命の危機
不快感をもよおす恐れのある描写、暴力描写(押さえ付け、蹴り)が有ります。ご注意ください。
ルナトリアが、ぎゅっとラプンツェルの腰を抱きしめる。彼女の豊満な胸がラプンツェルのお腹を圧迫する。膿を搾りだそうとするかのようだった。
ルナトリアは正気ではない。流産という悲劇に見舞われ、壊れてしまった。そうでなければ、子どもを殺してしまえと、言える訳がない。
頭の中身が白く発火する。ラプンツェルは猛然とルナトリアを突き飛ばした。信じられない程の力を発揮して、ルナトリアを退けた。尻もちをつくルナトリアに目もくれず、ラプンツェルはドレスの裾をたくし上げ、踵を返そうとした。
しかし、退路は塞がれていた。ノヂシャが高く分厚い壁のように、立ちはだかっている。
「ラプンツェル……待ってた」
ラプンツェルは呆然自失としてノヂシャを見上げた。ノヂシャの左手がラプンツェルの頬に添えられる。差し出した右の掌に、黒い小瓶が鎮座していた。
「これ、ルナトリアが家から持ち出してくれたんだ。ルース公爵秘蔵の品だから、効果は確かだぜ。これでいい。これで、ニーダーに植えつけた希望を、刈り取ってやろう」
小瓶の中で、黒い液体が波打つ。ノヂシャは甘い瞳を光らせ、綺麗に微笑んだ。
「きっと、最高に良い顔が見れる。楽しみだな、ラプンツェル」
ラプンツェルは弾かれるように後退したが、背がルナトリアにぶつかって、逃げられない。ルナトリアが哄笑しながら、ラプンツェルを背から抱きすくめ、身動きを封じていた。
「ええ、とても楽しみです……ニーダー様がわたくしの許へ帰ってきてくださるのだもの。楽しみだわ」
ルナトリアがラプンツェルの耳元で囁く。腹部を撫でまわす手つきに怖気立った。ノヂシャとルナトリアは本気で、ラプンツェルに堕胎させようとしている。
ノヂシャの「復讐」は、ラプンツェルの想像を遥かに凌駕していた。もっとずっと、おぞましい形をしていた。
俄かに信じ難いことだが、ノヂシャはラプンツェルが宿した子を、ニーダーを苦しませる為だけに、殺すつもりでいる。
ニーダーもきっと、ノヂシャに同じことをしたのだ。ノヂシャを絶望させる為に、ノヂシャの育ての親であるマリアとヨハンを惨く殺した。
「ノヂシャ……あなた、やっぱりニーダーを恨んでいるんでしょう。マリアとヨハンの仇をとるために、この子を殺したいのね……!?」
ラプンツェルは狭まった喉から、掠れた声を絞り出す。ノヂシャはふと目を眇めた。ニーダーと同じ寒々しい色の瞳が、白けたようだった。
「だから、違うって何度も言っただろ。俺はニーダーが好きだ。好きだから、ニーダーの全部が見たいんだよ。足元で踏みつけられていたら、見られない……奥の奥まで暴きたいんだ」
ノヂシャはラプンツェルの頬を摘まんだ。痛みに顔を歪めると、ノヂシャはにっこりとほほ笑む。
「そう。そういう顔も見たい。強くて綺麗なニーダーは知ってるから、弱って、ぐちゃぐちゃになってるニーダーが知りたい。好きだからだよ」
ルナトリアが呼応して笑う。ノヂシャとルナトリアは、ラプンツェルを挟んで、目を交わして笑い合っている。鼓膜から毒が染みてくる。ラプンツェルも、頭がおかしくなってしまいそうだ。
ノヂシャをここまで狂わせたのは、ニーダーだ。ニーダーは人の痛みを理解しない怪物だ。罪を贖うべきだと思う。
ニーダーは、ラプンツェルの妊娠をとても喜んでいた。彼は既に、父親になっている。ノヂシャのやろうとしていることは、最もニーダーを打ちのめすだろう。
ラプンツェルもニーダーに家族を殺された。お腹に宿っているのは、憎いニーダーの子だ。その子どもを殺すことで、ニーダーに復讐を果たす。そういう考え方も、確かにあるだろう。犠牲者の弔いを優先し、復讐鬼に徹することが出来るなら。
けれど、その為に失われるお腹の子には、何の罪もない。罪を犯せる筈がない。まだ、生れて来てもいない。
