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「姉ちゃん」じゃなくて「兄ちゃん」

 

(あっ、これはまずい。いくらぼくでも、死んじゃうかも)


 ロダンは死に物狂いで身を捩り、火かき棒の打擲から逃れた。振り下ろされた引かき棒は床に穴を穿つ。咄嗟に避けなければ、ロダンは火かき棒で頭をかち割られていただろう。


 父は憤怒の形相でロダンを睨み付けた。床に突き刺さった火かき棒を引き抜こうと躍起になっている。


 父はロダンを一方的に打ち据えて、二度と立ち上がれないように、完膚無きまでに叩きのめしたいのだ。


 ロダンは困り果てた。父は頭に血が上ると歯止めが利かない。このままここでぼうっとしていたら、本当に撲殺されてしまいかねない。しかし、ロダンが逃げ出したら、怒りの矛先が母に向かうだろう。だからと言って、母を連れて父から逃げ切るのは難しい。そもそも、そんなことをしたら、二度と家に帰れない。


 どうしたものかと考えあぐねているうちに、父は火かき棒を床の穴から引き抜いてしまった。


(ダメだ。もう、腹をくくるしかない。せめて、お祈りしよう。神様、どうかぼくをお守りください。火かき棒でガツンとやられても、死にませんように。それと、出来ればこれ以上、バカになりませんように)


 父が火かき棒を大上段に振りかぶる。ロダンは歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑った。


 次の瞬間、父は火かき棒でロダンの頭を強かに撲る、筈だった。


「旦那様」と呼び掛ける声がして、父はぴたりと動きを止めた。聞き覚えのない声調だった。


 恐る恐る薄目を開けると、クルスが火かき棒を振りかぶる父の腕に手を添えていた。それだけで、怒り狂う父を宥めていた。


 クルスは父を見上げて、囁くような声で言った。


「ご気分が悪いのでしたら、何なりとお手伝い致します」


 そのときの、父の表情を見ただけで、ロダンはおぞましさに身がすくんだ。あんな、おぞましい表情をしているのが、血の繋がる父親であるはずがない。父ちゃんのはずない、と思った。


 クルスはそんな父を目の当たりにしても、肩を抱かれても、顔色ひとつ変えなかった。床に倒れ伏して啜り泣く母に向かって、綺麗なお辞儀をした。


「奥様、ご容赦ください。なるべく、お目汚しにならないように致しますから」


 と言うと、クルスは父に誘われ、階段を上って行った。開かれ、閉ざされたのは寝室の扉だろうか。


 ロダンは呆然と立ち尽くす。何が起こったのか。さっぱりわからないけれど、どうやら、助かったらしい。


(旦那様だって。奥様だって。綺麗な子は、言葉遣いも綺麗なんだなぁ)


 ロダンは感心して、それから「それどころじゃない!」と我に返る。嗚咽を漏らす母に駆け寄ると、その傍らに跪き、助け起こして、椅子に座らせた。母は頬を腫らし、唇を切っていたけれど、大きな怪我はない。ロダンは胸を撫で下ろした。


 ロダンは母の背中を撫で擦りながら、母が泣きやむのを、辛抱強く待った。待つ間、ロダンはいつものように、母の気を紛らそうとして、母に話しかけた。ロダンのとりとめのない話を、母はいつものように聞き流していたけれど


「ねぇねぇ、母ちゃん。あのクルスって子、どこの子? すごく綺麗な子だった。びっくりした。あんな子がいるんだね」


 ロダンがそう言うと、目を剥いた。母はロダンの肩を揺さぶりながら、凄まじい剣幕で言った。


「いいかい、ロダン。絶対に、あの子と関わるんじゃないよ。絶対に」

「なんで?」

「なんでって、それはね」


 母は口許を歪めた。嘲笑と憫笑のちょうど真中にある表情。この顔を向けられると、ロダンは恥ずかしさでいたたまれなくなる。ロダンが呆れた抜け作だから、母はこんな顔をするのだ。


