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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第二十二話 神の御子と悪魔憑き
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困ったことになった(20190723加筆しました)

 

 主の先を行こうとすると、おれは小走りになる。長身の主とチビのおれとじゃ歩幅がまるで違うから、どうしてもそうなる。


 物心つく頃には、おれは主の先を歩いていたが、昔はこうじゃなかった。主がすべてにおいておれに勝っていることは、今に始まったことじゃない。それでも、ここまで差はついていなかった。

 今となっては、ちょっとでも油断したら、踵を踏まれそうになる。


 主が悠然と歩を進める獅子なら、おれはその足元をせかせかと駆けずり回る鼠だ。鼠が獅子の露払いをするなんて、へんてこな話で滑稽だろう。それでも、おれは主に追い越されないよう、或いは踏み潰されないよう、死物狂いで走る。それだけだ。それしかない。それがおれの天命だから。




 ***


 マーシュと別れた後、おれは主の手を引いて、隠し通路の出入口を目指す。道すがら、主はいつにもましてはしゃいでいた。


「マーシュ……マーシュだった。嗚呼、ヘズ! 信じられるかい? あの娘はマーシュだったんだ!」


 マーシュ、マーシュ。主はさっきから、そればかりだ。たいていの場合、主は機嫌よくにこにこしているが、有頂天なくらい上機嫌になると、幼いこどもの頃に逆戻りしてしまう。「僕はもう幼いこどもじゃないんだぞ」が近頃の口癖なのに。今朝からずっとこの調子だ。あの無愛想で狂暴などら猫に、すっかり心を奪われてしまった。


 主は猫が好きだ。庭園の納屋に住み着いた、野良猫の親子を見つけたときにも、今みたいにはしゃいでいた。引っ掻かれたり咬まれたりすることを怖れないで手をのばすから、おれは気が気じゃなかった。


 どうせなら、決して主を噛まないように、主をお守りするように、徹底的に躾られた犬を可愛がって欲しい。主は犬嫌いではないのだが、いかんせん、忠良な犬より不躾な野良猫に心惹かれてしまうんだよな。


 ……とかなんとか、ぼんやり物思いに耽ってはいられない。主人に呼び掛けられてしまったからには、対面して返答しないと。一刻も早く主を在るべき場所へ帰して肩の荷をおろしたいと言うのがおれの本音だが、そんなもの、主の意思を蔑ろにする免罪符にはならない。


 おれは主に歩調を合わせた。興奮覚めやらぬ主の顔を仰ぎ見る。おれを見下ろす笑顔は、日に日に、陛下に似てきた。鮮やかな世界も色褪せる邪視封じの黒硝子を通しても眩しくて、おれは仰け反りそうになる。


 太陽を仰ぎ見るように、主の顔を見上げる。おれにとっては当たり前のことだが、おれみたいに穢れた人間が直視するには、このひとは眩しすぎる。直視したら目が瞑れるんじゃないだろうかと、たまに心配になる。

 おれ自身もなるべく直視を避ける、忌ま忌ましい邪眼でも、主に仕える為には、絶対に必要なんだ。


 おれは主に微笑みかける。誰もが微笑み返さずにはいられない主の愛すべき笑顔。対するおれのそれは酷く歪んでいて不恰好だ。わかっていても、主がおれの笑顔を望むなら、おれは笑わなきゃならない。


 おれは主の期待に応える為の台詞を読み上げた。


「ああ。あの娘の名付け親は、王妃様にあやかるように、野萵苣の花の名を彼女に贈ったのかもしれないな」

「そうだとしたら、命名に込められた願いを聞き届けられたんだね 」


 案の定、主はただでさえ眩い笑顔をさらに輝かせる。おれは口許に貼り付けた微笑みが剥がれ落ちないよう慎重にならなけばならなかった。


 王妃様の花である野萵苣は、隣国ではマーシュと呼ばれる。市井のひとが他国の言葉に触れる機会は限られているが、皆無じゃない。学者や有識者からマーシュという単語の意味を教わったり、彼らの会話を小耳に挟んだりすることがあるかもしれない。


 王妃様のお名前をそのまま頂くのはさすがに不敬だが、異国の言葉に置き換えてお名前をお借りするくらいなら、いちいち目くじらをたてる程のことじゃないだろう。


 一昔前の貴族社会では、こどもに異国の名前をつけることは禁忌とされていたそうだが、凡十二年前、主が陛下から異国の名を賜って以降、異国風の名前が容認されるようになったらしいし。


