狂気の沙汰
暴力描写、残酷な描写(切断)を含みます。ご注意ください。
ノヂシャがラプンツェルの頬を挟む手に、力を込める。指が頬に食い込み、顎が軋んだが、ラプンツェルは頑として口を開かない。ラプンツェルは目に涙をいっぱい溜めながらも耐えていた。顎を砕かれても、決して口を開けるつもりはない。
ノヂシャの歪な笑顔の中で、眼尻が裂けてしまいそうなくらい、目が大きく見開かれる。
「ニーダーは君のだ。でもさ、ラプンツェル。ずるいよ。ニーダーを独り占めにしてる。少しだけ、俺とルナトリアにも分けてくれよ。なぁ、ラプンツェル?」
ノヂシャは手に一層の力を込めた。砂を噛んだような嫌な音がした。
その時、ラプンツェルとノヂシャの間に、銀色の輝線が閃いた。ノヂシャの呆けたような顔が、鮮血に遮られる。
ぽとり、と軽い音をたてて地面に転がったのは、さっきまでラプンツェルの頬を掴み、脅かしていたノヂシャの手だった。
ラプンツェルは痺れる頭を擡げて、ノヂシャを見上げる。ノヂシャは血が噴き出す断面を、不思議そうに眺めていた。
黄色い脂肪を薄らと纏った真っ赤な肉が、青白い血管と、中央が黒ずんだ白い骨を包んでいる。
ノヂシャは呆けたように呟いた。
「あれ?」
背後で、ルナトリアが小さく悲鳴を上げて、地面に倒れ伏した。
ルナトリアを突き飛ばした人物は、太陽を背負い立っている。黒々としたシルエットを、ラプンツェルは呆然と見上げた。
「ニーダー……どうして」
ニーダーは答えずに、ラプンツェルの腕を掴み引き起こすと、強く抱き寄せた。
伸ばした右腕の延長線上にある刀の切っ先で、ニーダーはノヂシャの喉を扼している。白白と輝く刀身から、鮮やかな赤い血が滴っていた。
ラプンツェルは立っていられずに、ニーダーに身体を預ける。ぴったりとくっつくと、ニーダーの胸板がせわしなく上下していた。呼吸が浅く速い。
首を巡らせると、氷を彫ったような無表情が頭上にある。ニーダーはノヂシャから目を逸らさず、ラプンツェルの疑問に答えた。
「君が人払いをしたと、ゴルマックが知らせた。妙だと思ってな。取り急ぎ戻ったのだ」
刀の柄を握るニーダーの手に力が入ると、切っ先がノヂシャの喉に食い込み、血が流れた。
ニーダーは、焦点の甘い瞳を虚空に遊ばせているノヂシャに、端的に問いかけた。
「これは、どういうことかな。ノヂシャ」
ノヂシャは冷や水を浴びせかけられたように、身を竦ませた。切り落とされた手首の痛みさえ、たいして感じていないようなのに、ニーダーが少し凄めば、敏感に反応する。
ノヂシャは左手に持っていた小瓶を掲げると、しどろもどろになりながら、言った。
「おれ……ラプンツェルに、祝いを……元気な赤ん坊が生まれるように……」
「ほう。我らが子の為に、献上してくれたのか」
ニーダーはせせら笑う。するりと刀を引き、ラプンツェルから離れると、ノヂシャの手前で屈みこむ。ノヂシャの強張った指から、小瓶を取り上げた。黒い毒液がはね、ニーダーの人差指と親指の指股を濡らす。
「気持ちだけ、ありがたく頂こう」
そう言うと、出しぬけに、ノヂシャの弛緩した顔を鷲掴みにした。小瓶の口をノヂシャの唇に押しあてる。
「一滴残らず飲み干せ。それとも、そこに転がる不埒な右手の隣に、生首を並べたいか?」
小瓶のふちがノヂシャの歯にあたり、がちがちと音を立てる。震えているのは、ノヂシャではなくニーダーの手だ。肩に、押し殺しきれない怒気が漲っている。
