ニーダーは来ない
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覆面の騎士は、来る日も来る日も、ラプンツェルをひたすら鞭で打ち据える。ラプンツェルは苦痛に堪えかねて気を失い、自室の寝台で目を覚ました。背の傷が熱をもってラプンツェルを苛んでも、覆面の騎士の鞭は容赦なく打擲する。華奢な背中に、次から次へと新しい傷が上塗りされていく。
そのうち、ラプンツェルは背中の状態を気にかけなくなっていた。背中の皮がべろりとむけていても、覆面の騎士は毎晩、ラプンツェルを連れていく。今日の痛みは明日、塗り潰される。
覆面の騎士は、時計の針のように勤勉だ。鉤のある部屋で、今宵も規則正しい鞭声が鳴り響く。ラプンツェルは、うわ言のように繰り返していた。
「こうしろって、ニーダーが言ったんだよね。そうだよね。あなたの一存で、こんなこと出来ないよね。私は、ニーダーの奥さんだものね。ニーダーは、私に愛されたくて、こんなことを繰り返しているんだよね。もうすぐ、もうすぐ、じれったくて見ていられなくなったニーダーが、私を打ちに来るのね?」
ラプンツェルの言葉は独り言として潰えて消えて、啜り泣きに変わる。覆面の騎士は一切受け答えしない。
彼は気配さえ、朴訥だった。ラプンツェルを担ぐ大きな体は、熱くも冷たくもなく、乾いていて、汗の臭いもしない。その正体が、魔法で動く泥人形だと言われたら、ラプンツェルは納得しただろう。
覆面の騎士ひとりに鞭打たれるようになってから、ラプンツェルは誰とも言葉を交わしていなかった。メイドたちは身の回りの世話をしてくれるが、自律人形のように人間らしい情緒を見せず、うんともすんとも言わなくなった。
ラプンツェルの上に、空虚な痛みが灰のように降り積もっている。食事をしても、砂を噛むように味気ない。
ラプンツェルに与えられる刺激は、毎晩の鞭だけだった。それは、何の感情も込められない、純粋無雑の痛みの結晶。
そんな生活が五日も続いている。今日も今日とて、鉤に吊るされ、鞭を打たれる。ラプンツェルの心中に鬱積した憤懣が、とうとう爆発した。
「なんなの! なんだって言うの! こんなことして、なんになるの!? ニーダーはいない。私に何も知らせてくれない。毎日あなただけが来て、黙々と私を打っていく。意味がわからない! もういや、もうたくさんだわ! ニーダーを呼んで! なにをぐずぐずしてるの? これは命令よ! 私はこの国の王妃なんだから、言うことを聞きなさい!」
ラプンツェルは身を捩って、喉が張裂けんばかりに叫ぶ。痛みも苦しみも、今は怒りの呼び水でしかない。
ラプンツェルは腹を立てていた。ニーダーがラプンツェルを、ここに連れてきて、閉じ込めた。ラプンツェルは嫌だった。ニーダーの、愛してもいない男の妻になんて、なりたくなかった。全部、ニーダーが無理やりやったことだ。
それなのにニーダーは、思い通りにならないからと、ラプンツェルを放り出したのだ。執拗に求愛しておきながら、波のようにさっとひいた。
ニーダーは無責任だ。愛していない癖に、こどものようにラプンツェルを欲しがり、無茶苦茶にした挙句、飽きたらぽいっと捨ててしまった。
悔しかった。ニーダーがもう、ラプンツェルのことなど忘れていると思うと、足元にぽっかりと穴が開いたようだった。
打擲が止む。覆面の騎士が、ゆっくりとラプンツェルの前方に回り込んできた。ラプンツェルがあまりにも騒がしいので、流石に腹にすえかねたのかもしれない。
覆面の騎士から怒気は感じられない。彼はラプンツェルを観察している。何の前触れもなく、鞭を一閃させた。
耳元で、ひゅん、と鋭く空気が裂かれる。髪が風圧で靡き、右耳の上の米神にある、石の心臓を掠める。
石の心臓は、ラプンツェルの体の中で、一番、大切なところだ。髪の毛が一本触れただけでも、違和感がある。そこに鞭が掠めたのだから、堪らない。
覆面の騎士は、鞭で軽く掌を叩きながら、ラプンツェルの苦悶を眺めている。偶然ではなく、狙ってやったのだろう。
ニーダーが石の心臓を狙ったことは、一度も無かった。石の心臓の重要性を知らないのかもしれない。だが、覆面の騎士は知っている。
ラプンツェルを恐怖にのまれた。覆面の騎士が今一度、掌を鞭で一度叩く。破裂するような音。ラプンツェルはびくりと跳ねあがる。
「ひっ……ごめ、ごめんなさい……違う、違うの……私、わたし……! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! やめて、怖い……怖いの、やめて!」
ラプンツェルの都合など知ったことかと切り捨てるように、覆面の騎士は何気ない一挙動で鞭をふるう。石の心臓を軽く弾かれる。焼け串が脳天を突き抜けたような激痛に、ラプンツェルの体が活魚のように跳ねた。
「ぎゃあああっ!!」
醜い苦鳴が、自分のものだとラプンツェルには思えなかった。覆面の騎士は、翅を毟られた蝶のようにもがくラプンツェルを、じっと見つめている。今の呵責に、どれほどの効果があったのか。どの程度なら耐えられるのか。見極めようとしている。覆面の騎士が見ているのは、己の使命だ。ラプンツェルの苦痛を見ていない。
ラプンツェルがぐったりすると、覆面の騎士は何事も無かったように、ラプンツェルの背に回り込んだ。鞭打ちを再開する。
背中の痛みは、問題ではない。それよりも、いつまた、石の心臓を狙われるか。それが大きな問題だった。
ラプンツェルは狂乱して、喚き散らしていた。
「ニーダーを呼んで、お願いだから!」
(呼んで、来たとして、どうなるというの。ニーダーが、とめてくれるとでも、思っているの?)
頭の片隅で、冷静な自分がせせら笑う。それでもラプンツェルはニーダーを呼び続けた。それしか、頼りを知らない。
心が壊れるのは、こんな時かもしれない。