家族のもとへ
残酷な描写、不快な描写があります。ご注意願います
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ノヂシャとの再会は、思いがけず早々に果たされた。
その晩、ニーダー不在の寝台の隅で猫のように丸くなっていると、こんこんと、窓硝子が叩かれる音がした。ラプンツェルは体を硬くして、耳をすませる。また、こんこんと窓硝子が叩かれる。桃色のカーテンに、ぼんやりと人影がうつり込んでおり、ラプンツェルは危ういところで悲鳴を噛んだ。
この部屋を訪れる者は、ニーダーの他にいない。ニーダーは今日、城をあけている。ニーダーがノヂシャと話しているラプンツェルを探してやって来たのは、そのことを伝える為だった。ニーダーはその足で執政室へ戻り、城内はなにやらあわただしかった。親衛隊も、ニーダーに伴われて行った。残っているのは、ラプンツェルの部屋の外で番をする騎士だけである。その騎士も、ラプンツェルが声をかけない限り、ラプンツェルにかかわらない。
では、こんな夜更けにラプンツェルを呼ぶ者は一体誰なのか。ラプンツェルはそっとシーツから這いだし、足音を殺してそうっと窓辺に近づいた。
いざとなったら……あまり気が進まないので、これは最後の手段にしたいが……大声を上げれば騎士がすぐにかけつけてくる。ラプンツェルは意を決して、カーテンを引いた。
「……ノヂシャ!?」
外にはノヂシャがいた。ラプンツェルは分厚いガラスにぺたりと手をつける。ノヂシャは身ぶり手ぶりで、窓を開けてほしいと伝えてくる。ラプンツェルはすぐに窓を開けた。冷たい外気が薄手のネグリジェに染みいってくる。ラプンツェルは声を押し殺して問いかけた。
「ノヂシャ! 大丈夫なの?」
口にしてから、その言葉に軽さにうろたえる。大丈夫な筈がない。けれど、ラプンツェルの心配をよそに、ノヂシャはすっかり落ち着いていて、こくんと首肯した。ラプンツェルは少しだけ安堵して、ノヂシャの真っ赤に染まった頬を両手で挟んだ。
「こんなに冷えて、寒かったね。話しは中でしよう。入って」
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃない。大変なことになってるんだ」
ノヂシャはしっかりした口調で言った。彼の言葉の切迫した響きに、ラプンツェルの背筋がぞくりとする。ノヂシャはラプンツェルの目を真っ直ぐに見詰めて、早口で事情を説明した。
「城下街で人が消えるのは、人喰いの仕業だって噂が広がって、民衆が混乱してるんだ。何処からか、暗い森の高い塔に人喰いが住み着いてるって、漏れたらしい。人喰い狩りが始まる」
つい大声をあげそうになったラプンツェルの口を、ノヂシャの手が覆う。しっ、と彼は鋭く言った。涼しげな瞳がきょどきょどと動き、汗が額に噴きあげている。
ノヂシャはとても怯えている。それなのに、こうして来てくれた。この、恐ろしい事実をラプンツェルに伝える為に。ラプンツェルは無理やりに心を落ちつけて、ノヂシャに目顔で続きを促した。ノヂシャは浅く顎をひいて話しを続ける。
「あんたたちのことは、王家の秘密だったはずなんだけど……。とにかく、どうにもならなくなって、ついに、国が動き出した。人喰い狩りが始まるんだ。ニーダーはあんたの家族を皆殺しにする」
ノヂシャはふと目を伏せた。言葉を紡ぐことがさも困難であるかのように唇をかみしめていたが、やがて意を決したように目を上げる。
「詳しいことはわかんねぇけど、たぶん、あんたの家族があんたをここに寄越したのは、こうなることを見越してのことだったんじゃねぇかな。妃って立場があれば、ニーダーに守って貰えるだろ」
ラプンツェルは、思い出していた。突然、ラプンツェルをニーダーの許へ送り出した家族たちの、身を切られるように辛そうな様子を。ノヂシャの言葉を裏付けるのに、これほどの説得力はない。
(私を、守るため……!)