 それはさておき、困ったことになった。主人がマーシュという市井の娘に興味を惹かれていることは、疑いようもない。綺麗に着飾った、お人形さんみたいなお姫様たちには、そんなに興味を惹かれないようなのに。


 主は犬より猫が、お姫様より女賊がお好みだ。昔からそうだった。


 幼い頃、主はじっとしていることが大の苦手だった。今日は頑張るぞと意気込んで本を開いても、ちょっと目を離した隙に船を漕いでいた。その度に、母はおろおろしていたし、ラディソン先生は頭を抱えていた。陛下が笑っていらっしゃったから、おれはそんなに気にしなかったが。


 そんな主が、何度も何度も繰り返し読み返す程に夢中になった本がある。その題名は「海賊と神様の至宝」。御幼少から勉強家であらせられた陛下が愛読されていらした異国の物語だ。陛下は幼い主とおれを寝かしつけてくださるときに……幼い主はしばしば、寝るときもおれと一緒じゃなきゃ嫌だと駄々をこねたから、主の寝台で添い寝する機会があって、その時に……この物語を読み聞かせてくださった。


 その登場人物のなかで主人のお気に入りは、おしとやかなお姫様ではなく、勇猛果敢な女海賊だった。


 挿し絵に描かれた、女伊達らにむくつけき大男たちを従え、カトラスを手に大立ち回りを演じ、敵をばったばったと薙ぎ倒す、凛々しく逞しい妙齢の女の勇姿は、ブレンネンの紳士が見たら卒倒しそうなものだった。


 幼い主はそんな女海賊を指差して「すてきだ! 僕は彼女と結婚したい!」と叫んでいた。陛下は「強さに惹かれるのも母譲りかな」とのどかに仰り微笑ましくご覧になったが、おれは青ざめた。


 豪腕にあかせて大の男を軽々とぶっ飛ばす、筋骨粒々の大女がおれの女主人になる? 冗談じゃない。勘弁してくれ。


 当時のおれを悩ませた主人の初恋は、今となっては笑い話だが、もし、主がマーシュに恋したとか言い出したら、笑い話では済まない。マーシュは物語の登場人物ではなくて、現実の世界に存在するんだから。


 物語の女海賊には遠く及ばないが、マーシュは無愛想で怒りっぽくて、喧嘩早い跳ねっ返りだ。どこの馬の骨とも知れない市井の娘だし、前髪の影に隠れてわかりにくいが目付きも悪い。主にはふさわしくない。


 やはり、主を外の世界に連れ出したのは失敗だった。主に強請られて断りきれなかったなんて、言い訳にならない。


 ちょっとだけ、外の世界を探検すれば、それで満足してくれると思った。おれが甘かった。まさか、あんなことになるなんて。


 銀の断崖ではしゃぐ主を諌めきれず、じゃれ合っているうちに、王家の紋章が刻印された金釦を何処かに落っことしてしまった。

 それに気付いて慌てて金釦を探しに出掛けたおれは、主がこっそりおれの後をついて来ていることに気付かなかった。気付いたのは城下におりた後だった。


 主を宥めすかしてお部屋まで送り届けて、それから出直すか。と、大きく狂った予定を立て直していたら、主がいなくなった。


 大慌てで探し回って、見つけた時には、ロダンとかいうデカブツが主に殴りかかろうとしていたから、肝が冷えた。


 武芸の達者な主が図体だけの素人に負けるとは思わないが、取っ組み合いになれば、無傷では済まないかもしれない。主人には傷ひとつつける訳にはいかない。主には指一本も触れさせない。


 幸いにも主は無事だった。どこの馬の骨とも知れない娘にいれこんでしまっていたが。困ったことになった、本当に。


 おれの懊悩をよそにして……まぁ、おれがぐだぐだ思い悩んでいると知ったら主の心を煩わせてしまうから、それで良いんだが……主はうきうきとしている。


「心から優しい母上の高潔なお人柄のなかには、不屈の闘志が漲っていたと、父上はいつかそう仰っていた。まるでマーシュの人柄を言い表したかのようなお言葉じゃないか。 ねぇ、ヘズ?」

「そうかな」


 主に水を向けられても、おれは曖昧な返答をするしかない。


 王妃様は高潔なお方だったのだろう。何せ高潔な主の母君だ。見ず知らずの旅芸人の娘を身を呈して庇うのだから、マーシュも高潔な娘なのかもしれない。誰も彼も高潔だ。息が詰まるくらいに。


