蔑称
マーシュは思わず息を呑む。あまりにも急なことだったので、眩暈を感じたくらいだった。
クルスは一言も発せず、眦が裂けるばかりに双眸を見開いて、じっと、小刀の切先を凝視している。あまりのことに、狼狽することも出来ないでいるのだ。
ヘズは左手でクルスの顎をつかむと、猫にするようにその下顎を擽りつつ、言った。
「さぁて、どこからどうしてやろうか。そうだな、まずは右の目玉を抉り出す。次は左の目玉だ。それとも、先に鼻を削ぎ落とそうかな。さぁ、どうする? 順番くらいお前に決めさせてやっても良いんだぜ。何せ、お前自身のことだ。おれの狭い心にだって、そういう、融通のきく部分はある。それが慈悲の心か遊び心かなんてそんなこと、知ったことじゃないがね」
小刀の切先で睫毛をちょんと小突かれて、クルスの瞼がぴくぴくと痙攣する。淡然とした声調、おぞましい脅迫があまりにも乖離していて、マーシュは戦慄した。クルスもロダンたちもそうだったに違いない。
マーシュたちは黙ったまま身じろぎもせず、どんなことになるのかと固唾をのんで待つしかなかった。迂闊なことをしては取り返しのつかないことになりかねない。ヘズは落ち着き払っているけれど、どことなく狂暴で、手のつけられない獣の気配を匂わせている。
クルスを慕うロダンたちはもちろんのこと、クルスと反目し合うマーシュだって、クルスの目玉が抉り出されることを望んではいなかった。
一触即発の空気がはりつめる中、口を開いたのはレイだった。
「ヘズ……もう、そのくらいで……」
勘弁してやってくれ、と言外に訴える。ヘズの顔色をうかがう、おずおずとした物おびえのある態度は、先刻、きびきびと歯切れの良い言葉で素直に言い放していた 、いかにも利発な少年らしいレイとはまるで別人のようだ。高潔なレイならば『卑劣な真似はよせ』とヘズを叱責しても不思議ではない場面なのに。
レイはヘズのしていることを止めさせようとしているけれど、強制はしていない。二人は主従関係にあるはずだけれど、レイはヘズに命ずるのではなく、懇願している。ブレンネンの常識では考えられないことだけれど、乳母兄弟に対してへりくだった態度をとることは、レイにとっては当たり前のことらしかった。
レイとヘズの睨み合い……と言うには、レイはあまりにも弱腰だけれど……はしばらくして、ヘズが屹然とため息をつくことで決着を見る。
ヘズはあっさりと身を引き、頭を挟んで揃えるようにして両手を挙げた。右手のなかで小刀をくるりと回転させながら唇を冷笑のかたちに歪める。
「冗談だよ、冗談だ。真に受けるな」
素っ気ない言葉は、クルスに向けられていた。
拘束と脅迫から解放されたクルスの身体が、骨格を失ったようにへなへなと崩れ落ちる。ロダンは跳ね起きた勢いそのままにクルスのもとへ駆けつけ彼を抱き起こした。クルスは顔面蒼白で、瘧にかかったかのように震えている。余程、堪えたらしい。クルスを毛嫌いしているマーシュでさえ、こればかりは無理もないと、同情を禁じ得ない有り様だった。
クルスをそこまで追い詰めた張本人はどうしていたかと言うと、クルスには目もくれず、その傍らを素通りした。レイの真正面に立つ。小刀を手の内でくるくると弄びながら、ヘズは肩を竦める。仮面に隠された目許はわからないけれど、口許は微笑みを形作っていた。
「よう」
ヘズはおよそ挨拶とは思えない珍妙な声をあげてから、肩越しにクルスとロダンを振りかえる。震え上がるクルスをロダンが抱き締めた。その後ろで木偶の坊をしていたトッジが怖じ気づいて後退り、さらにその後方で腰を抜かしていたキールが情けない悲鳴を上げる。
ヘズは彼らを一瞥すると、まとわりつく鬱陶しい羽虫を打ち払う要領で、手にした小刀をちょいちょいとふるった。
「お前の目玉を抉るお楽しみは、次の機会までとっておく。おれの気が変わらないうちに、とっとと失せな」
ヘズの言動と姿勢にあらわれた自信は膨大で、傲岸不遜極まりない。それとは裏腹に、口許にも声調にも感情のうねりは全くあらわれなかった。無味乾燥の度合いは甚だしく、それがヘズの言動と姿勢を嘲弄、挑発などと呼ぶことを躊躇わせる。得体の知れないものに噛みつくことを、誰もが躊躇うだろう。
ところが、怒り心頭に発するロダンは躊躇わなかった。
「次なんてない! 今ここで、おまえの目玉を抉り出してやる!」
言うが早いか、ロダンは立ち上がる。叩き落とされた蜂の巣のように怒り猛っていた。ヘズに躍りかかって組伏せるつもりだ。
ロダンは本気だ。ヘズの眼窩に指を捩じ込んで、目玉を抉りだそうとしている。ヘズの脅迫がロダンの逆鱗に触れたのだ。ロダンは性悪なクルスの言いなりになる薄鈍だけれど、兄思いの弟でもあるから。
このままでは本当に、目玉の抉り合いになりかねない。怒れるロダンをとりおさえなければ、大変なことになる。しかし、マーシュが出る幕ではなかった。取り残されたクルスが、甲高い声で叫んだのだ。
「よせ、やめろ、ロダン! そいつは『悪魔憑き』だ! 近寄るな、呪われるぞ!」
あたりはシーンと、水をうったようにしずまりかえる。ロダンはぽかん、とした表情でクルスをふりかえり、トッジも同じような表情をしてクルスを見つめる。マーシュも似たような表情をしていたかもしれない。
マーシュは首を傾げた。
(『悪魔憑き』って、なに?)
