勇敢な女の子2(2019.4.11加筆修正)
すっかり臍を曲げたマーシュは、その後も軽口を叩き続けるヘズに一瞥もくれなかったし、彼の言葉の一切を黙殺した。
レイはまごまごしていたけれど、蔑ろにされた張本人であるヘズは、マーシュの不機嫌などどこふく風といったふうに、じつにケロリとした態度で笑っている。気の済むまで笑った後「よーし! それじゃあそろそろ、持ち場に戻ってもうひと頑張りしようかね」と言って踵を返した。
マーシュと共に取り残されたレイは、マーシュとヘズを交互に見ておろおろしていた。マーシュがむくれたところで、ヘズは痛くも痒くもない。レイが困惑するばかりだ。
マーシュは天を仰いで長息する。塞ぐ喉の奥から絞り出す、呻くような唸るような声で「ごめん」と謝った。
「あんたには、みっともないところをみられてばっかりだ……今もそうだけど、さっきは……特に」
レイが目を丸くする。「さっき?」と小首を傾げた彼の視線が彼自身の肩に注がれたので、マーシュは「それもそうだけど、そうじゃなくて」と頭を振る。溜め息をもうひとつ。
「クルスの悪趣味なお馬さんごっこに付き合わされていたところ、あんたに助けられたでしょうが。本当はわたし、あの娘……ウェンディって言ったっけ? あの娘の助けになりたかったのに……わたしのやったことと言えば、クルスの挑発にまんまとのせられて怒って、やり返して怒らせて……余計なことばっかり」
「君が怒るのも無理はない。彼らは実際、とても失礼だったんだから」
「だとしても、もっとうまくやらなきゃいけなかったんだ。結局、わたしもあの娘も、あんたと、あんたのお連れさんに助けられた。あんたはわたしを助けてくれたし、あんたのお連れさんはクルス達を追い払ってくれた。……わたしはしゃしゃり出て、あれこれ言って、どうしようもなくなっただけ。まったく、もう……情けないな。本当、最悪」
マーシュは自嘲する。わかっていたことだけれど、言葉にしてみると己の無様が際立って、がっくり首を垂れた。
何よりも、こうして愚痴をこぼすこと自体が無様である。レイが落ち込んだマーシュを慰めずにはいられないことは想像に難くないのに。
マーシュの予想通り、レイは「それは違う!」と言った。しかし、マーシュが予想したよりその声量は豊かだったから、マーシュはぎょっとした。レイはきらきら光る深紅の瞳で真っ直ぐにマーシュを見つめている。
「君とウェンディは、お互いの名前も知らないようだった。君達は友人同士ではない。それどころか、顔見知りですらなかった。違うかい? ……そう、そうだろう。それでも君はウェンディを見捨てなかった。危険を顧みず、彼女を救おうとしたんだ。君は立派に戦ったよ。情けないなんてことはない、絶対に」
レイはマーシュの両手をとった。その丁寧で心のこもった所作には、真心がこめられている。真摯に紡がれた彼の言葉にも同じことが言えるだろう。マーシュの身も心も隅々まで痺れた。
「それを言うなら、あんただって」
マーシュの声は咽喉で掠れたけれど、マーシュは言わなければならないことを言った。
「あんたとわたしも、初対面でしょう。それなのに……あんたはわたしを助けた」
心底不思議そうにレイは首を傾げた。マーシュは黙ってレイの言葉を待っていたけれど、いつまで経ってもレイは何も言わない。切れ上がった両目をぱちぱちと瞬かせるばかりだ。沈黙を埋めなければ、何か言わなければと気が急いて、マーシュはついつい、憎まれ口を叩いてしまう。
「でも、お節介はほどほどにね。お目付け役に叱られるよ」
「そうだね。肝に命じておこう」
レイはこくんと頷いて、にっこりするから、拍子抜けした。マーシュは少しは迷ってから、何気ない調子を装って訊ねてみる。
「ねぇ、あんた、怒らないの? さっきからわたし、生意気口をきいたり、生意気な態度をとったり、やりたい放題、色々とやらかしていると思うんだけど」
