悪意の萌芽2
「……お上手ですわ、陛下。わたくしとの練習を、きちんとものにしておいでですね」
「私は思ったことを率直に口に出しただけだが?」
ニーダーはきょとんとしている。ニーダーは時として、こどものように無邪気だ。心の中で、成長をとめてしまっている部分があると思う。
ルナトリアは苦笑している。しかし、彼女が涙ぐんだ一瞬を、ラプンツェルは見逃さなかった。既に、湿っぽい雰囲気は微塵も匂わせていないから、ニーダーはまず間違いなく、見逃しただろう。ルナトリアは、ニーダーに弱っているところを見せたくないらしい。ラプンツェルは心ひそかに感嘆した。
ルナトリアは、ニーダーを聖人か天使みたいに信仰している。助けを求めれば必ず、自分を地獄から救い出してくれると、ルナトリアは信じている。
絶対の救世主を目の前にしても、よろめかないルナトリアの自制心は、たいしたものだ。
それでも、ラプンツェルには確信があった。助けを求めることが出来なくても、ニーダーが手を差し伸べてくれるのを、ルナトリアは心の奥底で待ち望んでいる。いつ終わるとも知れない、何処にも逃げ場がない。そんな地獄の日々に救いを求めるのは、当然のことだから。
ニーダーは顎に手を当て、じろじろとルナトリアを眺めまわしている。昨晩、白薔薇で撫でたニーダーの唇が、おもむろに言った。
「君にも色々と気苦労があるのだろう。私に話せ。君の力になる」
ルナトリアは唇をほんの少し開いた。口元を手で覆うことも、思いつかないらしい。
ニーダーは席を立ち、ルナトリアの隣に移動した。揃えた人差指と中指で、硬直するルナトリアの頬を擦る。
焼き鏝をあてられたように、ルナトリアは竦み上がった。
「っ、陛下……!?」
「痛むか?」
こてん、とニーダーは首を傾げた。指先にべったりとついた白粉を親指で擦り落とし、ルナトリアの頬を近くから凝視する。ルナトリアが頬を赤らめたことが、分厚い白粉の上からでも確認できた。ニーダーは実は睫毛が長いから、ルナトリアのそれと絡まりそうになっている。
ニーダーは名工が手掛けた氷像のようだ。ニーダーが魂のない人形だったら、ラプンツェルも、いつまでも見ていられるだろう。ルナトリアが欲目に見ていなかったとしても、ニーダーに見惚れるのはおかしいことではない。
当の本人はそこのところに無頓着だ。白粉が剥げた頬を指さして、ニーダーはルナトリアに訊ねた。
「これは、ルース公爵が?」
ぼうっとしていたルナトリアが、平手で打たれたように、頬を押えて顔を背ける。咄嗟に何も言えず、体を小さくして震えている。肩を震わせながら、それでもなんとか、言葉を絞り出した。
「……申し訳ございません、見苦しいものをお見せしました……」
「隠さずとも良い。見苦しいとは思わん」
ニーダーが屈託なく言う。ルナトリアはニーダーを見上げた。
「わたくし、わたくしが、悪いのです。わたくしは不束で、こうされなければ、何ひとつ覚えないのです。……公爵はこのような妻をもつことを恥じておられます。ですから、公爵にこのことは、どうかご内密に……」
最後の方は、抑えた叫び声のように絞り出していた。うまいこと言えずに、口を噤む。項の遅れ毛が震えていた。
けれどラプンツェルには、言葉とは裏腹に、ルナトリアが微笑んでいるように見えた。ニーダーを見上げる目から溢れるのは、悲嘆ではなく感動の涙だと。
夫婦の恥ずべき秘密が露見したことに、ルナトリアが衝撃を受けていることは確かである。しまった、と、焦りに顔をゆがませていた。
ルナトリアにもきっと、色々な事情がある。婚姻した夫婦は、終生を共にするものだ。終のつれあいである公爵の名誉を、妻として守らなければならないという、責任感もあるのだろう。
けれど、ルナトリアはずっと、ニーダーが気付いてくれるのを待っていた筈だ。ルナトリアは恐ろしい地獄に堕ちている。悪魔の足元に拝跪して許しを乞わなければならない。そこに天使が舞い降りてきたら、縋りつかずにはいられないのだ。ラプンツェルだって、そうした。
ニーダーが震える細い肩に手をかけると、ルナトリアは恍惚とした。
ニーダーの手に、ルナトリアは躊躇いながら、己の手を重ねようとする。触れ合う寸前、ニーダーは言った。
「言わぬ。夫婦のことに口を出すほど、野暮ではないつもりだ」
ルナトリアの動きがぴたりととまる。鼓動すら、とまっていたかもしれない。ルナトリアの天国を見たように美しい微笑みが、引き攣った。
「……え?」
ニーダーは小さく溜息をつき、ルナトリアの肩から手を引く。あっさりと背を向けると、席へ引き返してしまった。ニーダーに触れようとしたルナトリアの手は、虚しく虚空に漂っている。
着席すると、ニーダーは鋭い顔つきに、出来る範囲で愛想をのせた。
「君には女心をご教授頂いているからな。たまには私が君に、男の心情というものを教えてしんぜよう」
ニーダーはひょうげて肩を竦めると、ルナトリアの背後に咲く白薔薇に視線を遊ばせた。言葉を選びながら、ニーダーは語る。
「いいかな、ルナトリア夫人。公爵は何も憎いから、君を打つわけではないだろう。愛しているからこそ、君に良き妻であって欲しいと願うのだ。辛いのはわかるが、そのように卑屈になっていても仕方がない。君が公爵を深く愛するようになれば、おのずと、公爵の望みがわかるようになる。そうなれば、君たちは互いに、今のように窮屈な思いせずに済むのだよ」
ラプンツェルに暴力で迫った時と変わらない持論を、ニーダーは展開する。それが、世の理であるかのような言い方をする。
(これが、ニーダーだ。ルナトリア、これがあなたの神様の正体よ)




