長い拷問
「人生とは、なんと長い拷問か」
それが祖父の口癖だった。
ロダンはものを知らない。でも「拷問」は知っている。母が以前
「お前のおじいさんは、恐ろしい人だよ。あの人と暮らす毎日は、まるで拷問だわ」
とこぼしたことがあったのだ。
「拷問って、なに?」
ロダンが母にそう訊ねると、母はため息をついた。愚鈍な息子の相手をするのにうんざりしている。それでも、母は平易な言葉で答えてくれた。
「痛くて苦しくて、とにかく、うんと酷い目に合わされるってことさ」
ロダンは驚いた。ロダンの知る限り、祖父は「酷い目に合わされる」方ではなく「酷い目に合わせる」方だったから。
祖父は手のつけられない乱暴者だった。腕っぷしが強く、怒りを堪えることがまったく出来なかった。
祖父は王都の人々と交際せず、家にひきこもっていた。たまに外出しても、道で出会う人、誰彼無し言いがかりをつけては、口を極めて相手を罵り、力に飽かせてこてんぱんに相手をやっつけた。
祖父を見ると、王都の人々はすたこらさっさと逃げ出した。
みっともない喧嘩をしてばかりいるので、親族には恥さらしと見なされ、煙たがられた。祖母は早世し、三人の叔父達は自立するやいなや祖父と絶縁した。父は長男だから、祖父の面倒の一切を押し付けられた。
ブレンネンの男は妻帯して一人前の男になる。家長は一家の王様だ。ところが、父が母を娶っても、ロダンが生まれても、祖父は王座を譲らなかった。
ロダンが八歳のとき、祖父は亡くなった。すやすやと眠っているうちに心臓がとまって、二度と目覚めなかった。
祖父の訃報に接した父が
「やっとくたばったか。せいせいした」
と言い放っても、誰も咎める者はなかった。
祖父の訃報は、皆にとって吉報だった。これで祖父の暴言や暴力に怯える暮らしともおさらば、これからは安心して暮らせると、母は安堵していた。
「よかったねぇ、ロダン。あたしは、あの人がそのうち、うっかりお前を殺してしまうんじゃないかって、ずっと、気が気じゃなかったんだ」
母の言う通り、祖父が長生きしたら、ロダンは祖父に殺されていたかもしれない。祖父はロダンを嫌っていた。
祖父は赤ん坊の泣き声が大嫌いだった。腹が空いたり、おしめが濡れたり、むずがったりして、赤ん坊が泣く。どの泣き声も嫌いだった。赤ん坊のロダンが泣きだすと、祖父は憤慨して、ロダンを床に叩き付けた。それを何度も繰り返した。ロダンは乳離れすると泣かなくなったが、祖父はロダンのやることなすこと全て気に食わないらしく、のべつまくなし、ロダンを罵倒し折檻した。
ロダンの唯一の取り柄は、人並み優れて頑丈な身体だ。この取り柄のおかげで、どうにかこうにか、これまで生き延びた。まともな赤ん坊なら、初めて床に叩き付けられた時点で、ぺしゃんこになって死んでいたに違いない。
そうした生い立ちのためなのか、ロダンは様々な感度が鈍く、とりわけ、苦痛には鈍感だった。
苛烈を極める折檻も、ロダンには耐えられる。身体のあちこちに消えない傷痕が残っているけれど、ロダンは生まれつき不器量なので、惜しくもなんともない。
だから、ロダンは祖父を恐れていないし、恨んでもいない。祖父の死を、喜ばなかったし、悲しまなかった。ただただ驚いていた。
(爺ちゃんは死んだ。本当に死んじゃった。人間って、こんなに呆気なく死んじゃうんだ)
「長い拷問」から解放された祖父の最期は安らかなものだった。祖父のこんな顔は見たことがない。祖父だけじゃなくて、父も母も、いつも眉間にぎゅっと皺を寄せている。
祖父が埋葬されるまで、ロダンは祖父の死顔をまんじりと見つめていた。
