もやもやした気持ち
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鳥が囀りはじめる頃、空は白んでいる。朝露に濡れた緑の枝に、早起きの鳥たちがとまっていた。何事か相談するように寄せ集まって、高い声で小刻みに囀っている。
ラプンツェルは一睡もしないで夜を明かした。定刻にやって来たメイドに、ラプンツェルは訊ねた。まだ青くかたい、薔薇の蕾を慰撫しながら。
「花って、笑顔を向けると咲くって言うよね。聞いた事ある?」
メイドは曖昧に微笑むと「寡聞にて、存じ上げておりませんでした」と言った。
その花と花瓶はどうしたのかと、メイドは聞かない。余計な詮索も口出しもせずに、主人の快適な暮らしの為に尽くすことが、ブレンネンのメイドの仕事だ。
メイドは床に散らばった花弁と丸坊主の茎を手際よく片づけ「花瓶を一輪挿しのものとお取り換えいたしましょうか?」と訊いた。大きな花瓶の中で泳いでいる薔薇の蕾を、見兼ねたらしい。ラプンツェルは一輪挿しの花瓶を所望することにした。
メイドはナイフで茎のねじ切れた断面を斜めに切り落とし、ほっそりとした青い硝子の花瓶に活け直す。メイドの指先をラプンツェルはじっと見つめていた。新しい水を花瓶に注ぐと、メイドはカスミ草のように控え目に微笑み「綺麗に咲くといいですね」と言った。
「どちらに飾りましょう」と訊かれたので、ラプンツェルは深く考えずに、元あったところへ、と答える。窓辺に戻ってきた薔薇の蕾は、しゃんと背筋を伸ばしているように見えた。さっきまでの、拗ねたような感じがない。
ラプンツェルは蕾を軽く摘まんだ。まだ固かった。開花の兆しはない。
朝の支度を済ませ、朝食をとったラプンツェルは、メイドたちを下がらせた。睡眠をとっていない体は鉛のように重く、強張っている。それなのに、全然眠くない。あくびだけが出る。生れたての清々しい風を肌で感じていると、ますます目が冴える。
ラプンツェルが着ているのは、襟ぐりが大きくあき、首筋から背、胸の上部まで露わにした、開放的なドレスだ。ラプンツェルの体に新しい傷がつかなくなってから、メイドたちは露出の多いドレスを用意するようになった。娘盛りを楽しめという心遣いなのかもしれないが、昼間からローブ・デコルテはないだろうと、ラプンツェルはこっそり思っている。そんなに胸が大きい方ではないので、こういう意匠はあまり似合わないし、好きではないのだ。以前、そう仄めかしたのだが、それでもこういうドレスばかり用意される。
(ニーダーの趣味だとは……思いたくないな)
特に理由はないけれど、なんとなく嫌だ。ニーダーがルナトリアの豊かな胸に関心を寄せているのを想像すると、胸のあたりがもやもやする。
ラプンツェルは窓辺を離れた。部屋に籠っているのはつまらない。せっかくだから恰好だけではなく、心も開放的になりたい。庭に出ることにした。
東屋への道順は覚えている。昨日とほぼ同じ時刻に、東屋を見に行ってみた。
ニーダーとルナトリアはいなかった。ルナトリアの姿が見えないから、ノヂシャも近くにはいない。小鳥が六羽、椅子の肘掛けや背凭れにとまっている。
(いない。そうだよね、昨日の今日だもの。ニーダーはあれでも王様なんだから、さすがに、連日にわたって美人と遊び呆けるわけにもいかないでしょうよ)
ラプンツェルは、ふっと微笑んだ。あまり良い笑い方では無かった。
(私にルナトリアとの密会がばれたら困るから、場所を変えたいってニーダー、言ってたしね)
密会、なんて。我ながら、湾曲した解釈だと、ラプンツェルは思う。
ニーダーはラプンツェルの扱いに困って、無二の友であるルナトリアに相談した。ラプンツェルに秘密にしておきたいのは、ルナトリアと会っていたことではなく、自分ひとりでは対処しきれずに、他人の力添えを求めたことだ。
(ニーダーはそうでも……ルナトリアはどうかな?)
誰もいないことを確かめてから、ラプンツェルは生垣の陰から出た。小鳥たちが一斉に飛び立つ。ラプンツェルは東屋にぽつねんと立ちつくした。
ニーダーが座っていた椅子の隣に立つ。滝のように柵から溢れ出す薔薇の花に手を伸ばした。棘に触れると、ちくりと指先が痛む。人さし指の先で、血が玉を結んでいた。指先を唇に含むと、塩辛い血の味がする。ニーダーの血の味とよく似ている。
(ニーダーも……こうやって、指先を棘で刺したかな)
自作の花束なのだと語る、ニーダーの得意気な顔を思い出した。無意識のうちに、塞がった傷に牙をたてる。新しく溢れた血が舌の上を転がり、鉄気がむわりとひろがった。自罰的な行為をとってしまったことに、ラプンツェルは戸惑いを隠せない。
(ばかだね、ラプンツェル……悪いことしたなんて、どうして思うの?)
棘を抜き、花を束ねたのがニーダーでも、発案はきっとルナトリアだ。ルナトリアはニーダーと楽しく会話をしながら、どうすればラプンツェルを丸めこめるか、知恵を絞ったのだろう。
ラプンツェルは興ざめして、ふん、と鼻を鳴らした。ルナトリアが座っていた席を見やる。ノヂシャがきれいだと絶賛し、ニーダーが誰をも虜にすると称した、聖母のような微笑みを思い浮かべる。ぎりり、奥歯を噛みしめた。
(微笑むだけで誰をも虜にする、か……)
あんな風に美しく微笑むことが出来たら、人生は幸福に満ちているだろう。咲き誇る百の花に囲まれる彼女を、皆が宝物のように大切にする。不幸を運ぶ悪魔だって、あの微笑みを一目見れば、尻尾をまいて退散するに決まっている。
ラプンツェルは、ルナトリアの席に腰かけた。ルナトリアはゆるりと座っていたけれど、ラプンツェルは落ち着かない。疎外された、そんな気持ちになった。
座ってみて気がついたことだが、この席からは庭がよく見渡せた。白薔薇の生垣の陰も、ここからは見える。
「……私が隠れていたこと、知ってたんだ」
ラプンツェルの独り言は、ぽとりと零れ落ちて転がった。そのまま捨て置かれる筈だったのに、拾い上げる者がいた。