高い塔の姫 ※挿絵付き
(↑黒江イド様 から頂いた、ラプンツェルのイラストを飾らせて頂きました!)
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森の奥深くに築かれた高い塔。高い窓から、銀色の長い髪を風に靡かせたラプンツェルが顔を出して、暗緑の森を見下ろしている。ご機嫌なら歌をくちずさむ唇は、求婚者のことを陰鬱な気分で考えると、固く引き結ばれていた。
ラプンツェルは、明日で十六歳になる。ブレンネンでは、十六歳になれば望む異性と結婚することができるようになるのだ。
(……本当なら、望む異性と、なんだけどな)
ラプンツェルは窓枠に頬杖をつき、やれやれと目を伏せた。左足を振り子のようにぶらぶらと揺らしながら、溜息を吐く。
(ゴーテル。私もうすぐ、十六歳になっちゃうよ。その気はないけど、もしかしたら、私の意思なんてお構いなしに、浚われてしまうかも。だって、相手は国王陛下。その気になれば、欲しいものはいくらでも手に入れてしまえる。彼がその気になったら、もうお手上げだわ。そうしたら、もう取り返しがつかないの)
ラプンツェルは瞼をおろす。ゴーテルは十年もの間、ラプンツェルを訪ねて来ない。コーデルはどこかへ消えてしまった。
十年前の、春の嵐の日。月に一度、ゴーテルはたくさんのお土産を抱えてラプンツェルを訪ね、ラプンツェルと楽しいひと時を過ごした。別れ際、いつものように置いていかないで、と涙ぐむラプンツェルに、ゴーテルは優しく言った。
『もうしばらくのご辛抱です。時代は人間を変えます。長い夜は明け、我々が人目を忍んで生きる必要はなくなるのです。そうしたら、私が姫様のお手を引いて、外の世界をご案内しましょう。必ず、お迎えに上がります』
(私を連れ出すのは、お前なんでしょ? だったら、急いでくれなきゃ困る)
こんこんと、ドアがノックされる。ラプンツェルが「はぁい」と間延びした返事をすると、銀色のワゴンを取り合うように押して、二人のメイドが入ってきた。二人とも綺麗な黒髪をもっている。高い塔に住まう家族たち共通の、ミルクに蜂蜜を溶かしたような肌色には、この髪の色が一番似合うと、ラプンツェルはつねづね思っていた。銀色の髪を、今となっては、気に入っているけれど、神秘的な黒髪がうらやましくなることがある。
(黒髪なら、ゴーテルとおそろいになれるもんなぁ)
ぼんやりするラプンツェルに、まだあどけなさの残るメイドたちが、弾むような声調で話しかける。
「お待たせしました、姫様。お待ちかねのおやつのお時間です」
「良いお肉が手に入ったんですよぅ。お飲み物は搾りたての新鮮なやつでぇす」
先に口を開いたひっつめ髪の少女は、鳶色の釣り目を不機嫌な猫のように細くして、もう一人の髪の短い、瞳の大きな少女を振り返る。引き攣った笑顔で言った。
「……アンナ、もういいわよ、さがって」
アンナは悪戯好きな妖精のようににやにやすると、釣り目の少女からワゴンを奪って、ラプンツェルの許へ押してきた。
「気にしなぁい、気にしなぁい。アンナさんは働き者なのでぇす。はぁい、姫様。今日もアンナが御給仕して差し上げますねぇ」
「……ちょっと! いつまででしゃばるつもり!? 今日はあたしが御給仕する番なんだけど!」
「えぇ? でもでもぉ、姫様はぁ、アンナがお給仕すると、お食事が美味しいねぇって言ってくれたんだもん。リーナだってぇ、姫様に美味しく召しあがって欲しいでしょぉ? あたし、リーナよりお給仕が上手だからぁ、やったげるよぅ」
