修羅場2
唖然としていたニーダーだったが、憤怒はふたたび音も無く彼に忍びよってくる。ルナトリアには優しくしていたが、ニーダーは本来、怒りに我を忘れてしまう、自制心の弱い男なのだ。
「ノヂシャに誑かされたか」
ニーダーが言った。ルナトリアがぱっと顔を上げると、綺麗な涙が星屑のように散る。
「あなた様こそ、何者に誑かされたのです!? わたくしのお優しい殿下を、悪魔のようにしてしまったのは、何処の誰なのですか!」
ニーダーの目から一切の感情が、嘘のように消えてゆく。瞳は本物の氷の玉のようで、眼差しは人の心を凍えさせる。
ラプンツェルは引き攣れた悲鳴を上げた。ニーダーは、ラプンツェルを鞭で打つときと同じ顔をしている。ニーダーは声を荒げずに怒気をこめて、ルナトリアを蔑む。
「悪魔とはお前のことだ。色欲に溺れた汚らわしい魔女の分際で、このニーダー・ブレンネンを愚弄すること罷りならん」
ルナトリアはふたたび両手に顔を埋めてしまう。肩を震わせ嗚咽を漏らした。泣きじゃくりながら、彼女は切れ切れに訴える。
「……もう一目だけでも、ニーダー殿下にお会いしたい……」
儚く哀れな姿を見て、ニーダーの目に後悔の念が過った。ルナトリアとの友情は、それだけ価値のあるものなのだろう。ニーダーはルナトリアに歩み寄ろうとした。それを制すように、ルナトリアが顔をあげる。
ルナトリアのきれいな顔は、凄惨な凄みを帯びている。ニーダーへの未練を、ばっさりと切り落としたことが、ニーダーを見つめる、燃えるような眼差しから伝わってくる。
確固たる決意の許に、ルナトリアは言い放った。
「ノヂシャ様に罪はありません。わたくしが慰めを欲して、関係を迫ったのです。わたくしの首を刎ねて、お怒りをお鎮めください」
ニーダーの無表情に、亀裂が走る。こどもが嫌々をするように、頭を振った。消え入りそうな声で、「ルナ」と親友を呼ぶ。ルナトリアは応えずに、挑むようにニーダーを見据えた。
ルナトリアの悲壮な覚悟を、ノヂシャは声を上げて掻き消した。
「俺は、無理強いされちゃいない」
ノヂシャはニーダーを見上げていた。ニーダーに睨まれると、蛇に睨まれた蛙のように竦み上がる。呼吸するのも難しそうにしながら、無理をして、ノヂシャは言った。
「ニーダー……俺を殺したいなら、どうぞ……そうしてください」
「ノヂシャ様、いけません」
ノヂシャはルナトリアの泣き顔を見上げて、首を傾げた。
「なぜ? 生きるのも、死ぬのも、そんなに変わらない。ニーダーが俺を殺したいなら、そうすればいい。それしかない。それに、貴女を独りで逝かせたくねぇから」
ルナトリアは唇をわなめかせる。ノヂシャを抱き起し、ぎゅっと抱きしめた。ノヂシャはルナトリアの肩越しに、ニーダーの恐ろしい形相に怯えていたが、そろそろとルナトリアの背に腕を回す。
永遠に思える沈黙を破ったのは、刀を鞘に納める音だった。ニーダーはくるりと踵を返して、吐き捨てる。
「よかろう。ならば君たちへの罰は、生き地獄がずっと続くことだ」
ニーダーは一歩踏み出すが、足元でちょろちょろしているネズミを踏みそうになって、立ち止まる。
ネズミはニーダーの軍靴に興味を示して、寄って来る。爪先によじ登ろうとしていた。ニーダーは、固く目を瞑る。喉から血を絞るように、言った。
「君には失望したよ、ルナトリア」
「そのお言葉、そっくりそのままお返し申します」
ルナトリアの返答は淡々としている。ルナトリアは、ニーダーを見限っていた。ルナトリアの心が瓶の水なら、一滴残らず、ニーダーからノヂシャへと、移してしまった後だった。
ニーダーの表情は死面のようで、様々なものが、削ぎ落とされている。
ニーダーは爪先を齧っているネズミを蹴り飛ばした。ぢっ、と声をあげ腹を見せるネズミを踏みつける。踏みにじり、ニーダーは吠えた。
「戻るぞ、ラプンツェル!」
外衣を翻し、歩み寄って来るニーダーの背後から、二人分の視線がラプンツェルに絡みつく。驚くルナトリアと、平然としているノヂシャ。声に出さず、ノヂシャは唇を動かした。
慄然とするラプンツェルの腕を強引に引っ張って、ニーダーは行ってしまう。後方に控えていた覆面の騎士を、ニーダーは「邪魔だ!」と怒鳴り付けている。ラプンツェルは、とばっちりを受けないよう、小走りについて行かなければならなかった。
色々な場合を想定して、対応策を考えていた筈なのに、ラプンツェルはただニーダーに引き摺られている。ノヂシャの声に出さない言葉が、ラプンツェルの脳裏に焼き付いていた。
『君の思い通りになったな』
ラプンツェルは、俯いた。ニーダーの靴裏に、赤い血がこびりついている。




