たった一輪の薔薇の蕾
ドレスの裾をからげて、脛が剥き出しになっている。はしたなく開いた足の付け根が、緊張のあまり震えた。そのラプンツェルより、ニーダーの方が大きく震えている。まるで無力なこどものように。
ニーダーはこの展開を恐れている。夫婦の営みを無理強いしたら、ニーダーは深く傷つくだろう。
ラプンツェルの手がニーダーの頬から顎の線をなぞり、首筋を撫でる。スカーフを解こうとしたところで、ニーダーは我に返ったようだった。
「まて、まだ……!」
ニーダーが叫んだ一瞬後には、ラプンツェルの体が宙に浮かんでいた。脇にニーダーの手が差し入れられ、ひょいと持ち上げられている。抱えられているのではなく、体が密着しないように、ぴんと肘を伸ばした姿勢で持ち上げられているのだ。
押し込むようにして椅子に座らせたラプンツェルから、ニーダーはすぐさま離れた。十分に距離をとって、部屋のなかをうろうろと、行ったり来たりしている。
ラプンツェルが身動ぎしただけで、ニーダーは獣のように飛び退いた。ニーダーの青ざめた顔を、ラプンツェルは目を皿にして見つめる。ニーダーは眦を決して、喚き散らした。
「飛躍し過ぎだ! 私たちは、まだ手も握りあっていないぞ! ラプンツェル。こういうことには、踏むべき段階というものがある!」
「……は?」
ラプンツェルは目をごしごしと擦った。ニーダーをまじまじと、舐めまわすように見る。ラプンツェルのあけすけな視線に取り乱しているのは、ブレンネンの国王で、立派な大人の男だった筈だ。間違っても、初心な生娘ではない。
ブレンネン王家の者は、鉄壁の貞操観念を植え付けられている、ということだろうか。王位継承者が、間違っても種をばらまくことがないよう、万全を期する為と考えると、おかしなことではない。ブレンネンの血筋は、銀髪と碧眼という身体的特徴として、はっきりとした形で現われる。誤魔化しがきかないのだ。
(それにしても、この過剰反応はどういうこと。手籠めにされかけた娘みたいに、怯えているんだけど)
ラプンツェルは、ニーダーの及び腰を皮肉る、辛辣な言葉を探した。しかし、ニーダーを辱めれば、自分が本物の強姦魔になってしまうような気がする。
ラプンツェルは大きく溜息をつき、そっぽを向いた。
「あなたって、意外と愚図なのね」
「……その言い方はないんじゃないか」
「気に触った? 鉤の部屋に移動する?」
嘲りも露わに挑発すると、ニーダーは無言で部屋を出た。程なくして戻って来る。何かを手に携えていたので、ラプンツェルは身構えたが、その正体を目で確かめ、脱力した。
「……それが『猫の爪』なのかしら? ただの花瓶に見えるんだけれど」
ニーダーは答えず、化粧台の上に花瓶を置く。そこに、取って置いたらしい一輪の薔薇の蕾を挿した。大きな花瓶にたった一輪の薔薇。花瓶の縁に寄り掛かり、辛うじて底に沈まないでいる。項垂れているようだった。
ニーダーは水差しを手に取り、注意深く水を注ぐ。不器用な手つきで、水がはね散らかり、零れた。手許が狂うのは、先ほどまでの興奮のせいだろうか。
花瓶に水を満たすと、ニーダーは水差しを化粧台に置いたまま、くるりと転向した。花瓶を手に、ラプンツェルの許へやって来る。
「蕾は笑顔を向けられると綻ぶそうだ。君が咲かせてくれないか」
ニーダーは花瓶を窓辺に置く。ラプンツェルの眉間に寄った手強い皺を見て、ニーダーは苦笑した。
「花を育てさせたのも、花束にしたのも私だが、育てたのは庭師だ。……その薔薇を私だとは思わずに、ありのままの美しさを愛でて欲しい」
そう言って、ニーダーは踵を返した。扉の前で立ち止まり、振り返る。
「花が咲いた頃に、また来る。おやすみ……良い夢を」
ぱたん、と扉が閉められる。ニーダーの足音は遠のき、聞こえなくなった。
ラプンツェルは弾かれたように立ち上がる。足元に散らばる、夜に浮き出る星のように白い花弁を、蹴散らした。
「ふざけるな……ふざけるな、ふざけるな……ふざけるなっ!」
蹴り上げ、踏みつけ、踏みにじる。花弁は美しく輝き、ラプンツェルの醜態を憐れんでいるようだ。ラプンツェルは床に崩れ落ちた。
思い出した。初めの頃のニーダーは、あんな風だったのだ。ラプンツェルが邪険に扱っても、辛抱強く訪ねることを止めなかった。いじらしく、ラプンツェルの機嫌をとっていた。
迷惑だった。はっきりとそう言った。それでも諦めないニーダーに、嫌悪感を募らせていた。と同時に、一抹の快感も覚えていたことを、今の今まで、認められなかった。
ニーダーはラプンツェルを蹂躙した。その事実は消えない。
しかし、ラプンツェルがニーダーの気持ちを踏みにじったことも、消えない事実なのだ。可哀そうな薔薇の花のように。
ニーダーは、嘘のように優しい。事実、嘘なのだろう。ルナトリアという、美しい女が仕込んだ嘘だ。
ラプンツェルは途方に暮れて、窓辺の薔薇の蕾を見つめた。