アンナは、年齢の割にはめりはりのある体の線をくねくねさせて科を作ってみせる。リーナは痩せた肩を怒らせて、アンナの手からポットをひったくった。
「ああ、もう、かして! そんな危なっかしい手付きで、零したら大変よ! 貴重なもんだって、言ってるでしょ! 姫様! アンナを甘やかさないでください。この娘、すぐ調子にのるんですから!」
「見ましたぁ? 姫様ぁ。リーナはこうやって、後輩をいじめるんですよぅ。ひっどーい、自分がそうやってシーナさまに叱られてるからってぇ。えーんえーん」
アンナは自分よりずっと背の低いラプンツェルの薄い胸に頬を擦りつける。ラプンツェルは小鼻を膨らませるリーナに微笑みかけて、嘘泣きをするアンナの頭を撫でてやった。
「よしよし、アンナ。私が慰めてあげる」
「わーい! ありがとう、姫様ぁ! ねぇねぇ、あたし、そっちのお肉が食べたいなぁ。姫様があーんしてくれたら、元気になっちゃうなぁ、きっと! あーんしてください、あーん!」
「アンナっ! 母さまに言いつけるわよっ!」
現金にはしゃぐアンナの襟首を、子猫を持ち上げるみたいに捕まえてすごむリーナ。リーナの膨らんだ小鼻を見て、アンナはきゃらきゃらと笑いだした。リーナは怒鳴りかけたが、ラプンツェルが朗らかに笑うと、怒るタイミングを逃してしまった様子で、ぷうっと頬を膨らませてそっぽを向いた。
アンナは拗ねてしまったリーナにまとわりついて
「ごめんごめぇん。ちょっとからかいすぎちゃったぁ。えへへ。ねぇねぇ、ご機嫌なおしなよぅ。あたしがあーんしてあげるから。はい、あーん」
「いたっ! それ、あーんじゃないから! フォークを刺してるだけだから! いやがらせか! 上等じゃないのよ、売られた喧嘩は倍の値で買うわよ!」
「きゃーっ! リーナが怒ったぁ! 姫様、助けてぇ!」
リーナとアンナが追いかけっこを始める。ちょっと抜けている猫と狡賢いネズミのような二人を眺めて、ラプンツェルはのどかに笑った。
(楽しいなぁ。やっぱり私、この暮らしが好き)
アンナが当て身するような勢いで飛びついてくる。ラプンツェルは乱れた長い髪を耳にかけなおした。右耳の上にある、「石の心臓」に手が触れ、不意に王の言葉を思い出す。
忙しい合間を縫って、王は定番の菓子や花の他に、本を手土産にやって来る。「ここに閉じこもっていては、さぞや退屈だろう」と言って。「君も難儀な一族の生を受けたものだ」と物憂げに溜息をついて。
ラプンツェルたちは、人間ではない。禁忌をおかし、北の海岸線を追われた「影の民」の末裔である。「影の民」は宝石のような「石の心臓」と塩の肉をもち、血肉を糧とする種族だ。輝殻と呼ばれる、強固な殻に総身を覆われた異形の姿と、人の姿を自在に使い分ける事が出来る。人に擬態して生きてきた末裔たちには、完全に輝殻を纏う必要性がなく、また、出来るものもいないけれど。
ただし人型をとった場合でも、体表にある石の心臓だけは隠すことが出来ない。石の心臓のある場所はそれぞれ違い、ラプンツェルの場合は、右のこめかみにある。
この石の心臓が、ラプンツェルの命だ。石の心臓を銀の炎に焼かれると、ラプンツェルは死んでしまう。
ラプンツェルが生れるずっと前から「追われた影の民」たちはこの閉ざされた森の奥に隠れ住んできた。ここに落ち着くまで、彼らは苦難の旅路をたどってきたのだという。
血肉をもつ者を食らう者の中には、人を好んで捕食する者がいる。「追われた影の民」たちは人との軋轢を避ける為、人を襲うことはないが、人間たちにとっては恐ろしい人喰いと区別がつかないのだろう。人間たちは安住の地を求める「追われた影の民」たちに、輝殻と石の心臓を溶かしてしまう、恐ろしい銀の炎を振りかざして襲いかかった。
