背中
昼前に、ニーダーは執務に戻った。夜になるとまたやって来た。その日は自室に戻らなかった。ニーダーは当たり前のように寝支度を整えて、当たり前のようにラプンツェルと同じ寝台で眠ることを決めていた。
ラプンツェルは、特に驚かなかった。入浴を手伝ってくれるメイドたちは、いつもより念入りに、ラプンツェルの肌を磨き、良い香りのする椿油をまぶした髪を梳き、爪の先まで整えたけれど、ラプンツェルには何かが起こるとは思えなかった。ニーダーはこどもみたいなものだから、下心なんてなしに、ただ一緒に眠りたいだけに決まっている。
戻ると、部屋は薄暗かった。ニーダーは長椅子に腰かけて、手元の灯りで本を読んでいた。
「先に休んでいなさい」
と言われたので、ラプンツェルは大人しく寝具に潜り込む。「暗いところで本を読んだら、目を悪くするよ」と注意したい気持ちはあったけれど、いくらこどもみたいなものだからと言って、こどもにするみたいに小言を言うのは憚られる。何せ、相手はニーダーだ。
程なくして、ニーダーは手許の灯りを消し、寝台に入ってきた。はたして、ニーダーはタヌキ寝入りを決め込むラプンツェルに、指一本触れようとしない。そのかわり、視線を感じた。ラプンツェルの寝顔を眺めているようだ。しばらくしてから、ニーダーが横になると、ラプンツェルは寝がえりを打った。
ラプンツェルがニーダーの方を向いても、ニーダーはラプンツェルに背を向けている。体の右側を下にした横向きでないと、ぐっすり眠れないのだと、以前、聞いてもいないのに言っていた。まるで言い訳するようだった。ラプンツェルはニーダーが背中を向けていても、冷たいとは思わないし、寂しいとも思わないのに。気遣いなのか、それとも、寂しがって欲しいのか。恐らく、両方だ。
向けられた背中を、ラプンツェルはじっと見つめていた。起きているときは、背筋をぴんと伸ばし、肩肘を張って、常に堂々としているけれど、寝姿は正反対だった。寝台の隅で、小さく丸くなって、ニーダーは眠る。
ラプンツェルがニーダーの背中にぴったりとくっつくと、まだ起きていたらしいニーダーが、肩越しに振り返る。ラプンツェルはニーダーの背中に額を押しあてていたので、ニーダーの表情はわからなかったが、戸惑いがちな気配が伝わって来た。
「……ラプンツェル?」
ニーダーはラプンツェルと向き会う為に、寝がえりをうとうとする。ラプンツェルはニーダーの背中を押して、その動きを止めた。
「背中がいいの」
素っ気なくそう言ってから、ラプンツェルは偲び笑いを漏らした。少し前までは「あなたの背中が好きなの」と、いけしゃあしゃあと嘯くことも厭わなかったのに。今はそんな気分になれない。騙してやろう、支配してやろういう情熱は、沈静化してしまった。
謀ることなく、ラプンツェルはただ、望みを口にしただけだった。何か縋りつくものはほしい。この際だから、ニーダーの背中でいい。
この背中を高い塔に燃え盛る火の中に見つけた時、ラプンツェルの憎悪の炎はそれ以上に燃え上がった。この悪魔を決して許さない。地獄の業火に燃やされて、すじりもじり死ねばいい。あの時の憎しみの炎は、消えることはない。
(この男のすべてになって……そして全てを奪う。ニーダーを最悪のかたちで裏切る)
ニーダーを支配し、堕落させて孤立させて、彼の名誉も信頼もすべて捨てさせてやる。父親と同じように、煌びやかな王座から引きずり降ろし、暗く惨めな牢に鎖で繋いでやる。生き残った家族を救いだし、今度は高い塔の家族たちが、ニーダーを踏みつけにしてやる。
ラプンツェルの産む子が、ブレンネン王国をニーダーから奪い取るのだ。
ところが、燦然と輝いていた計画は、今やひどく古ぼけてしまった。ラプンツェルは、ニーダーの背に頬ずりをする。
ニーダーを意のままにすることは、思っていたよりもずっと簡単かもしれない。ニーダーにとって、ラプンツェルは幸福の象徴で、天国への梯子ではなく天国そのもの。ラプンツェルに愛される為なら、ニーダーは本当になんでもやるだろう。罪を罪だと知りながら、犯してしまう。
その果てに、待っていたのが裏切りだったら。引き取り手のない彼の魂は、どうなってしまうのだろう。
ニーダーは名王と謳われ、ブレンネン中の尊敬と敬愛を一身に集めている。しかし、それとて、彼の言うところのお仕着せだ。彼の父親もまた、同じように尊ばれていた。ニーダーはきっと、父を標にして、父の足跡を踏襲して、ここまでやって来た。だから、名王はニーダーではなく、ニーダーの父なのだ。
ニーダー自身は、野良犬のように忌み嫌われ、路傍の石ころのように見向きもされずに捨てられた。ニーダーはまだ暗い森の中で、高い塔を見上げている。
だからと言って、ニーダーのしたことは変わらない。ニーダーは罰を受けるべきだ。
けれどニーダーが、たった一人で逝くことが怖いと言うのなら、ラプンツェルはその背中をそっと押して、炎にまかれる彼の体に、自らを重ねるべきなのかもしれない。
(ゴーテル……私はどうしたらいい?)
夢でも幻でもいい。ゴーテルに教えてほしかった。けれど、ゴーテルは現れない。ラプンツェルは、元の姿勢に戻ったニーダーの背に縋った。




