告白2
「母が亡くなって、間もない頃だ。私は野良犬のように忌み嫌われ、追い立てられるように城を出た。……いや、正直に、逃げ出したというべきかな。夜更けに墓地へと向かう道すがら、何人かの召使に姿を見られたが、誰にも声はかけられなかった。王位継承者としての責任を放棄した私など、ただの卑しい子供。仕えるに値しないと……彼らが思ったかどうかは知らぬが。とにかく私は何の妨害も受けずに、秘密の地下通路に通じる墓地に辿りついた。通路を抜けると、そこは暗い森の中だった」
唐突に始まった昔語りに、ラプンツェルは面食らっていた。巷に伝わるニーダーの過去は、苦境から逆転を果たした単孤無頼の王子の英雄譚であり、苦しみは一言で済まされる。それが、ニーダーの口から語られると、明言しなくても、重みがまるで違った。
ニーダーは自嘲の笑みを唇に刷き、続けた。
「これぞ神の思し召しだ。王になるべく生まれた者が、王になることを諦めるのなら、それ以上、徒に生きて何になろう。森に踏み入れば、素早く動く鋭い爪と力強い顎を備えた、血塗れの情け深い獣が私の固い心臓を噛み砕き、いたずらな生に終止符をうつ」
ニーダーは一息ついた。抑揚のない、均した口調で語っているが、目がどんよりと曇り、疲れきっているようだ。語ることではなく、昔を思い出すことが辛いのだと思う。
無理をして語らなくても良いと、とめようとは思わなかった。ニーダーは話すことを望んでいたし、ラプンツェルも続きが聞きたかった。
やがて、ニーダーがまた語り出す。
「出来ることなら、死にたくはなかった。誰も迎えに来てはくれぬと、わかっていたからだ。父には疎まれていた。母は優しかったが、私を愛してはくれなかった。そうでなければ、私をあんな地獄に一人残して、父のあとを追って逝かれる筈がない。……私の魂は何処にも迎え入れられず、寂寥のなかで朽ちて行くだろう。それを思うと、死ぬのは怖かった」
ニーダーが口を噤む。ラプンツェルは何か言わなければいけない気がして、口唇を開いたけれど、何も言えずに俯いた。
母はいなかったが、父と弟、優しい家族に囲まれて、幸せに育ったラプンツェルには、ニーダーがさらりと語った身の上が、少しも理解できていないと思ったからだ。ただ、ニーダーを見つめることしかできない。
見つめていると、ニーダーの顔から、手強いものがせめぎ合っているような険が消えた。
「その時だ。立ち尽くす私の耳に、不気味な鳥の囀りでも、血に飢えた獣の呻き声でもなく、歌声が聞こえてきた。汚濁した現世の人間が、このような澄んだ声で歌える筈がないのだから、きっと天使の歌声に違いない。私は歌声のする方へ導かれた。そして、高い塔に辿り着いた。見上げると、そこに君がいた」
そう言って、ニーダーはラプンツェルに目を向けた。はっとするほど優しい眼差しだった。
「笑顔で歌っていたんだ。あまり上手ではなかったが、君は楽しくて仕方がない様子だった。私はいつまでも、君の笑顔を見つめ、歌を聞いていた。メイドが窓を閉めてしまうまで……閉めてしまった後も、君がまた、あの窓から顔を出してくれるのではないかと期待して、ずっと見上げていた」
ラプンツェルは、記憶の箱をひっくり返して、該当する記憶を探した。しかし、見つからない。ちらりとでも、視界に入れば、覚えている筈だ。暗い森にニーダーの姿を見つけたのなら、ラプンツェルは心を奪われただろう。こんな表情で、ラプンツェルを見上げる少年を、忘れる筈がない。
しかし、ラプンツェルは思い出せなかった。暗い森に佇む少年の姿を、幼いラプンツェルは見つけられなかったのだ。
ニーダーは俯いたラプンツェルに語りかけてくる。
「君たちの話は、母から訊いていた。森の奥深くに、高い塔に閉じ込められた、不幸な一族が住んでいる。私たちと同じく、悲しい運命の下に生まれた、気の毒な仲間なのだと、母は教えてくれた」
気の毒な仲間と、ニーダーは高い塔の家族を呼んだ。その仲間達をニーダーは虐殺したのだ。高い塔は幸せだった。不幸なんかじゃなかった。ニーダーの母に、いったい何がわかったと言うのだ。
しかし、ラプンツェルは言えなかった。夫に虐げられる孤独な女性が、同じ痛みを誰かと分かち合いたいと願うのは、仕方のないことだから。
ニーダーは続ける。
「……ところが、君は幸せそうだった。翼を折られた籠の鳥なのに、君は健やかで、のびのびとしている。不幸の翳りは少しもない。君は奇跡のようだ。一目で君を愛しいと思った。だから私は王になる為に、城に戻った。王になれば、この国は私のものだ。君を……奇跡の天使を、我が手に出来る。地獄でも天国に変えられる、奇跡の力をもった天使が、私の傍で微笑み歌ってくれれば、私の地獄もまた、天国に変わる」
ラプンツェルは、俯けたまま顔を上げられなかった。どうしてこんなに、後ろめたいのか、わからない。
ニーダーは、大切な宝物を両手にのせて差し出すように、ラプンツェルに語っていた。その宝物が、ラプンツェルには恐ろしくて堪らない。あまりに綺麗過ぎて、危ういのだ。少しでも汚れたり傷がついたりしたら、破裂してしまいそう。その宝物がラプンツェルだと言うのなら、ニーダーは決定的な思い違いをしている。それがゆくゆくは、ラプンツェルを、そしてニーダー自身を破滅させる。
黙して語らないラプンツェルに、何を思ったのだろう。ニーダーは、声の調子を落とした。
「ところが、君は愛する者にしか、その素晴らしい笑顔を見せず、歌を聞かせない。私は愛されなかった。君を力尽くで奪い、君に愛される為に多くの罪を犯した。父はそうして、母に愛されたのだ。私も愛される筈だった。……しかし、君は死を望んだ。思い知ったよ。いくら父に倣っても、私はやはり父には遠く及ばない。愛するに値しない男なのだ」
ニーダーはラプンツェルの肩に腕を回し、そっと抱き寄せた。ラプンツェルの頭に顎を載せる。強い酒にあてられ、くらくらと酩酊しているように、彼は囁いた。
「それでも、いい。あの日のように笑ってくれなくても、傍にいてくれればいいんだ。君が私を愛せずとも、その分、私が君を愛するから……だから、歌っておくれ、ラプンツェル。私の為でなくていい。歌ってくれるだけでいいんだ」
こんなことを、今になって突然言うなんて。可哀そうな境遇を打ち明けて、だから縋らせてくれとでも言うのだろうか。ルナトリアを失って、もう、他に頼れるものがいないから。
ニーダーの体の熱に触れ、ラプンツェルは体の強張りがとけていく。そこから、体が震えだした。