「ん? そんなことはないさ」
「そう? あんたって、滅多なことじゃあ怒らないんだろうね」
「そうでもない。君と再会してから今まで、この短い間に、僕は二度も憤ってしまっただろう?」
「そう。あんたのお連れさんと……わたしの為に、怒ってくれた」
マーシュはその言葉を、一音ずつ噛み締めるように口にした。マーシュの言葉の調子がひどく真剣だったからだろうか。レイは微笑みをひっこめると、考えこむように目を伏せて、真面目な顔つきをして言った。
「彼らが、君に……何と言おうか、そうだな……意地悪をするのを見て、かっとなってしまった。彼らは冗談のつもりだったのかもしれないけれど、あれはいくらなんでもひどすぎる。しかし、僕が己を律することが出来なかったばかりに、君達にまで怖い思いをさせてしまった。君達のような女の子を、争いに巻き込むべきではなかったのに……すまなかったね」
レイは心底申し訳なさそうに謝罪する。それで、マーシュは冷や水を浴びせかけられたような気がした。マーシュの両手を包み込むあたたかな手を乱暴に振り解く。目をぱっちりさせるレイを見る目が、鋭く尖ってしまうのをマーシュは自覚した。でも、我慢ならなかった。
「わたしのこと、か弱い女の子だって頭から決めつけるの、やめてくれない? 赤の他人に、わたしに出来ることと出来ないことの線引きを、勝手にされたくない」
とりつく島もない切口上で言うと、マーシュはぷいと顔を背けた。苦々しい表情は、レイの目にはどのようにうつるだろう。怒っているように見えるか、或いは、拗ねているように見えるか。そのどちらでもあるような、どちらでもないような、曖昧模糊とした鬱憤が、マーシュの胸中に渦巻いている。こんなこどもっぽい悪態をつくべきではないと、頭は理解しているのに、心は駄々っ子のように言うことを聞いてくれない。
レイは気持ちの優しい男の子だ。ブレンネン王国において、こんな男の子はきっと、レイの他にはいないだろう。
女の子であるマーシュが男の子たちと喧嘩をすると、ブレンネンの良識ある男女であれば誰もが皆「あれは女の出来損ないだ」と顰蹙してしまう。
ところが、レイは男の子達に立ち向かったマーシュの心意気を肯定してくれた。マーシュは役立たずだったのに、見ず知らずの女の子を助けようとして、立派に戦ったと褒め称えてくれた。マーシュはそれが嬉しかった。
けれど、レイは矢張り、ブレンネンの男の子なのだ。女は争いを恐れる筈だ、だから女を争いに巻き込むべきではない。つまり、女は男の庇護下にあるべきだと、レイもそう考えている。
それはこのブレンネン王国において、正しい思想である。それに、女は男に庇護されなければ生きられない弱いものだから男に支配されて然るべきだ、等と横暴な思想にはしる輩が大多数を占める中で、女を宝物のように大切に慈しみ守ろうとする男の存在は、ブレンネンの虐げられる女たちにとって、涙が出る程にありがたいものだろう。
しかし、マーシュはそうは思わない。マーシュには上手に出来ないことが沢山あるけれど、上手に出来ることだっていくらかはある。そのうちのひとつが、男の子と喧嘩をしても対等以上に渡り合えること。間違っていると思えば堂々と異を唱え、力に飽かせて黙らせようとする奴には力で抗えること。今回のように、うまくいかないことがあっても、悔しさをバネにして立ち上がる、不屈の心の持ち主であること。
だからマーシュは、男の子に守って貰わなければ一人ではいられないような、儚い女の子ではないし、そうありたいと思ったことはただの一度もない。
マーシュの健闘を讃えてくれたレイならこの想いを理解してくれると、マーシュは期待していた。それなのに。
