憎しみを越えるもの
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夫婦の寝室に戻ると、ニーダーはメイドに、至急医師を呼ぶよう言いつけた。おっとり刀でかけつけた医師に、問題ないとのお墨付きを貰うと、周囲にも影響するニーダーの緊張が、ようやく解けた。
ラプンツェルは大事をとって寝台に寝かされた。医師とメイド達が引き取り、ニーダーだけが残る。夫婦の寝室に、二人きりになった。
ニーダーは眉間に皺をいつもより深く刻み、頬を固く強張らせ、目を釣り上げている。触れれば切れそうな苛立ちが、霜のようにニーダーに張り付いていた。ラプンツェルが身重でなければ、ニーダーは発作的に、ラプンツェルに手を上げたかもしれない。
だからこそ、医師もメイドも、お役御免となればそそくさと退室したのだろう。
苛立ちが伝播して、ラプンツェルの肌を刺す。火傷をしたようにひりつく頬に染みたけれど、不思議と心地よい気もした。
ニーダーが怒るのは当然である。ニーダーが来てくれなければ、お腹の子が殺されていたかもしれないのだ。
守ってくれる人々を遠ざけ、のこのこと危険な外へひとり出て行った。会ってはいけない人に会いに行った。利己心の為に、我が子の命を危険に晒した。
ニーダーは寝台の傍の椅子に腰かけている。膝に肘をつき、右手に顔を埋めて項垂れていた。時折、大きく上下する肩を見ていれば、ニーダーが怒りをいなすことに難儀していることが知れた。ニーダーは深呼吸をすると、押し殺した声で言った。
「ラプンツェル、私は憤っている。何故、供も付けずに外に出た」
ラプンツェルは、ニーダーからそっと視線を外す。だるさが残る顎をゆっくり動かして、答えた。
「ルナトリアに、一言、謝りたかったの」
「不要だと言った筈だ」
「そうだね」
「……そうだね? 軽々しい一言で片づけてくれるじゃないか。君は事の重大さがわかっていないな。ノヂシャが君に飲ませようとしたのは、恐らく、忌まわしい毒薬の類だぞ。君やノヂシャが命を落とすことはなくとも、お腹の子は……!」
ニーダーが拳で膝を叩く。固く握りしめた手が小刻みに震えていた。込み上げるものをこらえようとして、端正な顔が歪んでいる。
「ノヂシャめ……私に歯向かうだけの余力を、まだ残していたのか……何処までも目障りな奴。ルナトリアまで巻き込んで……なんということだ。いっそ殺してしまえれば……!」
軋るように言い捨てて、ニーダーはもどかしそうに髪をかき混ぜた。ニーダーは優位に立つ者の余裕をかなぐり捨てて、ノヂシャへの憎悪を剥きだしにしていた。
形振り構えなかったのだ。愛する我が子を宿した妻が、狂人に取り押さえられていたのだ。どれだけ豪胆な猛者であっても恐怖する。
ノヂシャの手首を切り落とした、無慈悲な刃は冴え渡っていた。その一方で、ラプンツェルを抱きしめたニーダーの体は震えていた。
ニーダーも怖かったのだ。ラプンツェルと同じか、それ以上に怖かった。
ラプンツェルの双眸が、かっと燃えるような熱をもつ。枕に顔を押し付け、ラプンツェルは言った。
「ごめん、なさい」
声がこみ上げる涙で震える。嗚咽を漏らしながら、ラプンツェルは自嘲した。そんな資格は自分にはない。
ラプンツェルはお腹に手を当てている。医師は、ここにまだ、子どもがいると言っていた。それを聞いたラプンツェルは、歓喜に打ち震えた。子どもがお腹にいてくれることが、無上の喜びなのだと、その時に初めて知った。失いかけて初めて、授かった命の大切さを思い知った。
我が子を亡くし、狂気に陥ってしまったルナトリアを、心の底から哀れに思った。この掛け替えのない命を失えば、ラプンツェルとて発狂したかもしれない。
ノヂシャが左手を落とされた時、本来感じるべき、心配、憐憫、怒り。なにも感じなかった。塩の粒となって消えた、ノヂシャの血の染みと同じように、ノヂシャのことなどどうでも良かった。
非力なラプンツェルでは、ノヂシャに抗えない。我が子を守れない。そう悟った時、ラプンツェルの心は真っ先に、ニーダーに助けを求めた。鉤の部屋で覆面の騎士に鞭打たれた時よりも、必死になってニーダーを呼んでいた。
ニーダーは来てくれた。助けてくれた。ニーダーの胸に抱かれている間、ニーダーへの憎しみを、別の感情がはじめて上回った。
「ニーダー……ありがとう……」
ラプンツェルは、しゃくりあげながら、やっと言った。ニーダーが、小さく息を呑む。
ニーダーが立ち上がった。寝台が少しだけ沈む。頭まで被っていたシーツを、そっと剥がされた。
両手の指を揃えて顔を隠しているラプンツェルを、寝台の傍らに跪いたニーダーが、しばらく黙って見ていた。恐る恐るといった手付きで、ラプンツェルの手を退かせる。
ニーダーは目を丸くした。ラプンツェルは、酷い顔をしているのだろう。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。ぐすぐすと鼻を啜り、シーツに顔を擦りつけて、少しでもましにしようとする。
ニーダーはおろおろしている。ポケットチーフを引っ張り出して、ラプンツェルに差し出した。
「これ……使うか?」
ラプンツェルは白く柔らかい布で洟をかんだ。ニーダーは虚をつかれたように目を瞬かせ、小さくふきだした。
ニーダーは真っ赤になったラプンツェルの、湿った鼻先を撫でる。そして、ラプンツェルの両手を包み込んだ。
「私は、君とこの子を愛している」
ニーダーは真っ直ぐにラプンツェルを見つめて言った。
「君に告白しなければならないことがある。聞いてくれるか」




