不安な夜
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ノヂシャとは会っていない。そもそも、ラプンツェルがノヂシャと会うのは、ノヂシャがラプンツェルを訪ねた時か、ラプンツェルが中庭に出た時だけだった。ラプンツェルは中庭に出るのを止めた。ノヂシャとはち合わせたらと思うと、恐ろしかったからだ。
(ノヂシャは、私とゴーテルの約束を知っているみたい)
ラプンツェルは、口が裂けてもこの秘密は漏らさない。ノヂシャには、ニーダーの息がかかっていると認識しているからだ。
ラプンツェルでなかったら、ゴーテルが漏らしたのか。それこそ、あり得ない。消耗しきったラプンツェルに語りかけたのは、ゴーテルの魂か、そうでなければ夢か幻である。ゴーテルが生きていたら、ラプンツェルに会いに来ることなんて出来なかった。ここはブレンネン城の後宮だ。
残るは、ラプンツェルが無意識のうちに、例えば寝言で、あらぬことを口走ってしまった可能性である。しかし、それをノヂシャが聞く術はない。寝言を聞くとしたら、ニーダーだけだ。
(まさか、ニーダーからノヂシャに伝わった? ニーダーに私の魂胆を知られてしまった?)
だとしたら、破滅はすぐそこで大きな口を開けて、ラプンツェルを待ち構えている。
ゴーテルとの約束は、守れないだろう。生き残った家族も殺されてしまう。ニーダーは逆上して、ラプンツェルのことを、残酷に殺すかもしれない。裏切りの果ての死は、さぞかし辛いだろう。しかし、ひとつだけいいことがある。ニーダーの心に深刻な痛手を負わせることが出来るに違いないのだ。
一度は、肉体の死よりも辛い、精神の死を覚悟した身である。だからと言って、殉教者のように、潔くはなれそうになかった。体の震えがとまらない。恐ろしいことは、考えたく無い。
心とは現金なものだ。苦痛に晒され続けると、それに対する反応が鈍化する。しかし、一度解放されれば、また苦痛に敏感になり、それを忌避しようとする働きを取り戻す。
今のラプンツェルには、暴力の嵐を耐え抜く覚悟がない。
卵の殻の上を忍び足で歩く、不安定な暮らしに逆戻りだ。ニーダーを気にして、動静を窺わずにはいられない。今のところ、凶暴化の兆候は見られなかった。
満月がまるで貴婦人のように、雲の薄絹を纏う夜。メイドたちは、丹精こめてラプンツェルを磨きあげる。その努力が徒労に帰すことが、わかりきっているのに。そう思いながら、ラプンツェルは夫婦の寝室に戻った。
ニーダーはいつものように、長椅子に腰かけている。暗くした部屋で、手許に灯りを引き寄せて、難しい顔で文字を追っている。ニーダーはラプンツェルをちらりと見たけれど、すぐに読書に戻った。心なしか、眉間に刻まれる影が濃いようだ。
執務を終えて部屋に戻ってから、ニーダーはずっとこんな調子だ。顰め面で黙り込む。ラプンツェルが話しかけると答えはするのだが、どこか上の空だ。その一方で、焦げ付く程ラプンツェルを凝視している。
ラプンツェルは内心、気が気ではなかった。ニーダーはラプンツェルの裏切りに気づいているのだろうか。
何を話しかけても「先に休んでいなさい」と追い払われるのが関の山だ。
ラプンツェルは無言で寝具に潜り込んだ。眠ってしまえばニーダーを気にしなくて済む。
体は温まっている。尖った神経は、メイドに頼んで施して貰った香油のマッサージのお陰で、強張った筋肉と一緒に解きほぐされていた。髪から香る椿の香りが、ラプンツェルをゆるやかに夢の世界へ誘っていく。
ニーダーを気にするあまり、精神が疲労している。すぐにでも、ぐっすり眠れそうだ。
まどろんでいると、向こう側の灯りが揺れた。ニーダーが火を吹き消したようだ。
(あれ? もう寝るんだ)
ニーダーは就寝前に必ず本を読む。難しいことが難しい言葉で延々と綴られた、ラプンツェルが一目で読む気をなくしてしまう難しい本を読んでいる。ニーダーは読書が趣味で、本の虫らしい。ラプンツェルも読書は好きだが、ニーダーとは楽しみ方が違うと思う。
ラプンツェルは読書そのものを楽しむが、ニーダーは読書で研鑽を積むことを楽しんでいるのだ。時間を忘れて夢中になって、朝方まで読みふけっていることもあるようだ。朝が早いのだから、睡眠はしっかりとるべきなのに。寝不足でも、うたた寝をしたり、居眠りをしたり、欠伸をしたりしないと言うのだから、見上げた心がけである。
もしかしたら、ニーダーは疲れているのだろうか。だから表情は険しく、言葉数も少なかったのかもしれない。
(うん、きっとそうだよ。疲れてるだけだ、ニーダーも私も)
ニーダーが寝台に入って来る気配がある。うとうとしていたのだけれど、肩に手をかけられ、眠気が霧散した。くるんと体を反転させられる。ぱっちりと目を開けると、ラプンツェルは仰向けにされていて、ニーダーが覆いかぶさっていた。




