相談
***
その日の晩も、ニーダーは挨拶代わりに贈り物をしてくる。白薔薇のコンパクトだ。花弁の一枚一枚が、乳白色の石で出来ている。見事な細工に感嘆の溜息が零れた。誕生日を迎えた少女のようにはしゃぎ、ニーダーを良い気分にさせたところで、ラプンツェルは本日の本題を切りだした。
「ルナトリアとノヂシャが……特別な関係になってるって噂、知ってる?」
ラプンツェルは化粧台の前に立ち、コンパクトの鏡に顔をうつしているふりをする。鏡には、長椅子に腰かけるニーダーの姿をうつしていた。
ニーダーが好きそうな婉曲的な言い回しを採用し、言っていることの生臭さを取り除こうとしたのだけれど、それだけでは不十分だったようで、ニーダーは不快そうに眉を潜めていた。
「誰が、そのような下卑た噂を君の耳に入れたのだ」
返事をする前に、ラプンツェルはぱちんとコンパクトを閉じた。慎重に小物入れの蓋を閉める。くるりと踵を返すと、ニーダーは長椅子の座面をぽんぽんと叩いた。隣に座るように促している。ラプンツェルは素直にニーダーの要求をのんで、隣に座った。
ニーダーの眉間に、新しく刻まれた皺は深い。ラプンツェルは顎に人差指を添えて、少し顔を上向けると、天井に目を向ける。冷や汗をかいていることを悟られないように、祈りながらとぼけた。
「誰と言うか……ここを出入りする、多くのひとが気にしてることだけど……」
ラプンツェルはそう言って、ニーダーの腕にそっと触れる。上目づかいにニーダーと目を合わせた。
「怒ったの?」
不安そうに目を潤ませて訊ねる。ニーダーの眉間の皺が、二本消えた。ニーダーは引き締めていた口元を緩めて、首を横に振る。
「君に怒ってどうする。……口さがない者の言うことは聞き流せ。ルナトリア夫人に限って、そんなことはあり得ない」
ラプンツェルはほっと胸を撫で下ろしてみせて、従順にこっくりと頷いた。長い髪の陰に隠れて、うっそりと笑う。
(バカなニーダー。本当に何もわかってないのね)
ルナトリアに限って、なんてことはないのに。ルナトリアが正真正銘の天使でもない限り、清廉潔白である確証はどこにもない。
内心ではニーダーを嘲りながら、ラプンツェルは猫のようにニーダーにすり寄った。
密着すると、大きな身体の固さと熱さを感じて、骨が震えるようだ。忘れられない痛みに怯みそうになる。けれど、退く訳にはいかなかった。戻ろうにも、来た道は崩れ落ちている。
「私もそう思う。みんなが勘ぐっているようなことは、きっとないよ。誤解された二人がかわいそう。噂が広まらないといいけど」
ラプンツェルはニーダーの肩に頭を擦りつけた。彼は殆ど反射的にラプンツェルの頭を撫でる。頷き、そして顔を顰めた。
「だが、ルナトリア夫人がノヂシャと親しくしているのは……本当のことらしい」
二人の交友を苦々しく思っていることを、ニーダーは隠さない。そもそも、ニーダーは弟を虐げることを、後ろめたいと思わない、冷たく歪んだ心の持ち主だ。
ノヂシャの出生にどんな秘密があったとしても、ノヂシャを王位につける為に宰相がニーダーをどんな目にあわせたとしても。それはノヂシャのせいではないのに。
ニーダーにとっては、ノヂシャなんて、玩弄して憂さ晴らしをする為の、人形に過ぎないのだ。そんなものに唯一人の友達をとられたと思えば、腸が煮えくりかえるだろう。
ニーダーは溜息をついた。そして、長い足をもてあますように足を組みかえる。
「ルナトリア夫人は誤解を招いても仕方がない、軽はずみな真似を繰り返している。残念なことだが」
「私も、二人がお喋りしているのを見かけたよ。でも、それはいけないこと? あなたに言わせると、ルナトリアがノヂシャと友達になるのは、軽はずみな真似なんでしょ。どうして?」
