊する。ニーダーはあけらぼんとして、そこらじゅうに散らかった本を眺めた。


「……ああ、もう! どうせ散らかり放題なんだ、片づけはあとまわし!」


 ニーダーは苛立たしく舌打ちをすると、惨状を見なかったことにして、机に向き直る。


 時計と睨めっこしながら、勉強に精を出している。精悍な眉根を寄せ、眉間には深い皺が刻まれている。こどもらしい円やかな頬の線は強張るほどに、唇を噛みしめていた。


 今日は昼前に、ゴルマックが剣技の稽古をつけてくれる予定になっている。


 ブレンネンを導く王たるもの、武勇の誉れ高い丈夫でなければならないというのが、ブレンネンの伝統的な考え方だ。すなわち、武術は王位継承者にとって、必須課目なのである。


 ところが、ニーダーは武術が大の苦手だった。そもそも、体を動かすこと自体、あまり好きではない。出来ることなら部屋に引き籠って、文献をひも解いて一日を過ごしたい。その方が性に合っているし、有意義に思える。


 しかし、そんな我儘を言ってはいられない。なぜなら、ニーダーはブレンネン王国の正統な王位継承者なのだから、なんでも出来て当然なのだ。


 ふと、父王の厳しい言葉が頭の中に浮上する。ニーダーは父の冷淡な態度を思い出しながら、その言葉を復唱していた。


「その歳になって、こんなことすら出来ないのか。私がお前の歳の頃は、既にこんなことが出来た。あんなことも出来た。私の息子が、何故にこうも愚鈍なのか」


 羽ペンの動きが止まった。皮羊紙の上には、几帳面の文字列は書きこまれず、かわりに溜息が落とされた。


 ニーダーは背を逸らせ、ぐいと伸びをしながら大きな欠伸をする。頭上に伸ばした腕が背後の画架にぶつかって、大きな物音がした。ニーダーは肩越しにぱっと振り返ると、画架が倒れている。ニーダーは天井を仰いだ。


「本当に、いやになっちゃうな。どうして、僕はこうなんだろう」


 曲がってしまった羽ペンの先を睨みつけ、足元に滑りこんできたキャンバスは、足で軽く蹴って退かす。蹴り飛ばしたキャンバスは、床に落ちた本にぶつかった。


 ニーダーの部屋は、十分に広々としているにも関わらず、手狭な印象を受ける。色々と溢れ返った物で雑然としているからだ。


 天井まで届く本棚が窓のない壁の全てを覆い隠し、部屋を圧迫している。本棚の天板にはレールが取り付けられており、可動式の梯子を移動させれば、こどもでも、一番上の段にある本を取り出すことが出来るように工夫されている。


 そこに納められた本は全て、父王に与えられた。雑多な分野の本を、ニーダーは読破してきた。本の虫なのだ。


 三年前の誕生日に、父王から初めて、子ども向けではない本を与えられた。ニーダーは小さい頃から絵本が好きだったが、読み聞かせてくれる乳母はいつも忙しそうだったので、一人で絵本を眺めていることが多かった。そのうち自然に、ひとりで本を読めるようになっていた。

 父王から与えられたのは、ニーダーの拳程の厚みがある、重厚な装丁の書物だった。建国の祖、ヴルカーン王の伝記だ。ニーダーは辞書と首っぴきで、それを読んだ。夢中になって、寝るのも忘れていた。


 ヴルカーン王は霊山の麓に集い暮らす人々の一人だった。人喰いの跳梁跋扈する「淵」に程近いその集落は、度々、人喰いの襲撃を受けた。集落は、人喰いの餌場であり、人喰いの南下を食い止める砦であった。

 この世の地獄とはまさにこの地をさすのだろう、とヴルカーン王は記す。南方の残酷な人々は、霊山の麓の集落に住まう人々は大罪人の末裔であり、人喰いから南方の「善良なる人々」を守ることが、彼ら「大罪人」の贖罪になると言って憚らない。「大罪人」は霊山の麓に留まることを強いられていた。


