ニーダーの不在
暴力、虐待の描写があります。ご注意ください。
鞭打ちです。
鉤の部屋には、月明かりが照らし出す、夢か幻のようなニーダーの姿があるだろう。ニーダーが佇んでいるだけで、あの忌まわしい部屋が豪華絢爛な謁見の間に見えるから不思議である。
ニーダーには、王者の風格がそなわっている。自ら鞭をとる狂態が、兵を率いる雄姿に見えてしまう程だ。
ラプンツェルに愛されずとも、ニーダーは神に愛されているのだ。
ニーダーが額縁から出られない、描かれた肖像であれば、愛でることも出来ただろう。そんなつまらないことを考えて、くすりと笑う。臍を決めて、ラプンツェルは固く目を瞑った。
扉が開けられて、しばらくたつ。ニーダーは何も言わない。低い揶揄も嘲笑も、わざとらしい猫なで声も、腸が凍える怒声も、何も発さない。
おかしい。ラプンツェルは、怖々と瞼を持ち上げた。
薄暗い室内に視線をはしらせる。奇妙なことに、ニーダーの姿が見当たらなかった。ラプンツェルは目をごしごしと擦って、もういちど部屋を見回す。ととと、と前に進んで、柱の影などの死角も調べる。やはり、何処にもいない。
背後で扉が閉ざされ、ラプンツェルは弾かれたように振り返った。扉の前には、覆面の騎士が石壁の如く、ぬっと立っている。背後を覗き込んでも、ニーダーが隠れているようなことはなかった。
ラプンツェルは、覆面に隠された、高い位置にある頭を見上げる。身長差がひらきすぎている為、首が痛い。
「ニーダーはどこ?」
つっけんどんな問いかけの語尾が、かすかに震えていた。このわけのわからない状況が、不安を煽り、ラプンツェルに未知なる恐怖を与えている。
凝然としていた覆面の騎士が、突如として動いた。
太い腕が旋毛風のように唸りを上げて、ラプンツェルに襲いかかる。絹を裂くような悲鳴が、逸らした喉から迸る。覆面の男はラプンツェルを軽々と抱き上げると、いつも通りの手順を踏んで、鉤に吊るした。
「なにするの、やめて! ニーダーがいないのに、こんなことして、なんになるの!?」
必死になって身を捩るラプンツェルの長い髪を、覆面の騎士は簡単に纏めて、耳の横から体の前に垂らす。見事な髪が、傷つかないように。
(ニーダーがいないのに、はじめるつもり!?)
肩が抜ける心配も忘れて、ラプンツェルは足掻いた。
ニーダーがいない。どこにもいない。それなのに、目の前の男は、鞭を手にラプンツェルのまわりを練り歩く。
ラプンツェルは混乱する頭で、この状況を理解しようとした。
ニーダーの腹心が、彼の意志に反する行動をとるとは思えない。ニーダーが命じない限り、ラプンツェルを鞭打つことはしない筈だ。
つまり、ニーダーはラプンツェルの呵責を、覆面の騎士に一任したのだ。ラプンツェルを、下の男に預けた。ニーダーはここには来ない。
ラプンツェルは、頭を振った。涙がきらきらと宙に散る。
「やめて、いや……いや、いや」
ニーダーがいないのに、男は鞭を振りあげる。風を切る音を掻き消すように、ラプンツェルは絶叫した。
「いやぁぁぁ!」
背にはしる衝撃に、息がつまる。拍子をとるように、鞭が叩きつけられる。ラプンツェルが泣いても、喚いても、男は鞭打ちを続けた。
要求はなく、咎めもしない。機械のように、よどみなく鞭を振るう。
覆面の騎士は、人間を打っている意識がないようだった。覆面の騎士の認識では、ラプンツェルは、血の詰まったずた袋のようなもの。人間として、扱われていない。
男は一定の強さとテンポで、黙々とラプンツェルを打つ。痛みは次第に鈍化していく。意識が痛みから引き剥がされ、別の思考に結び付く。
(ニーダーなら、こんな風にはしない)
ニーダーなら、ありとあらゆる方法で緩急をつけ、的確にラプンツェルを苛む。
怖いくらい青い目は、ラプンツェルを注視していた。些末な変化も見落とすまいと、冷静に。焦げ付くほどに、情熱的に。
ニーダーの鞭には、狂おしい感情がのっていた。鞭をふるうのが覆面の騎士であっても、ニーダーが命じていれば、その一撃、一撃が、ニーダーの心の叫びだった。
打擲は淡々と続けられる。痛い、苦しい。なにより、虚しい。ラプンツェルの苦痛は、誰の目にもとまらない。それが、こんなに虚しいことだとは、思ってもみなかった。
体が、ふわふわと浮きあがるような心地がする。意識が体からはがされそうだ。
初めての感覚である。ニーダーなら、こうなる前に止めていた。
(……もう、そろそろだ。そろそろ、ニーダーが「待った」をかけるころ。ニーダーは来る。あの男は、私のことを放っておかないもの……)
ニーダーの一言を待っていた。ところが、いつまでたっても、その一言はなかった。無機質な暴力は、ラプンツェルの意識をさらっていった。