ノヂシャはゆっくりと瞬きをした。ふわふわと宙をさまよう視線が、迫持ちに寄りかかるラプンツェルの視線と絡む。ノヂシャは目を閉じ、唇を開いた。左手をニーダーの手に添えて、小瓶を傾ける。
ラプンツェルは両手で口を覆った。ノヂシャは堕胎の毒を、喉を上下させて飲み下している。それも、甘露でも与えられたように、恍惚とした表情で。
小瓶を空にすると、ノヂシャは目を瞠るニーダーの手をとり、唇を寄せた。
ニーダーの指に纏わりつく毒液に、ねっとりと舌を這わせる。ぴくりと震えた指を舐め上げ、指先を唇に含んで、ノヂシャは零れ落ちる滴を啜った。
ノヂシャの目は愉悦に蕩け、はっきりと笑っている。
次の瞬間、ニーダーはノヂシャの頬を張り飛ばした。すっくと居上がると、転倒したノヂシャに侮蔑の眼差しを向けた。
「汚らわしい」
吐き捨てると同時に、刀を上段に振りかぶった。そのまま振り下ろす。
しかし、氷刃はノヂシャの首を落とすことはなく、硬質な音を立てて跳ね返された。
いつの間にか、覆面の騎士がノヂシャの傍らに立っていた。その手には刃渡りの短い短剣を携えている。
覆面の騎士は身体の力をぬいて、腕をだらりと両脇に垂らしていた。無造作な姿勢だが、隙がない。野に潜む獣のようだった。
ニーダーは覆面の騎士を睨みつける。ところが、何も言わずに、露払いをして、鞘に刀をおさめた。
王であるニーダーに刃を向けた騎士が、咎められるどころか、ニーダーの譲歩を引き出したのだ。あり得ない状況に、ラプンツェルの理解は追いつかない。本来あるべきものとは真逆の力関係が作用していた。
張り詰めた沈黙を打ち破ったのは、ルナトリアの軽やかな笑い声だった。ルナトリアは地に伏したまま、笑っている。
ニーダーはルナトリアに険相を向けた。噛みつくように言う。
「何を笑う、ルナトリア。君もこの豚と同じようにされたいか?」
ルナトリアはくすくすと笑いながら、やおら上体を起こした。帽子は跳ね飛ばされていて、チュールに遮られることのない、素顔が露わになる。
病的に白い顔だった。白粉をはたいたのではなく、血の気が失せている。少女のように無邪気な笑顔を張りつかせた顔は、いよいよ人形めいている。
「お怒りはごもっともです。この子はニーダー様ですもの。この世の何よりも大切ですわ」
ルナトリアはとりとめない口調で言うと、己の腹を擦った。陶然と微笑む。
「ですが、大丈夫ですよ、ニーダー様。わたくしのお腹にお還りください。ここが、ニーダー様のあるべき居場所なのですから。わたくしが愛して差しあげますわ。愛しい愛しい、わたくしの赤ちゃん……」
ルナトリアは、くすくすと笑っている。ノヂシャは枯れ草に顔を埋めたまま、肩を震わせていた。慟哭しているのではなく、笑いを堪えているのだろう。
ニーダーの手が跳ねあがり、刀の柄にかかった。狂気が彼女を支配していると、気取ったらしい。一度は、柄を強く握り体を極めた。しかし、ルナトリアの壊れた笑顔を見つめるうちに、ニーダーの殺気は目に見えて萎んでいった。
唇を噛みしめ、ニーダーは慎重に臨戦態勢を解いた。
「二人とも立ち去れ。二度と王妃に近寄るな」
ニーダーは振り返ると、ラプンツェルを素早く横抱きにする。ドレスの襞から、塩の粒がぱらぱらと零れ落ちた。長居は無用とばかりに、ニーダーは踵を返す。
去りゆく背に、ルナトリアの明るい声がかけられた。
「左様でございますわ。お妃様。大切なお体を冷やしてはいけません。中へおはいりください。大切な、大切な、ニーダー様……」
ニーダーの瞳がうつろい、振り返ろうとした。けれど、ぎゅっと目を閉じると、振り返らずに歩調を速めた。