「お前みたいな子は、格好の餌食にされるからさ」


「お前みたいな子」と言うのはつまり「馬鹿で、能無しで、薄鈍で、抜け作」だということだ。それくらい、ロダンでもわかる。ロダンは口を噤んだ。


 今夜は寝室に近付いてはいけないと、母が怖い顔をするので、ロダンは椅子に腰掛けたまま、まんじりともしない母に付き添い、居間で夜を明かした。


 翌朝、母とロダンはいつも通り、せっせと働いた。


 ロダンみたいな薄鈍の相手をしてくれるのは母だけだ。家の外には一緒に遊ぶ友達どころか、話し相手さえ一人もいない。ロダンは日がな一日、家の手伝いをする。同じ年頃のこどもたちと比べるとたいへんな力持ちだから、力仕事全般を請け合っている。


 ロダンは台所から大きな水汲み桶持ち出す。これから最寄りの井戸へ水を汲みに行く。


 もともと、朝の水汲みは母の仕事だった。ブレンネンの女達にとって、数少ない社交の機会であり、母はこの一時を何より楽しみにしていた。ところが「女のお喋りは百害あって一利なし」というのが父の持論で、祖父が亡くなって以降、母は水汲みに行くことを禁じられてしまったのだった。


 唯一の気晴らしを取り上げられてしまった母を憐れに思うけれど、父の命令に抗って父を怒らせるより、諦めて従うことを母が選んだのだから、ロダンにはどうしようもない。


 ロダンの「小さな親切」は「大きなお世話」なのだと、叱られてばかりいる。ロダンがするべきことは、両親の言い付けをよく守り、余計な真似をしないことだ。


「よいしょ、よいしょ」


 空の水桶を両手に提げて、振子のように揺らしながら階段を降りる。寝室の扉の手前にさしかかったところで、寝室の扉が開いた。


 寝起きの父はいつもに輪をかけて不機嫌だ。鉢合わせしたらまず間違いなく撲られる。出会い頭に撲られても、水桶を落としたり、階段を転げ落ちたりしないように、ロダンは身構えた。


 寝室の扉を半ば開けて半身を露したのは、クルスだった。


 俯き加減に貫頭衣の襟元を気にしている。長い睫が頬に憔悴の影を落としていた。伏し目になかば閉じられた目が、呆然と立ち尽くしているロダンを捉えると、クルスは目をしばたく。星が瞬くように。


 クルスは寝室から出ると慎重に扉を閉めた。クルスはロダンを真正面から見据え、ロダンに話し掛けた。


「誰かと思えば、お優しい坊っちゃんだ。おはよう」

「えっと……おはよう……えっと、えっと」


 ロダンはどきまぎしながら、近視のように眼を細くして、目の前にいるクルスと、昨日のクルスを見比べる。美しく磨き出された美しく動きのない人形のような顔に、気怠く皮肉な微笑がくっきりと刻まれるなんて、昨夜は想像もしなかった。


 クルスはロダンの狼狽を見て肩をすくめた。


「旦那様なら、ぐっすり眠っている。蹴飛ばしたって踏みつけたって、起きそうにない」


 ロダンには、クルスが何を言いたいのか、よくわからなかった。ロダンは途方に暮れて黙り込む。そうすれば、誰もが皆「こいつはバカだから、何を言っても無駄だ」と諦めて、通り過ぎる。