なぜ、疑問に思わなかったのか。ラプンツェルの幸せを一番に考えてくれる愛しい家族が、望まぬ結婚を強いる本当の理由に、なぜ気が付けなかったのか。崩れ落ちそうになるラプンツェルを、ノヂシャは咄嗟に抱きすくめるように支えた。すぐにラプンツェルから身を放すと、顔を真っ青にして、けれど真摯にラプンツェルを見据えた。
「ここを抜け出す秘密の道を知ってる。俺はあんたを家族のところまで連れて行くことも出来る。もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。けど、そうしたら、あんたはニーダーを裏切ることになる」
最後の言葉に、ノヂシャの目が虚ろになる。彼は、ニーダーを裏切る恐ろしさを、身をもって知っているだろう。ノヂシャは強く頭を振って自分を取り戻すと、ラプンツェルの目を真っ直ぐに見詰めた。ラプンツェルの肩を掴む両手は震えているが、彼ははっきりと告げた。
「よく考えて、決めてくれ。あまり時間はないけど」
ラプンツェルの答えは決まっていた。ニーダーの脅迫が脳裏をよぎったが、愛する家族を救いたい。その為なら、どんな危険をおかしても構わない。
ただ、即答出来なかったのは、ノヂシャの身が危ぶまれたからだ。ラプンツェルの脱走の手引きをしたと知れたら、ノヂシャはいったい、どうなってしまうだろう。半分は血が繋がった弟だからと、ニーダーがノヂシャに容赦をしないことは、恐ろしいほどに思い知った。
けれど、ラプンツェルは決断しなければならない。躊躇いのあと、ついに言った。
「行く。私の家族は塔のみんなだけ。むざむざ見殺しになんて出来ない!」
「……わかった」
ノヂシャの目が洞のように暗く翳る。それは一瞬のことで、瞬きひとつで嘘のように消えていた。
ノヂシャはラプンツェルを抱きあげて部屋から連れ出した。ノヂシャの用意した外套を纏い、靴を履き、ノヂシャに手を引かれ、ラプンツェルはひた走る。庭を抜けると、高い剣状柵に囲まれた墓所へたどり着く。ノヂシャの案内で、木の影に隠れた横穴から墓所へ侵入した。
入ってすぐのところにある、ハシバミの木の隣の、何の変哲もない墓石をノヂシャが退かすと、そこには秘密の地下通路が続いていた。
「この隠し通路は、城下町の近くの森に続いている。あんたの家、そこから近い筈だ。本当なら、王家の人間しか知らない。ヨハンとマリアの両親は墓守だったから、知ってたんだ。もしもの時は、ここを通って逃げろって、俺にも教えてくれた」
そう語ったノヂシャの横顔が悲壮で、ラプンツェルはノヂシャの手をぎゅっと握ることしかできなかった。
暗い道を、カンテラの灯りだけを頼りに進む。ラプンツェルは何度も躓いたが、ノヂシャが支えてくれるお陰で転ばずにすんでいた。
ラプンツェルはノヂシャに心から感謝していた。出会ったばかりのラプンツェルと、その家族の為に危険を冒してくれる。ノヂシャは勇敢すぎる。だからこそ、訊ねずにはいられない。
「どうして、私たちの為にここまでしてくれるの?」
ノヂシャはしばらく答えなかった。ここまでしてくれるノヂシャを、疑っているかのようにとられてしまったのだろうか。だとしたら、あまりにもぶしつけだ。ラプンツェルが謝ろうとしたとき、ノヂシャがぽつりと呟いた。
「あんた、良い人だ。それに、なんだか他人とは思えない。あんたには、俺みたいになって欲しくなかった……」
ラプンツェルは胸がひき絞られる思いだった。ノヂシャが哀れだ。ノヂシャは喪ってしまったのだ。大切な家族を。ラプンツェルなら、きっと心が壊れてしまう。
「君も、一緒に逃げよう」
ラプンツェルの呼びかけに応えず、ノヂシャはぴたりと歩みをとめた。足で先を探り、ラプンツェルを振り返る。
「出口だ。地上に出られる」
先に出たノヂシャに引き上げられたラプンツェルの背筋が凍る。慣れ親しんだ緑と土の匂いは、恐ろしく燃え盛る火の匂いに掻き消されていた。あたりと見渡すと、黒々とした煙と白々と燃える火の子が立ち上る方に、塔が聳えている。
「お父様……ヒルフェ、みんな……!」
ラプンツェルは駆けだしていた。ノヂシャの制止の声も、追いかけてくる足音も聞こえない。無我夢中で、家族を求めて走った。尖った枝やイバラで手足を切った痛みも感じない。
灌木の茂みを掻きわけて、敷地内に踏み込んだラプンツェルは、愕然とした。
愛しい生家は真っ赤に染まっていた。それは全てを食いつくさんとする凶悪な炎の色であり、ラプンツェルが愛する人々が必死の抵抗の末に流した悲しい血の色でもあった。
