ニーダーの訪問
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ラプンツェルは心地よい無意識の水底に沈んでいた。やわやわとした水のようなものが、ラプンツェルに纏わりついている。それは羊膜にも似ていて、ここで丸くなっていると、安心していられた。
けれど、生きている限り、無情な目覚めは必ず訪れる。水が震えて、ラプンツェルを水面へと押し上げようとする。
不自然で性急な浮上だ。誰かがラプンツェルの覚醒を促している。耳をすませば、呼ぶ声がする。
「……ラプンツェル……ラプンツェル……」
ゴーテルとは似ても似つかない、冷たい声がラプンツェルを疾呼している。安息を名残惜しみつつも、ラプンツェルは呼ばれる方へ向かった。いつまでもここにいては、ゴーテルとの約束を果たせない。どんなに辛くても、現実に戻らなければ。
熱い掌が、ぺちぺちと、頬を叩いている。こどもの体温、こどもの仕草。しかし、こどもの手にしては大きい。
ラプンツェルは睫毛を震わせた。そろりと瞼を持ち上げる。
目の前には、精巧な氷像があった。それがぱちくりと瞬いて、破顔一笑する。そうしてはじめて、それが氷像ではなく、男の顔だとわかった。ラプンツェルの頬を撫でる、体温の高い手は、この男のものだ。
「ラプンツェル」
喜色満面に笑みをたたえた男の顔を、ラプンツェルは狐につままれたような顔で見上げた。
寝台の天蓋を背に、ラプンツェルを見下ろしている、この男。ニーダーである。
光を反射する雪の色をした髪、凍てつく湖の奥底に眠る水の色をした瞳。微笑んでいても、厳めしい顔つき。それらを、記憶の中のニーダーと照らし合わせるのに、存外の時間がかかってしまった。
「ニーダー……?」
ラプンツェルはまだ半信半疑だ。舌足らずな喋り方で名前を呼んでみる。ニーダーが頷くと、涙がほろりと零れた。どうしてかは、わからない。ほっとしたような、がっかりしたような、不思議な気持ちだ。
ニーダーの指がラプンツェルの涙を拭う。皮膚はいつになく敏感になっていて、ニーダーの手を細やかな感性で感じた。
優美でいながら、なめされたように硬い皮膚に覆われた、武人の手。その手でニーダーは、ラプンツェルの頬を羽で触れるように優しく撫でている。
「やっと、私を恋しがってくれたね。待ちわびたよ」
ニーダーは微笑んでいる。ラプンツェルはぼんやりした。
恋しくはなかったけれど、ニーダーに会いたかった。苦痛より辛い孤独から助け出して欲しかった。鞭打たれている間、ニーダーとの再会を切望していた。
ニーダーは両手でそっと、ラプンツェルの頬を挟みこむ。二人分の呼吸と、絹擦れの音しかしない静寂に包まれながら、ニーダーの顔が近づいて来る。額が軽く触れ合った。
「私を愛してくれ、ラプンツェル。私だけが、君を救える」
穏やかな空気がぴん、と張り詰めた。ラプンツェルに覆いかぶさるニーダーの体が、緊張して強張っている。これは重かつ大なる局面だと、ニーダーは認識しているようだ。
勝負に臨む真剣な瞳を、ラプンツェルは冷めた気持ちで見返した。
ついさっきまでラプンツェルは、足元がおぼつかず、転びかけていた。恐怖から逃れることが出来るなら、ニーダーに平伏して許しを乞うことも辞さなかっただろう。そうして、下心をニーダーに見透かされただろう。過去の轍を踏んでいたに違いない。
けれど今、ラプンツェルの頭は冴えていた。心は凪いでいる。ニーダーに圧力をかけられても、漣も立たない。
ゴーテルに会えたからだ。ゴーテルが、ラプンツェルの希望になった。
心が壊れることが、今は少しも恐ろしくない。いっそ、待ち遠しい。心が先立てば、ゴーテルにまた会えるから。
ニーダーは、ラプンツェルの心に、彼が望みのものが見当たらないことに、すぐに気がついた。白々しい笑顔がみるみるうちに凍りつく。彼に似合いの、氷のように冷たい無表情になる。