(そっか……わたし、レイならブレンネンの女の出来損ないって馬鹿にされるわたしのことを、認めてくれるんじゃないかって……許してくれるんじゃないかって……期待していたんだ。勝手に期待して、それで、期待を裏切られたって、勝手にがっかりしているんだ)
曖昧模糊とした気持ちの中から、探り当てた答えは思いの外、つまらないというかくだらないものだったと、マーシュは思った。こんな理由で八つ当たりされたレイにとってはいい迷惑だろう。さっきからずっと、こんなことを繰り返している気がする。
けれどお人好しのレイは、マーシュの言葉をそのまま受け取って、そうして受け入れて、真っ直ぐに答えを返してくる。
「それは、すまなかった。そんなつもりじゃなかったんだ。ただ……いや、言い方を変えたところで同じことだな。君の言う通りだ。今後は気を付ける」
マーシュはうんざりして溜め息をついた。自分自身に対してうんざりしていたのだけれど、そんなこと、レイには知る由もないことである。レイは不安そうな、驚いたような表情をしている。
マーシュはそれを視界から閉め出して、レイの顔を見ないように注意しつつ、言い放つ。
「今度こそ、生意気な蓮っ葉女だと思ったんじゃない?」
ずばり、その通り! と言ってくれたらと良いと、マーシュは唇を噛んだ。自分勝手な考えだけれど、悶々とした自己嫌悪にじわじわと首を絞められるより、いっそのこと、レイに突き放されてしまった方が楽だ。嫌われることには慣れているから。
突然、世界が明るくなった。レイの手が、マーシュの前髪をそっとかきあげていた。白々と眩い世界の真ん中で、レイの瞳は星が宿ったように輝いた。
「このブレンネンでは、君のように凛とした女の子に対する風当たりが強いと聞く。心身ともに傷つけられても臆することなく、理不尽に立ち向かうことに伴う苦労は、並大抵のものではないだろう。僕が想像するのも烏滸がましい程にね。君は勇敢な女の子だ。僕は君を尊敬するよ」
レイの言葉はマーシュの心を揺さぶった。心の底から揺り動かされ、その震えは痺れる体にまで伝わった。
(勇敢な女の子)
生意気で粗野で怒りっぽい蓮っ葉女でなければ、ブレンネンの女の風上にもおけない女の出来損ないでもない。マーシュは勇敢な女の子だと、レイはそう言ったのだ。
(そんな風に言って貰えたの……初めて)
マーシュは俯いた。帽子を目深に被り直す。不思議な感情が膨らんで、胸がいっぱいで、体がかっかっと熱くなっていた。むずむずして、くすぐったいような、不思議な感覚が頭のてっぺんから爪先まで、マーシュの総身を駆け巡る。それは不快なものでは決してなかった。
(嫌じゃない。嫌じゃなくて……むしろ、わたしは)
マーシュがその先を思考するより先に、レイはハッとして目を見開いた。
「なんてことだ……僕は君の名前を知らないぞ! そうか、自己紹介がまだだったんだ! これはとんだ失礼をした。すまなかったね。僕の名前は」
レイが名乗ろうとすると、ヘズが傍から口を挟む。
「それじゃあ、ここで自己紹介。おれはヘズ。彼はレイ。ご存じの通り」
ヘズはマーシュとレイの会話に聞き耳を立てていたらしい。マーシュは目玉をぎょろりと回してヘズを睨んだ。ひとの名乗りを遮るなんて、それこそ失礼だ。けれど、レイ自身はちっとも気にしていない。むっとするどころか「そうか、そうだね。ありがとう、ヘズ」と、よくわからないけれど、感謝すらしている。だから、マーシュがヘズに文句をつけるのは筋違いだろう。マーシュは意識的にひとつ咳払いをしてから、名乗ることにした。
「わたしはマーシュ」
「マーシュだって!? 君の名前はマーシュというのか!」
そう言って、レイはかなり顕に体を震わせた。彼の双眸は目尻が裂けてしまうのではと心配してしまうくらい切れ目いっぱいにひろがって、マーシュを凝視している。レイの驚きようにマーシュも驚いて、びくりと震えてしまった。
(えっ? なに、なに? なにをそんなに驚くの?)