外に出られないラプンツェルを、美しい花花で慰めてくれた優しい庭師が、せめて皿の上に広い世界を感じて欲しいと腕によりをかけて美味しい料理をつくってくれた料理人が、兵士たちの凶刃に倒れ地に伏している。
「銀蝋に火を絶やすな!」
声をとどろかせたのは、隻眼の騎士だ。確か、親衛隊の一員だった。
「燃やせ、火だるまにしろ! 灯し油を効果的に使え、輝殻も満足に纏えない程度の人喰いどもだ。臆することはない!」
「家人と見栄えのする使用人は生け捕りにしろ。後の公開処刑で使う」
そう言ったのは、炎の中にあっても絶対零度の存在感を放つニーダーだった。影のように隻眼の騎士を従えた彼が付き立てた刀の先では、手足を切り落とされたヒルフェが、陸に打ち上げられた魚のようにびくびくと痙攣している。切断面から真っ赤に濡れた塩がぼとぼとと零れている。ニーダーはヒルフェを一瞥もせず、覆面の騎士を伴い兵士たちと銀の炎の影に消えた。
兵士の蛮声が上がる。聞き覚えのある悲鳴が聞こえる。アンナが輝殻に覆われた腕を振り上げたが、銀の火を纏ったクレイモアの一薙ぎで、アンナの両の腕の肘から上が宙を舞う。鮮血から一拍遅れて、アンナの悲鳴が迸った。
「いやぁぁぁ! 痛い、痛い痛い痛い、痛いよぉ!」
泣き叫ぶアンナを蹴り飛ばし、兵士は嗜虐心も露わに高笑いした。
「かわいそうにな。人喰いでなけりゃ、こんな目にあわずに済んだってのに」
嘲笑の名残を残したまま凍りつき、ゆっくりと崩れ落ちる兵士。その脳天に、斧に似た形状の、硬化した腕を振りおろし続けるのは、リーナだった。
「チクショウ、やりやがったな、クソ野郎ぉ! 絶対許さない! 貴様らみんな、ぶっ殺してやる!」
可愛らしい大きな双眸を、眦が切れるほどに見開いて血の涙を流しながら、リーナは腕の斧を振りおろし続ける。
しかし、すぐに兵士たちに取り囲まれてしまった。腕を燃やされたリーナは地に転がされ、兵士たちに袋だたきにされる。仲間の遺体をつま先でつつき、兵士の一人が吐き気を堪えるような動作をした。
「うっぷ、ひっでぇ、なんてことしやがる」
「油断ならねぇ、やっぱり魔女だ! 悪魔と通じた呪われた女だ!」
一人の兵士が仲間たちを制止する。しゃがみこみ、リーナの尖った耳を掴んで力任せに引き上げた。苦鳴を上げるリーナの、血だらけの顔をまじまじと見つめ、やにさがる。
「いやぁ、それにしても、悪魔ってのは面喰いなんだな? 」
兵士が濡れた笑みを漏らすと、波紋が広がるように兵士たちの顔が好色に染まる。
「確かにな。そこの娘も結構かわいかったぜ。ガキの癖に、なかなか良い体してるしよ。ま、せっかくの長い手足は、ちょん切れちまったが」
兵士のひとりがアンナの首根っこを掴んで引き上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を見て、兵士たちは笑いさざめいた。
「おいおい、きったねぇな、おい!」
「しょんべんまで漏らしてんじゃねぇか」
「これから城の塔に連れてかなきゃなんねぇんだ。クソはひりだすんじゃねぇぞ」
「臭ぇもんをひり出さねぇように、つっこんで塞いでおいたらどうだ?」
下卑た顔つきで懐をまさぐっていた兵士の足首に、リーナが噛みつく。兵士は尻尾を踏まれた犬のように飛び上がった。
「アンナに触るな、ゲス野郎!」
「いってぇ! くっそ、このアマ、まだ動けんのか!」
「んじゃ、これならどうよ」
「いっ、ぎゃあああ……っ!」
「や、やめて! リーナにひどいことしないで、いやぁ……!」
リーナの右耳が根元から削ぎ落される。気丈なリーナも、これにはのたうちまわった。湧き立つ兵士たちの歓声に、アンナの悲鳴が掠れて聞こえる。
ラプンツェルはその場にへたり込んだ。
「あ、あ、ああ、ああああ……」
何もかもが遠い。まるで趣味の悪いグランギニョールを観劇しているみたいだ。ショックが大きすぎて、理性も感情も処理が追いつかない。
「ラプンツェル……」
ラプンツェルは緩慢な動作で振り返る。ノヂシャが追いついてきていた。ノヂシャは腰を抜かしたラプンツェルを抱きあげ、横抱きにすると、迷いのない足取りで進み出る。兵士たちはノヂシャを見つけると驚いたようだったが、誰もノヂシャの行く手を阻もうとしない。
おかしい。霞がかった頭でそう考えた時、ノヂシャは歩みをとめた。ノヂシャが視線を上げる。ラプンツェルもノヂシャの視線を追って、剣状柵から壁を伝い、懐かしい自室のバルコニーを見上げる。
ニーダーがそこにいた。刀をペンのように軽々と掲げている。刀は串刺しにしたシーナを宙づりにしていた。
ラプンツェルの朦朧とした意識が、濁流のような残酷な現実に押し流されて戻って来る。ラプンツェルは叫んでいた。
「シーナ!」