畳みかけるように訊くと、ニーダーは困った顔をした。こどもに面倒なことを聞かれたみたいに、鼻であしらう。
「男と特別に親しくするなど、夫のいる女性の振る舞いとして、誉められたものではない。君にそういう認識がないとは、いささか不安になるな」
膝の上で重ねた手が、汗ばむのを感じる。手に汗を握っている。迂闊な事を口走った。ニーダーは怒っているように見えないが、火山が噴火するみたいに、ニーダーの怒りは一瞬で頂点に達する。上手く切り抜けるには、どうするべきだろう。目まぐるしく頭を回転させる。
ラプンツェルは頬を膨らませ、拗ねっぽくぼやいた。
「どうせ、私の感覚はお子様ですよー、だ。ニーダーじゃなかったら、男の人って感じがしないんだもの」
それに対するニーダーの反応は、微妙だった。興味を失い、よそ事を考えているように見える。頭にくるが、それならそれで構わない。ラプンツェルはニーダーの肘を軽く引いた。
「気になるなら、ニーダー。私が、二人の様子を覗いて来てあげようか?」
ラプンツェルの提案が気に入らなかったらしい。ニーダーの声が少し低くなった。
「行儀が悪いぞ、ラプンツェル」
「そうだけど」
ラプンツェルは怯みそうになる心を励まして、もう一度言った。
「そうだけど。気になるでしょ」
「気にならない。私はルナトリア夫人を信頼している」
ニーダーは少しむきになっているな、とラプンツェルは思った。踏み込んで良いものかどうか悩んでいると、ニーダーは続けた。
「彼女は、昔からそうだった。弱い生き物の世話をするのが好きなのだ。ノヂシャの相手をしてやることが、彼女の気晴らしになっているのだろう。ならば、好きにさせてやろうと思っている」
ニーダーにも、自分の気持ちより他人の気持ちを優先して、思いやるという、人間らしい芸当が出来たらしい。これは新鮮な驚きだった。
(その情けをどうして、ほんの少しだけでも、高い塔の家族にかけてくれなかったの?)
やりきれない心を持て余しながらも、ラプンツェルは冷静に考えて言った。
「好きにさせてやりたい。けど、そうもいかない。って、ニーダーは考えている。そういう意味で、気にしている」
ラプンツェルの演繹は正確だっただろう。ニーダーは軽く目を見開くと、天井を仰いで目を閉じた。大きな手で顔を擦る。疲れた表情でニーダーは言った。
「……ルナトリア夫人の楽しみを取り上げたくはないが……ノヂシャと交流することで、彼女の悪い噂が流れるのなら、やめさせるべきなのかもしれん。そもそもあれは、あまり人と関わり合いになるべきではない」
あれ、とはノヂシャのことだろう。ぞんざいな扱いに、もう少しのところで抗議してしまうところだった。ラプンツェルは胸元までせり上がった、詰る言葉をなんとか飲み込むと、神妙な顔でニーダーに同意してみせる。そして、提案した。
「やっぱり、一度、覗きに行こう? ルナトリアの名誉のために引き離すのか、ルナトリアの安らぎのためにそのままにするのか。二人の仲を見ない事には、決められないもの」
今度は、ニーダーは頭ごなしに否定することはしなかった。ラプンツェルの言うことにも、一理あると思ったのだろう。ニーダーはそれについて、少し考えていたようだった。でも、急には気持ちが決められなかった。
もうひと押ししておこう。ラプンツェルはニーダーにぴたりと寄り添って、無邪気な少女のように悪戯っぽく微笑んだ。
「大丈夫、私がついてる。きっとうまくいくよ。私ね、かくれんぼは得意なの」
ニーダーは、ラプンツェルの天真爛漫な笑顔から、作為を読み取ることは出来なかった。