 爪先から少しずつ、削られるような日々を堪え忍ぶ他にない人々を憐れみ、神はヴルカーン王の夢枕におり立った。


「北へ向かえ。霊山を登頂せよ。そこに汝らの安住の地がある」


 ヴルカーン王は人々を率いて、麓の集落を放棄して霊山の頂を目指した。深い淵を越える為に、数多の仲間が命を落としたが、立ち止まることも、引き返すこともしない。進まなければ、遅かれ早かれ破滅するのだ。


 そうしてたどり着いたのが、この地。神が与え給うた、銀の瀑布に守られた楽園であった。ヴルカーン・ブレンネンは王となり、ブレンネン王国をここに建国した。


 ニーダーは目を輝かせた。建国に至る壮絶な旅路を面白がるのは不謹慎ではあるが、一生涯を銀の瀑布の外に出られないと決められているニーダーにとって、外の世界を垣間見れたことは、とんでもない感動を彼にもたらしたのだ。


 翌朝、父王に感想を求められたので緊張しながら感じたままに答えると、父王は冷たい双眸を見開いて「もう読んだのか」と驚いていた。それから、父王は速読のニーダーでも追いつかない程の、たくさんの本をニーダーに与えるようになった。貴重な外の世界の本も、ふんだんに与えられた。


 ニーダーの部屋が書庫のようになっているのは、こういう理由だ。読み終えた本は書庫に移動させては如何かと、メイドに進言されることもあるが、一度読んだ本でも、何度も読み返したいので、部屋に置いている。

 そのせいで、メイドたちはニーダーの部屋の掃除に、大変苦労しているようだ。


 物で溢れかえっているのもそうだが、慣れない者には、臭いもまたきつい。


 ニーダーの部屋には、様々な香りが漂っている。その最たるものは、油と絵具のにおいである。


 ニーダーは読書の次に、絵を描くことが好んでいる。ふたつ年下の従妹のルナトリアと中庭で遊んでいる時に、落ちていた灌木の小枝で地面に描いた動物の絵を、ルナトリアが喜んだことがきっかけで、絵を描き始めた。


 最初は、絵画に関する書物と首っぴきで画筆を執っていたが、今では心の赴くままに画筆を滑らせることを純粋に楽しんでいた。


 しかし読書と違って、こちらは堂々と誇れる趣味ではない。出来上がった画には白い布を目隠しとしてかけて、紫檀の机と本棚の隙間に押し込み隠している。


 たまにせがまれて、ルナトリアに見せることもあるが、そうでなければ、滅多に他人の目には晒さない。一度、描いている途中の画を父王に見られ、しこたま文句をつけられて懲りたのだ。


 画架には常に、帆布を張り付けた薄い板を立て懸けてある。先ほど、蹴り飛ばしたキャンバスは、帆布は昨日変えたばかりなので、真っ白である。


(足跡がついたかな)


 それはそれで面白い。ニーダーは少し笑った。しかし、気分は少しも浮上しない。


 大人の体に誂えた黒檀の机と椅子は、こどもの身には大きく、ニーダーの足は宙に浮き、無意識のうちに、振り子のようにぶらぶらと揺れた。


 空き時間を有効に活用しようとして、勉学に励んでいたのだが、この後の憂鬱な剣技の鍛錬を思えば、気もそぞろになり、集中出来そうにない。


 ニーダーは背後の扉を振りかえる。人の気配に注意を払いながら、ニーダーは本棚の側面に立てかけておいた、昨日完成したばかりの画を取り上げた。


 青い空と、海と、白い砂浜の画だ。ブレンネン王国から出たことのないニーダーは、見たことがない。遠い異国の物語や、旅行記から、想像を膨らませて描いた画だ。


 燦々と注ぐ日射しを照りかえし、白く輝く砂浜。白波をたてる海は、浜辺に近いほど淡く、沖へいくほど深い青色をしている。空は雲ひとつない晴天だ。


 ニーダーは画を机の上に置いた。背を逸らして、眺める。海を見たことはない。だから、出来る限り最も美しい想像をした。我ながら、良い出来だと思って、ニーダーの顔に年相応の素直な笑みが浮かぶ。