「ロダン。お前は、おじいさんのようにならないでおくれよ」
そう戒めるのは母だった。物心ついたときからずっと、まるで呪文のように繰り返し言い聞かされてきた。振り返ると「長い拷問」から解放された母の表情は、いつも通りのしかめっ面だった。
ロダンは両親の血より祖父の血をより多く受け継いで生まれたようだ。栗色の頭髪は父、琥珀色の瞳は母と同じものだが、扁平な顔立ち、浅黒い肌、大柄は祖父譲りだった。
ロダンは成長すれば、祖父のような筋骨逞しい大男になるだろう。祖父のようにならなかったとしても、父のようにはなるまい。父は痩せぎすで、顔色は青白く、全身から精気が抜けて萎びていて、まるで幽霊のようだ。祖父とは似ても似つかない。貧弱で軟弱で、妻子が虐待されても見てみぬふりをする、小心者だった。
ロダンは母の言い付けを守った。どんな時も、誰に対しても、決して暴力をふるわなかった。
ガキ大将のトッジは、ロダンを目の敵にしている。見かけ倒しの木偶の坊だとロダンを罵り、仲間と一緒になってロダンを袋叩きにする。ロダンはただの一度もやり返したことがない。こどもたちに痛め付けられても、痛くも痒くもない。
ロダンは祖父のようになりたくなかった。
ロダンが祖父のようにならなければ、きっと、ロダンの家族は「長い拷問」から解放される。祖父の最期のように、安らかな顔をして暮らせるようになる筈だった。
ところが、祖父が亡くなると、父は変わった。父の身体に流れる祖父の血が、突如として目覚めたかのように、父は怒りを堪えることが出来なくなった。
父はちょっとしたことで怒り、妻子に手を上げた。一発や二発なら、何処の家でもままあることだろう。しかし、父の怒りはそんなものではおさまらない。
豹変した父が癇癪を起こすようになると、気の毒な母は狼狽え、悲嘆に暮れていた。無理もない。「長い拷問」が終わって、やっと平穏な暮らしをおくれると思った矢先に、新しい「拷問」が始まったのだから。
ロダンに出来ることは、母の身代わりになって撲られたり蹴られたりすることくらいだった。
母はロダンよりずっと利口なので、父がロダンを痛めつけている間は、息を殺して物陰に潜んでいた。そもそも、母は父を刺激しないよう、細心の注意を払っていたので、ロダンのように度々へまをして、父を怒らせるようなことはない。
祖父が亡くなり一年が経った。風もなく、しんしんと白い雪が降り積もる夜のこと。大金を手に入れた父が、見知らぬ子供を家に連れ帰った。
火かき棒で暖炉の灰をかき混ぜていたロダンは、危うく、火かき棒を取り落とすところだった。
父が連れ帰った見知らぬ子供は、たいへん美しい娘だった。
ゆったりとした貫頭衣を来ており、それに縫いつけられた頭巾をすっぽりと被っている。それでもわかる、華奢な体躯、端整な顔立ち。
王都には可憐な娘たちが大勢いる。女らしくはないけれど、狩人の娘のマーシュなんかは、特に顔立ちが整っている。
父が連れて来た娘の美しさは、これまでロダンが見たこともない、人間離れした美しさだった。
その肌は雪よりも白く輝き、その頭髪は月華よりも金色に煌めいて。大きな瞳は空に架かる満月のよう。
もし父が「この娘は冬の夜の国からやって来たお姫様なんだ」と嘘をついたら、ロダンはころっと騙されただろう。
父はその娘の肩に手を掛けた。ロダンはひやりとした。父に触れられたら、娘は淡雪のようにとけて消えてしまうのではないかと心配したのだ。もちろん、そんなことにはならなかった。でも、娘の細い肩を掴む父の指は、おぞましい毛虫のように見えた。