 ところが、クルスはなかなか諦めない。ロダンの心のなかを覗き込むようにして、ロダンを観察している。


 クルスはロダンと話しをしたいらしい。母でさえ、ロダンと話しをするのを嫌がるのに。


 そう思ったら、クルスと関わってはいけないと言う母の言い付けは、ロダンの頭から抜け落ちた。


 ロダンはじっくり考えてから、暗闇を手探りで歩くような気持ちで言った。


「えっと、父ちゃんがぐっすり眠れてるなら、良かった。うん、良かった。えっと、えっと……それで、クルスはさっき、な、な、なんて言ったの?」


 ロダンは吃りながら、なんとか言った。クルスは気にしたふうでもなく、ロダンの拙い問い掛けに淡々と答えた。


「お優しい坊っちゃんだって言ったんだ。奥様を庇って、旦那様に撲り殺されるところだった。自己犠牲は美徳だが、賢いやり方じゃない」

「美徳って、なに?」


 ロダンは訊ねた直後に、やってしまったと後悔した。時と場合を考えず、疑問をそのまま口にしてしまう。この悪癖には、母もうんざりしていた。

 教わったところで、ロダンの頭では理解出来る筈がないのだから訊ねるだけ無駄なのに、好奇心をおさえきれない。


 話の腰を折られて、クルスが腹を立てるのではというロダンの心配をよそに、クルスはすらすらと応えた。


「美しい徳。道にかなった立派な行い。または、良い心」

「もしかして、ぼく、ほめられた?」


 ロダンはすっとんきょうな声を出す。クルスは吃驚仰天するロダンを胡乱な目で見た。


「『お前は優しい。でも、不器用だ。きっと早死にする』って言い直しても、ほめられたと思うかい?」


 ロダンはこっくりと頷いた。「立派」とか「良い」とか「優しい」とか、それらはロダンとは無縁の褒め言葉である。


「ほめられちゃった」


 ロダンが呟くと、クルスは顔をしかめた。


「『売女の子』の忠告には耳を貸そうとしない、か。もう良い。撲殺されるなり刺殺されるなり、勝手にしろよ」


 ロダンは愚鈍だけれど、クルスの機嫌を損ねた原因が自分にあることは、なんとなく察した。せっかく、ロダンと話してくれたのに。ロダンを褒めてくれたのに。


 踵をかえして、寝室に戻ろうとするクルスを、ロダンは慌てて呼び止める。


「待って!」


 呼び止めると、クルスは扉の把手を握ろうとした手を引っ込めて振り返った。ロダンは戸惑う。呼び止めたけれど、その理由はロダン自身にもわからない。呼び止めたのに黙っているわけにもいかないので、ロダンは心に募る疑問をそのまま、言葉にした。


「えっと、えっと……ねぇ、君、クルスだよね? 昨日と今日じゃ、まるで別人だ。えっと、その、話し方……言葉遣い、とか、そういうの」

「『口の利き方に気を付けろ』ってか? どうぞご心配なく。この家じゃ誰に媚びへつらうべきなのか、そこのところは正しく見極めた。おれの特技だ。その精度はちょっとしたものだって自負してるぜ」


 クルスはにやりとして言った。挑発的な言動だった。この短時間に、ロダンはクルスに敵意を向けられるようになってしまったらしい。


 このままではいけないと、ロダンは思った。なんとかして、クルスの心証をよくしたい。けれど、妙案は浮かばない。


 クルスは、まごまごしているロダンの肩をぽんと叩いた。


「ま、そうかたいことを言うなって。仲良くしようぜ、兄弟」


 兄弟と聞いて、父がクルスを養子に迎えると言っていたことを思い出す。クルスはロダンの兄弟になったのだ。


 ロダンはあっ、と声をあげた。


「クルス、何歳?」

「九歳だけど」

「生まれはいつ?」

「夏至の月」

「夏生まれ? ぼく、秋生まれ。ってことは、ええと……クルスは、ぼくの姉ちゃんだ」


 そのとき、クルス頬にサッと血の気がさし、耳まで赤くなった。と、ほとんどすぐに、クルスの顔色はもとの乳白色を通り越して、死者のような蒼白になる。


「兄ちゃんだ。二度と間違えるな」


 クルスは低く押し殺した声でそう告げると、鋭い目つきでロダンを睨み付け、寝室に戻ってしまった。

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