悪意の萌芽
それから、ニーダーと話しをした。他愛無いことを言うのも、聞くのも、ニーダーは嬉しそうだった。ラプンツェルは、ひどくいとけないその笑顔を、目に焼きつけた。この笑顔を、辛酸を嘗めさせた後に見られるだろう、ひどい表情と比べたら、さぞや気分が良いと思ったからだ。
別れ際に触れるだけのキスをして、ニーダーは引き取った。その姿が見えなくなるまで、ラプンツェルは手を振り続ける。ニーダーは時々振り返って、ラプンツェルがまだ手を振っているのを見ると、甘い蜜を含んだような微笑みを見せるのだった。
ニーダーを見送り、用心深く窓を閉める。白薔薇はぞんざいに花瓶に放りこんだ。花瓶の淵に添ってくるくると回転する。それを見て、ラプンツェルは他愛ないと感じた。
ラプンツェルはもそもそと寝台に潜り込む。すぐに瞼が重くなった。この三日間、ニーダーがいつ忍んで来てもいいように、ろくに寝ていなかった。
明日、朝一番で、ニーダーはルナトリアと会うことになっている。場所は薔薇咲き乱れる、あの東屋だ。
ラプンツェルはシーツの中でほくそ笑む。その夜は熟睡した。
***
翌朝。メイドを急かして朝の支度を早々に済ませたラプンツェルは、さっそく庭園に出た。着せられたクリーム色のモスリンのドレスは、背中が大きくあき、肩が出る意匠だ。撫で肩と寂しい胸元に、メイドがうまいこと引っかけて着付けたが、ずり落ちてしまいそうで、気が気ではない。気がつけば、大きくあいた襟刳りを弄っている。
そうしていると、程なくして待ち人がやって来た。生垣の向こうで、銀色の頭がひょこひょこと動いている。ラプンツェルは朗らかに声をかけた。
「おはよう、ノヂシャ!」
小鳥とネズミと追いかけっこをして遊んでいたノヂシャが、首を巡らせてラプンツェルの姿を捉える。足元に纏わりつくネズミを踏まないように、とことことやって来た。氷の上に立つような心もとない様子で、ノヂシャは首を傾げる。
「……機嫌が良いみたいだ」
ラプンツェルはにっこりした。
(心と表情を切り離せるようになっただけだよ。あなたもそうなんじゃないの?)
ノヂシャの場合、感情のつき方が歪なだけかもしれないが。意味の無い考察を打ち切って、ラプンツェルはうきうきと声を弾ませる。
「良い知らせだよ。ルナトリアが来てる。あの東屋でニーダーといるの。覗きに行くでしょ?」
ルナトリアの名前を出した途端に、ノヂシャの蒼白の頬に、溌剌とした赤みがさす。ラプンツェルは得たり賢し、と笑みを深めた。ノヂシャの腕をとり、引っ張って行く。
東屋に一番近い生垣の陰の、ルナトリアの死角になるところを選んで、二人で身を潜ませた。ニーダーとルナトリアは、既に席についている。ちょうど良い頃合いだ。
ニーダーの固い声が聞こえてくる。
「妃は寛大なことに、君の無礼を目溢しするそうだ。よって、咎めはない。以後、斯様な軽挙妄動は控えるよう申しつける。ゆめゆめ、忘れぬように」
ノヂシャの視線が、ラプンツェルの方に逸れる。事態を把握していないから、話しが見えないのだろう。ラプンツェルはノヂシャが飛ばす疑問府を黙殺し、二人の会話を聞き逃さないように目言した。
ルナトリアが応える声は、ニーダーのものよりも固い。
「畏まりました。お妃さまのご温情に深く感謝致します」
生い茂る葉の隙間から覗き見る。ルナトリアは肩を落とし、俯いていた。今日の化粧が一段と濃いことが、遠目からでもわかる。昨日、ひと悶着あったのだろう。
ノヂシャは儚く消えてしまいそうなルナトリアの様子に、心を痛めている。厳しい態度をとっていたニーダーも、潤んだ瞳に心揺さぶられたようだ。決まり悪そうに目を逸らし、眉間を揉みほぐす。
「……ルナトリア夫人。君は本来ならば思慮深く、慎み深い女性だ。君のことを、淑女の鑑と誉め称える声を多く聞く。今回のことは、水に流そう。私は君を信頼しているのだ」
「勿体ないお言葉です」
ニーダーなりに気を遣ったらしい。ルナトリアは、かすかに目許を和ませた。優しい目笑を盗み見たニーダーが納得したように頷く。テーブルに肘をつき、口元を隠すように長い指を組んで、話しの穂を継ぎ換えた。
「実を言うと君には、妃の話し相手になって貰おうと考えていた」
ルナトリアが僅かに目を瞠る。そんなことになったら堪らないのだろう、ルナトリアは愁眉をつくって言う。
「陛下のご命令とあれば拝命いたしますが……お話し相手は、お妃さまがお気に召された方に任せるべきかと存じます」
ルナトリアの不安を、単純に、大任を請け合う重圧だと解釈したらしいニーダーは、ひょいと片眉を持ち上げた。珍しい、おどけた仕草だ。
「君たちはうまくやっていける。私が保証しよう。通じるものを感じないか? 男も顔負けの胆力など」
「お言葉ですが、陛下。殿方も顔負けの胆力とおっしゃいましても、女性を称賛なさったことにはなりませんので、お妃さまには仰らないよう、お気を付け下さい」
ルナトリアが生真面目に注意すると、ニーダーは上体を起こし、ひょいと肩をすくめた。
「そういうところが、気があうと思うのだが」
「まぁ……陛下……」
お決まりの台詞を言って溜息を吐いたルナトリアを見て、ニーダーは唇の端をきゅっと持ち上げた。
「調子が出てきたようで、良かった。君がしょんぼりしていると、私も調子が狂うよ」