(母上、喜んでくださるといいな)


 ニーダーは立ち上がり、窓辺に移動した。煽り窓を開き、上体を乗り出す。背を捩って、真上にある母の部屋の窓を見上げる。


(本当は、母上を連れて行ってさしあげたい。海の青さを見て、潮の香りを嗅いで、白砂に触れて、波音や海鳥の鳴き声を聞いて頂きたいけど……無理だから、せめて本物より素敵な海の画を、母上に差しあげるんだ)


 ニーダーは見たこともない母の微笑みを想像した。もしかしたら、いつも虚空に彷徨わせている目でニーダーを見返し、「上手ね」と誉めてくれるかもしれない。自画自賛だが、それくらい、良い出来だと思っている。そうでなければ、母に贈ろうなんて思わない。


 ちょうどその時。ニーダーの目の前に、シーツを結んだ白いロープの先端が降って来た。大きく見開いた青い目に、ゆらゆらと揺れる白いロープを映したニーダーの顔に、満面の笑みがひろがる。白いロープは母の部屋の窓から垂れている。


 ニーダーは大急ぎで部屋に引っ込んだ。古い画を一括りにしている麻紐を海の画に結び付け、それを背負い、腹の前で結んで固定する。

 喜び勇んで窓に向かったが、見えない何かに引っ張られたようにつんのめった。


(そうだ、身嗜みを……もう、僕は本当にノロマだな!)


 もどかしく部屋を見回す。本棚の側面にかけられた姿見に駆け寄り、身嗜みをざっと点検した。曲がっていたアコットタイを結び直し、今度こそ、窓に足をかけた。


 白いロープを両手で掴みぐっぐっと引っ張る。しっかりと固定されていることを確認すると、ニーダーは窓の下の中庭を見回した。


(誰もいない。よし、いけるぞ!)


 ニーダーは白いロープを両手でしっかりと握ると、双肩に力をみなぎらせた。壁に足をかけ、ロープを頼りによじ登り始める。


 誰かに見られたら、大変だ。十中八九父王の耳に入り、母の部屋は窓まで閉ざされて、正真正銘の牢獄と化してしまうに違いない。


 母の部屋の扉は、父王によって固く閉ざされている。ニーダーが召使の目を忍んで、母の部屋を訪ねているのが露見してしまったからだ。あの時、父王は烈火のごとく怒り狂い、ニーダーは食事抜きで自室に丸一日軟禁された。

 しかしそんなこと、母の受けた仕打ちにくらべればなんてことはない。


 ニーダーは少しずつ、壁をよじ登って行く。手がしびれ、肩が軋み、脹脛が痙攣する。歯を食いしばり、苦鳴を噛み殺す。


 何度も何度も、ひやりとする瞬間があった。足を滑らせて、真っ逆さまに落ちそうになったこともある。

 でも、諦めたことはない。はじめて、白いロープが母の窓から垂れているのを見たときも、恐怖は微塵も感じなかった。心が震えるほど感動した。


 あんな目に会っても、ニーダーを部屋に招いてくれる母の為なら、ニーダーはなんでも出来るし、なんでもするべきだ。


 無事に登りきり、窓枠に手をかける。上体を乗り上げ、這いずるようにして窓枠を超えた。


 体中に疲労が蓄積している。しかし、興奮は全ての苦労を忘れさせた。ニーダーは弾む息もそのままに立ち上がると、開け放たれた窓を、行儀よくノックして声をかけた。


「母上、ニーダーです。入ってもよろしいですか?」


 返事を貰うまでの、一瞬の沈黙。ニーダーの緊張は極限にまで高まる。なぜだろう、いつも不穏な考えが頭をよぎるのだ。母がニーダーを無視することを。まるで、ニーダーの存在など、端から認めていないかのように。


「どうぞ」


 翻るカーテンの向こうから、細い声がして、ニーダーは胸を撫で下ろす。


 母はいつも、ニーダーの呼びかけに返事をしてくれる。自らの危険を顧みずに、ニーダーを招いてくれる。ニーダーを愛してくれているからだ。

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