この子を殺すなら。欲しいものを手に入れる為に、無関係な人を殺めたなら。ラプンツェルはニーダーと同じだ。
ニーダーに家族を奪われたラプンツェルにはわかる。暴力で手に入れたものなど、砂のように指の間をすり抜けていくことが。
ノヂシャがしようとしていることは、ニーダーが父親から引き継いだ狂気を継承することだ。
このままでは、いつまでたっても、憎しみの連鎖は終わらない。
ラプンツェルは怯える心を奮い立たせた。
「触らないで!」
胎を探る手を叩き落とし、ルナトリアを肘で突き退ける。ノヂシャの脛を蹴飛ばした。
ルナトリアの拘束が緩んだ。ノヂシャはよろめいている。今しかない、とラプンツェルは直感する。ノヂシャに当て身をして、道を開ける。
駈け出そうとしたラプンツェルの肩を、ノヂシャの五指が掴んだ。鉤爪のように食い込む。振りほどこうとしたが、引き戻された。ノヂシャの膝がラプンツェルの鳩尾に突き刺さる。足の裏が一瞬、宙に浮いた。
「がっ……!」
苦痛が吐き気のように込み上げ、総身を突きぬける。四肢は力を失った。苦鳴が空気と一緒に、唇から押し出される。
痛み以上に、ラプンツェルに訴えかけるのは、お腹の中に宿った命の存在だった。
震えた気がした。蹴られた瞬間、お腹の中で確かに、ラプンツェルとは別の何かが苦痛にのたうった。
(私の、赤ちゃん……!)
ラプンツェルは腹を庇って蹲った。ノヂシャは項垂れるラプンツェルの髪を掴んで、引きあげる。
「騒いじゃダメだ。いくら人払いしていても、騒ぎ過ぎたら、不審に思われて、邪魔される」
聞きわけのない子どもに、言い聞かせるようにノヂシャは言った。そして、小瓶のコルク栓を摘まむ。ノヂシャはうっすらと微笑んでいた。
ノヂシャに、小さな命を思いやる心がないことは、火を見るより明らかだった。ノヂシャは、いとも簡単に言ってのける。
「これで子どもを流してしまっても、終わりじゃない。いいか、ラプンツェル。これで終わりじゃないんだ。また見れる。君が孕めば何度でも、ニーダーは苦しんでのたうちまわる」
ラプンツェルは歯の根が合わない。閉じられない唇から、涎が垂れている。ノヂシャは涎に濡れたラプンツェルの顎を、躊躇いなくとらえた。ルナトリアの細腕が、まるで蜘蛛の糸のように、ラプンツェルを背後から絡め取っている。ノヂシャは目を細めた。
「君は俺らと違って、ニーダーのことが好きじゃないから……いつまでも、付き合いきれないか? いいよ、それでも。君が飽きてしまったら、家族を連れて出て行くと良い。高い塔の人喰いたちは、俺たちと違って『宿り換え』が出来るんだってさ。その時は協力する。でもその前に、一緒に楽しもうぜ」
ラプンツェルは頭を振ろうとした。ルナトリアのほっそりとした指が、首筋を這って、思わず首を竦める。ルナトリアはラプンツェルの耳孔に、熱っぽい囁きを吹き込んだ。
「愛しいわたくしのニーダー様。さぁ、出ていらっしゃい。お母さまが愛してあげますよ。もう二度と、誰にもあなたを傷つけさせないと約束するわ。だから安心して、お母さまのお腹に帰ってきてちょうだい」
ノヂシャは苦笑すると、肩を竦めて言った。
「ルナトリア、まだ夢から醒めないんだ。可哀そうだと思ってくれるよな? 君は優しいからさ。……出てきた子どもは、ルナトリアにやってもいいだろ」
ノヂシャの左手が、ゆっくりとラプンツェルの頬にかかる。ノヂシャの目は、闇に光る夜走獣の瞳のように、ぎらぎらと輝いた。両端を吊り上げた唇から覗く犬歯は、白く尖っていて、血に飢えている。
「ニーダーの子を食べて、腹におさめたら、ルナトリアのお腹に赤ん坊が帰ってくる」
ノヂシャは右手に持った小瓶のコルクを咥えて、栓を抜く。小瓶の中で、黒々とした液体が波打つ。
本当に恐ろしい時には、声が出ないようだ。ラプンツェルは我武者羅に足掻いたが、どうにもならない。