娘は身動ぎひとつしなければ、顔色ひとつ変えなかった。ぱちりと瞬きをするだけ。
父は娘の肩を撫で擦りながら、頬を緩めた。笑ったと言えるかもしれない。口を開くと、父は饒舌だった。
「この子はクルス。ロダン、お前のいとこだ。クルスの母親はお前の母の異母妹でよ。クルスの母親が死んじまったんで、おれの子として引き取ることにした。クルスの母親はちょっと訳ありで、おれの隠し子ということにした方が良いと、学士様がそう言うんでな。学士様ってのは、クルスの母親が死んだ後、クルスの面倒をみてくれた学士様のこった。クルスは「希に見る秀才」とかなんとかで「学舎でも好成績をおさめている」んだと」
ロダンは目を丸くした。名前を呼ばれたのは、祖父が亡くなって以来、はじめてのことではないだろうか。
父が上機嫌なのは、良いことだ。母が撲られずに済む。だけど、素直に喜べない。父は笑っているけれど、クルスを見る目つきが、クルスに触る手つきが、なんだか嫌な感じがする。
父はクルスの肩を撫で擦りながら、猫撫で声で言った。
「クルスはおれ達の他には身寄りもない。可哀想な子を引き取ってやりたいのは山々だが、我が家は貧乏で、学費の工面に難儀する。それを言ったら学士様が「内職ばっかりで、読書や思索に耽る時間がないのは可哀想だ」ってよ。学士様はクルスに特別に目をかけていて、出来ることなら自分が引き取りたいとまで言ったらしい。まわりに反対されちまったそうだが。そこで、話し合いの結果、クルスは我が家の子になって、学士様の援助を受けて学舎へ通うことになったってわけだ」
そのとき、背後で母が悲鳴を上げた。振り返ると、厨からやって来た母がクルスを凝視していた。青ざめてぶるぶる震えている。まるで、幽霊を見てしまったかのような反応だった。
クルスはぱちりと瞬きをする。さっきから瞬きをするばかりだ。こうして作りつけられた人形ではあるまいかと思われるくらい、白い顔には感情、情動が現れない。
母はクルスを指さして、金切り声をあげた。
「あんた、正気なのかい!? あの女の子供を引き取るだなんて! この前、きっぱり断ったじゃないか! いくら金を積まれたって、その子を家に入れちゃいけないよ! 売女の子を我が子として受け容れたなんてお義父さんが知ったら、何て言うか! きっと化けて出るだろうさ!」
父の目の色が変わった。父はクルスから手をはなすと、つかつかと母に歩み寄り、母を撲った。どうと床に倒れこんだ母の腹に馬乗りになる。悲鳴を上げて身を捩る母を、さらにもう一発、二発、三発と執拗に撲り続ける。
「うるせぇ、黙れ! 親父は死んだ! この家のことはおれが決めるんだ! もう誰も、おれのやることに口出しさせやしねぇ!」
ロダンは、慌てて火かき棒を放り出し、父の背中に飛び付いて、右腕を掴み、母から引き剥がそうとした。
「やめてよ父ちゃん、母ちゃんを殴らないで! 母ちゃんは弱いんだ、そんなに殴ったら死んじゃう!」
「黙れってんだ! お前もおれに逆らうのか? 馬鹿で、能無しで、薄鈍で、抜け作のお前が? おれに逆らって、生きていけると思うのか!? 間抜け面ぁ晒しやがって、この恥さらしの戯け者が! お前は家の恥さらしだ、親父と同じだ!」
ロダンはなんとか父を母から引き剥がしたが、父が狂ったよう暴れたので、振り払われて転倒した。床に転がったロダンを睥睨する父の血走った目が、床に転がる火かき棒に吸い寄せられる。
父は素早く火かき棒を取り上げると、大きく振りかぶり、ロダンの頭めがけて振り下ろした。