「追われた影の民」たちは追われ、流され、このブレンネンの地にたどり着いた。彼らの悲劇を嘆かわしく思った当時のブレンネン王は、「追われた影の民」に爵位を与え、人里離れた山奥に隠した。
今の時代、人間たちが「追われた影の民」を人喰いだと憎んでいるのか、人間たちとかかわりを持たないラプンツェルにはわからない。若かりし頃から籠の鳥の現状を変えようと志し、王城に上がったというゴーテルと、ラプンツェルの叔母のミシェルだけが人間との架け橋だった。
ラプンツェルがぼんやりと物思いにふけっていると、ラプンツェルに張り付いていたアンナとリーナが、ラプンツェルから引き剥がされて悲鳴を上げた。腰に手を当てて二人を怖い顔で見下ろすのは、家政婦のシーナだ。リーナの母親で、使用人たちのまとめ役である。精悍な美貌と妖艶な肉体の持ち主であるが、彼女に睨まれると、屈強な男たちでさえ鼻の下を伸ばしてはいられない。リーナとアンナなど、ひとたまりもなかった。
「……いつまでたっても戻って来ないから、まさかと思って来てみたら……あんたたちはまったく、どうしようもない娘たちね」
シーナは声を荒げないが、地を這う声色だけで十分効果的である。リーナとアンナはひっしと抱き合い、今にも泣き出しそうなくらい怯えている。
シーナは溜息をつくと、顎をしゃくった。
「急いで持ち場に戻りなさい」
「はいっ、ただいま!」
リーナとアンナは声を重ねて同時に立ち上がると、ラプンツェルに礼をするのも忘れて走り去った。
シーナは頭痛を堪えるようにこめかみを揉み解すと、こみあげる笑いに肩を震わせているラプンツェルに、見本になるようなきれいなお辞儀をした。
「申し訳ございません、姫様。お騒がせいたしました」
「謝ることないのに。面白かったよ」
「面白がってはいけませんよ。たまには、姫様からお叱りを頂戴しないと。あの娘たちはつけあがる一方なんです」
シーナは苦笑してラプンツェルを窘める。こうやって、シーナが困ったような表情を浮かべると、ラプンツェルはその白い顔に、ゴーテルの面影を見る。顔立ちはあまり似ていないが、矢張り姉弟だ。雰囲気がよく似ている。
(ここの暮らしはとても楽しいよ、ゴーテル。お前が一緒だったなら、もっと楽しいのに)
シーナは物言いたげにラプンツェルを見つめている。ラプンツェルの遠い目が、どこを懐かしんでいるのか悟ったのかもしれない。ラプンツェルがしらばっくれて小首を傾げると、扉が弾けるように開かれた。息せき切って飛び込んできた黒髪の少年が、ラプンツェルに抱きつく。
「姫姉さん、明日は誕生日だね! お誕生日おめでとう!」
「ありがとう、ヒルフェ。今年は気が早いね、どうしてなのかな?」
「うん、誰よりも早く姉さんにおめでとうを言いたくってさ! 姫姉さんの部屋に忍びこむのも、ベッドに潜んで待ち伏せするのも、一昨年、去年にためしたけど、シーナに見つかっちゃって叩きだされたんだもん。だったら、昼間のうちに特攻かけとこうかなって」
「レディのお部屋で全裸になって待機するのは変態ですが、おぼっちゃま。ノックなしにレディのお部屋に飛び込んで、いきなり抱きつくのも変態です。その上、全裸なんて申し開きの余地がないですよ。変態好意も大概になさってください」
シーナが至極冷静に指摘すると、ヒルフェは目を見開いて驚愕した。
「ええっ!? どうしていけないんだよ! 昼も夜もだめなら、俺、姫姉さんの前で裸になれないじゃないか!」