それでも、王妃様とマーシュを一緒にするのは間違いだと思う。主の母君はお伽噺から抜け出してきた妖精みたいな、華奢で可憐な女性だ。どら猫マーシュとは似ても似つかない。主の感性を疑ってしまう。


 だが、ここで頭ごなしに主人の意見を否定するのは得策じゃない。主人はおっとりしているが、それでいて結構な頑固者なのだ。たとえばおれが


「そうかな? どうかな? おれはそうは思わないね。だって、考えてもみてくれ。あなたとおれが銀の断崖から景色を眺めていたとき、あの娘は身を潜めて、おれたちの様子をうかがっていたんだぜ。金釦をなくしたのがあの時だとしたら、おれたちが立ち去った後、一部始終を見ていたあの娘が金釦を拾ったんだ。有り得ないとは言い切れないだろう? 王家の紋章が刻印された金釦を拾ったあの娘は、何を考えたかね? 王家の紋章は、ブレンネンの国章のように、表立って掲げられるものじゃないから、そうだとはわからなかったかもしれない。だが、貴族の持ち物だってことは、無知蒙昧の小娘にも、想像に難くないよな」


 などと言おうものなら、どうなることやら。きっと、おれの品性が疑われるだろうな。


 主は従僕に過ぎないおれの助言や諫言にも耳を傾け、聞き入れてくれるが、彼が信じる正義は絶対に譲らない。そればかりは、陛下のお言葉でも、なかなか聞き入れてくれないのだ。「頑固なところも母譲りだ」と陛下は嬉そうに仰るから、悪いことじゃないと思うが。そうであっても、頑なになる主に手を焼くことも少なくない。


 おれはマーシュを疑っているが、なにもマーシュばかりを疑っているわけじゃない。マーシュと敵対しているらしいクルス達も怪しい。マーシュとクルスが共謀している可能性もある。連中が主に取り入ろうとして一計を案じたとしても不思議ではない。クルスは優秀な学徒らしいから、学者のはからいで、王家の紋章が描かれた文献に目を通す機会もあるかもしれない。


 もしも彼らが、こどもならではの浅はかさと無鉄砲さで、王族の妃になることを夢見てしまったとしたら。


 ……それにしては、マーシュとクルスは主にたいして無遠慮に悪態をついていた。これから取り入ろうとする相手にとる態度じゃなかった。


 たぶん、マーシュもクルスも、主の素性を察してはいないんだろう。すくなくとも、今のところは。


 だとしても、これから知られる可能性はある。何せ、迂闊な……基、親切な主が、マーシュにハンカチを渡してやったらしいから。しかも、そのハンカチはクルスの手に渡ってしまった。マーシュとクルスが不仲だというのが本当なら、あのハンカチが主のものだと、クルスは知る由もないだろうが。


それにしても、主のうっかり……基、おおらかさが恐ろしい。おれの目の届かないところで、うっかり正体を明かしていそうだ。さっきも、おれが口を挟まなければ、うっかり真名を名乗りそうだった。


 疑心暗鬼になっている自覚はある。主人が躓かないように、転ばないように、痛い目に合わないように、怪我をしないよう。そうやって気を張っているうちに、おれは警戒心が強くなり、用心深くなった。


 金釦とハンカチのことを抜きにしても、おれはこれ以上、主を彼らに関わらせたくない。特にクルスには。


 クルスは主の瞳の色を侮辱した。言うに事欠いて「人喰いの目」だと。


 主は陛下の唯一人の御子だが、神の祝福を授からなかった。その稀有な瞳と髪の色の為に、不忠者どもから「呪われた王子」と呼ばわれていることを知っている。そのせいで、陛下がお心を痛めていらっしゃることも。


「いわれなき中傷があの子の耳に入ることがないよう、気遣ってあげてくれないか」


 と陛下はおれに直々に、それも、命令ではなく頼み事のように仰った。その破格の厚遇に感激しながらお役目を拝命したその瞬間。あらゆる悪意から主を守ると、おれは誓ったんだ


 あの時、あの場に主がいなければ、おれはクルスの目玉を抉ったかもしれない。非人の落とし子の分際で、このブレンネンで最も尊い御方、神に等しい御方の御子を侮辱した。その罪は万死に値する。



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