「マーシュ」は珍しい名前だけれど、だからと言って、そんなに驚くことだろうか。意地悪な大人たちはマーシュの一挙手一投足に難癖をつけるけれど、名前のことを兎や角言われたことはない。
クルスには「学も教養もない売女の棄児にはもったいない名前だな」と揶揄されたことはある。あの時クルスが貶したのはマーシュという女の子であり、マーシュという名前ではなかった。マーシュを貶すことで、マーシュと言う名前を持ち上げている節さえあった。だから、おかしな意味があるとか、妙ちきりんな響きだとか、そんなことはない筈だ。しかし、それでは、レイの驚愕の説明がつかない。
マーシュは訝しんでいることを隠しもせずレイを真正面から睨み付け、つっけんどんに言った。
「そうだけど、なに? 母さんがつけてくれた名前だよ。バカにしたら承知しないからね」
「まさか! 素敵な名前だ。うん、本当に素敵な名前だよ。そして、君はその名にふさわしい女の子だ」
レイはマーシュの肩に掴まった。乱暴ではないけれど、抱擁とそんなに変わらない親密さに、他人との接触に不馴れな……ブレンネンの嫁入り前の娘はたいてい、そうだろうけれど……マーシュの体は強張る。しかし、レイにそんな配慮は望めないことはわかりきっている。それにレイは今、とてつもない興奮と感動に浸っているようだから、尚更である。
肩に掴まる手を背に回し、マーシュを抱き締めたとしても、不思議ではないくらい、レイは高揚する気持ちを抑えられないでいるようだった。
そんなレイの肩に、ヘズがぽんと手を置いた。
「なぁ、もう、そろそろ」
ヘズの抑揚のない言葉を受けて、レイは我にかえったようで、ぱっと身を引いた。レイのきらきら眩しい笑顔が遠ざかったことに、ほっとしたような、寂しいような、曖昧な気持ちを胸の奥に燻らせながら、マーシュは気持ちの舵を強引に切り替えようと、ヘズに目を向け問いかけた。
「帰るの?」
「ああ、時間切れだ。今日のところは、捜索を切り上げよう」
「そうだね。ねぇ、マーシュ。明日も手を貸してくれるかい?」
レイが当たり前のようにマーシュを頼ったので、マーシュは目をぱちくりさせた。レイの背後に立つヘズも、仮面の下ではマーシュと似たような表情をしているかもしれない。
ヘズの物言いたげな視線には、たぶん、抗議の意味がこめられていたけれど、レイはそれを笑顔でいなしてしまう。このことについて、己の意思を曲げるつもりはないという意思表示だろう。
それでも、マーシュが断ればレイは引き下がるだろうと、マーシュはそう確信していた。レイの頼みを断れば、レイとはもうこれきり、会うことはないだろうということも。
気が付いたら、マーシュは既に首肯いていた。
「構わないけど、朝早くからは無理。母さんの手伝いがあるから。あんまり長い時間も付き合えないよ」
「やった! ありがとう、マーシュ!」
レイは小躍りして喜ぶ。マーシュは照れくさくなって、帽子の庇で顔を押し下げて顔を隠したけれど、満更でもなかった。
レイはヘズを振り返り「明日はどうしようか?」と、勝手に話をすすめたのに少しも悪怯れることなく小首をかしげる。むっつりと押し黙っていたヘズだったけれど、笑顔を絶やさないレイに根負けしたのか、やがてきつぜんと溜め息をついてから、やれやれと肩を竦めた。
「なら、明日もこの時間、この場所で。……もう気は済んだな? さぁ、行こう」
「うん、ありがとう、ヘズ! マーシュも、今日はありがとう。帰り道は、余所見をして転んだりしないように、気を付けるんだよ。また明日もよろしく頼むね」
レイはマーシュに向き直り、別れの挨拶をする。誰よりも余所見をして転びそうなひとに、幼子がされるような心配をされなければならない理由が分からない。マーシュはちょっぴりむっとした。悪気は無さそうだから、目くじらを立てても仕方がないだろうけれど。
ヘズの方をちらりと見ると、振り返らず、肩越しに右手をひらひらさせて挨拶に代えていた。マーシュはヘズに倣い、手を振ってみる。レイはにっこりしてから、先を行くヘズの背を小走りで追いかけていった。レイがヘズの隣に並ぶと、ヘズはぴたりと歩みを止める。その視線はぱんぱんに膨らんだポケットに注がれていた。
「おっと……待った。ちょっと待った。止まって。ポケットを裏返すんだ。全部だぞ、全部。……やっぱりね、思った通り。ダメ、ダメ。ここで拾った物を持ち帰るのはダメだ。たとえば、この青い茸。これは暗い森にしか生えない種類の茸なんだぜ。あなたがこんなものを隠し持っていることが誰かの目に触れれば、あなたのお父上のお耳に入って、おれたちがこうして、こっそり抜け出したことがばれてしまう。そうしたら大変なことになる。出掛ける前に話しただろう?」
噛んで含めるように窘められたレイはしょんぼりと肩を落とす。しかしここでは聞き分けた。その場にしゃがみこみ、名残惜しそうにポケットの中身をひとつひとつ地面に並べる。捨てるのだから、散らばしておけば良いのに、と思いながらその様子を眺めていると、レイが顔をあげた。マーシュとレイ、目と目が合う。レイがぱあっと笑顔になる。地面に並べた宝物を両手に掬い上げて立ち上がろうとするレイに背を向けて、マーシュは走った。
レイにはまた明日も、出来ればこれからも会いたいけれど、木の実や茸をおしつけられても困ってしまうから。