「ならなくてよろしいのです。あまりお戯れが過ぎますと、摘まみだします」
「お、俺の家なのに……!?」
「摘まみだしますよ。そりゃあもう、軽々と摘まみだしますとも」
「でもさぁ、パンツ廊下に脱ぎ散らかして来ちゃったんで、ないんだけどな……そうだ! 姉さん、姉さんのパンツを貸してよ! 履く用、被る用、鑑賞用、一緒に寝る用だから、えっと、全部で……いち、にい、さん……」
「四枚でしょう。指折り数えなくても、それくらいの計算、すぐにできてください。バカですか。ああ、おぼっちゃまは変態でしたね、失礼しました。そんな粗末なものに姫様の下着はもったいないので、とりあえず、これで前を隠して下さい」
シーナが袖口のボタンを毟り取って、ヒルフェに差し出す。ヒルフェは「なんで! なんでこれで隠れると思ったの!? 俺のこと見くびりすぎじゃない!?」と騒ぎながらも、一応、ボタンで前を隠す努力をしている。
ラプンツェルは、頭一つ分以上高いところにあるヒルフェの顔を見上げた。メイドたちに「大変残念な美少年」と残念な顔をされるヒルフェには、昔から露出の趣味があった。と言うか、服を着るのが嫌いらしい。右太ももの石の心臓が服に触れるのが一番我慢ならないと、以前零していた。その不快感を、皆我慢しているのだから、仕方が無いのだけれど。
そんな困ったヒルフェは、シーナの手で足元からぐるぐると縛りあげられている最中である。ヒルフェは打ち上げられた魚のように、びたんびたんとのたうって叫んだ。
「ちょっとぉ、やめてくれよぉ! 俺、姫姉さんにまだプレゼント渡してないんだからさぁ!」
「おぼっちゃまのなさること。嫌がらせとなにが違うんです。招かれざる訪問者はさっさとお引き取りを」
「どう考えても、招かれざる訪問者はあいつだろ。あの銀髪の、目つきの悪い、偉そうな人間! ねぇ姫姉さん! あいつ、しつこいよね、嫌いだよね!? 俺は嫌いだよ、あいつ。姉さんが嫌だって言ってるのに、結婚、結婚って、しつこいんだもん! あいつと結婚したら、絶対に姫姉さんは不幸になるよ。ミシェル叔母さまのときとおんなじさ!」
ラプンツェルは、ヒルフェは体ばかり大きくなっても、まだまだお子様だなぁ、と思った。ラプンツェルより、一つ年下で、十五歳になるけれど。今も、シーナの顔に僅かな影がさしたことに、気がついていないくらいだ。
ヒルフェは脱皮する蛇のように縄抜けをすると、ラプンツェルを椅子に座らせた。にっこり微笑み、右手の拳を差し出す。
「姫姉さん! はいこれ、誕生日のプレゼント!」
ラプンツェルが差し出した掌に、黒薔薇を模した髪飾りが落とされる。ラプンツェルは背伸びをして、期待に目をきらきらさせるヒルフェの頭を撫でてやった。
「ありがとう、ヒルフェ。大切にするね」
ヒルフェははしゃいで、ラプンツェルに抱きついた。裸でラプンツェルにべたべたするヒルフェを、シーナはずるずると引き摺って、部屋を出ていった。
ヒルフェはちっとも変わらない。昔から、この調子だった。ゴーテルがいた頃から。
ヒルフェが裸で、やけにいい笑顔で走り回り、メイドたちが悲鳴を上げているところにゴーテルは駆けつけて来て、鮮やかな縄裁きでヒルフェを捕縛していた。芋虫のように転がされるヒルフェがぎゃあぎゃあわめくのが、日常茶飯事だった。
今では、ゴーテルのかわりをシーナが務めていて、何事もなかったように平穏な日常が展開されている。
ゴーテルがいなくても、なにも変わらない、幸福な日々。ゴーテルなど最初から存在しなかったかのように思えて、ラプンツェルは幸せなのに、時々、やりきれなくなる。