鉤の部屋へ誘うのは
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きつく瞼を閉ざしても、ノヂシャの背中が消えない。
後ろ盾であり、傀儡師でもあった宰相が姿をくらまし、ノヂシャが廃嫡されたのは十年前。庇護を必要とするこどもの頃に、ノヂシャはニーダーの手に落ちた。
当時は、ニーダーもまだ、少年の名残を残す年頃だっただろう。残虐性は、変化しただろうか。
ニーダーがこの十年の間に、暴力衝動を律することを覚えたのだとしたら。ラプンツェルの身に降りかかっている以上の、身の毛もよだつ惨い仕打ちが、幼いノヂシャを襲ったかもしれない。
あのすらりとした背は、幾度となく、蹂躙されただろう。整った顔は、骨相が変わるくらい殴打されただろう。大切な人たちを奪われ、幼い心を八つ裂きにされただろう。
ノヂシャは、どれくらい耐えたのだろうか。どれくらい苦しんでから、壊れたのだろうか。
ラプンツェルは、どこまで、正気でいられるのだろうか。
ノヂシャを寄越したのがニーダーで、その狙いが揺さぶりをかけることだとしたら、目論見通りだった。ラプンツェルはうろたえ、震えあがり、体の芯ががたついている。そこを突かれたら、ラプンツェルの心はあっけなく瓦解してしまう。
シーツと毛布に隠れて、怯えながら一日を過ごした。
ニーダーは、来なかった。来たのは、覆面の騎士だけだった。
カタツムリのように、シーツから顔だけ出して、ラプンツェルはたずねた。
「ニーダーは? ニーダーはどうしたの? 今日は来ないの?」
覆面の騎士は口をきかない。無言で、近寄って来る。大きな体は、傍にあるだけで、威圧される。覆面の騎士は、ニーダーに命じられた時と同じ要領で、ラプンツェルを捕えようと腕を伸ばしてきた。
ここにニーダーがいたら、ラプンツェルは恭順し、荷物のように肩に担がれる恥辱を甘んじて受け入れただろう。しかし、ここにニーダーはいない。
ラプンツェルは、無礼な手を叩き落とした。
覆面の騎士の手が、行き場をなくして宙をさまよう。熊のような大男に、ラプンツェルは毅然として告げた。
「自分の足で歩けます」
ラプンツェルは、呆気にとられたような覆面の騎士の隣を素通りして、自らの意志で部屋を出た。
覆面の騎士が、追従する気配がある。ラプンツェルは、立ち止りそうになる足を、意地ですすめた。
相手は親衛隊の騎士。高い塔の姫であり、仮にもブレンネンの妃であるラプンツェルが、下の立場の者に侮られるわけにはいかない。
高慢な虚栄心が自分の中にあったこと、そして、まだ残っていたことに、ラプンツェルは驚いた。
(ニーダーは、私の鼻柱を圧し折った。だからって、彼の騎士にまで、平服しちゃいない。ニーダーは言ったわ。私は妃で、奴隷じゃない。実のところ、ニーダーの奴隷みたいなものだけど、それでも、気高くありたいじゃない)
ラプンツェルが強気でいられたのは、たっぷり与えられた休息の恩恵だろう。心身ともに弱り切っていたら、ニーダーが不在であっても、恐怖にのまれてびくびくしていたと思う。
けれど、凛然とした態度は、長くは続かない。鉤の部屋が近づくと、ラプンツェルの足取りは鈍った。扉の前で、足はとうとう、錆ついたように動かなくなる。
覆面の騎士が足音もなくラプンツェルの前に進み出た。扉が開かれる。