悪口雑言の一種なのだろうな、と見当をつけることは出来る。しかし、妙だ。目玉を抉りだす、という恐ろしい脅迫をしたヘズを凶悪な輩であると非難したいなら『悪魔』呼ばわりで事足りる。敢えて『悪魔憑き』などと回りくどい言い方をするからには、何かしらの意味があるはずだった。
「口を慎め! 君は……なんてことを……よくもそんな……暴言を吐けたものだな! よくも、そんな……」
叫んだのは、白い頬を真っ赤に紅潮させたレイだった。それきり絶句して、怒りに震えている。クルスはかなり酷い暴言を吐いたようだ。
『悪魔憑き』というのがそれにあたるのかもしれない。そういうことなら、道徳の化身のようなレイが憤慨するのも頷ける。
クルスの旺盛な差別意識は、窮地に立たされていても発揮されるのだ。ここまで徹底していると、呆れるのを通り越して感心してしまう。
ヘズはというと、彼自身が蔑称されたにも関わらず、平然としていた。口角が上がっているので、見る角度によっては笑っているようにも見える。ヘズは行儀よく並んだ白い歯を見せた。
「へぇ。お前、市井の人にしては物知りじゃないか。母親はそんじょそこらの『金髪女』じゃなくて『金髪の姫君』だったりするのかい?」
ヘズは朗らかに言ったけれど、その発言には神経にさわるざらつきがあった。マーシュは眉をひそめ、首を捻る。
(どうして、ここでクルスの母親を引き合いにだすんだ? 金髪金髪ってやたらと強調するけど、なに? 金髪のひとが物知りじゃいけない? そういう偏見でもあるわけ?)
王都に住まう大多数の人々の髪色は、褐色、淡褐色、赤褐色のいずれかに当てはまる。レイのような濡羽色の髪は珍しいけれど、黒っぽい暗褐色の髪なら結構見かける。だけど、金髪には滅多にお目にかかれない。クルスのような白金の髪はとても珍しい。特に金髪の女の人は珍重されるそうだ。父さん曰く、女の若さと美しさを食い物にする男たちによって。それはどういう意味なのかと父さんに訊ねても、詳しくは教えてくれなかったから、マーシュにはわからないけれど。
クルスの父親であるゾールさんは金髪ではないから、母親が金髪だったのだろう。クルスに字を教えたくらいだから、教養のある女の人だ。もしかしたら、お金持ちのお嬢様だったのかもしれない。だから『金髪の姫君』という呼称を選んだのか。
しかし、ヘズがクルスの母親について詳しいことを知っている筈がない。クルスとヘズは初対面なのだから。ならばやはり『金髪女』や『金髪の姫君』という呼称は、蔑称にあたるのか。
ヘズが言わんとしていることが、金髪のひとが物を知らないということなら、とんだ言いがかりである。父さんの髪は麦藁色をしていて、色のくすんだ金髪と言えなくもない。クルスはともかく、父さんまでバカにされるのは面白くない。
でも、ヘズはもって回った言い方をするので『なにを根拠に、そんな酷い出鱈目を言うんだ』とヘズを詰ることは躊躇われた。そんなつもりはなかったと言われてしまえば、マーシュには返す言葉がない。
侮蔑とか嘲笑とか、その手の悪口を毛嫌いしているらしいレイがヘズを咎めないので、尚更である。きょとんとしているから、レイもヘズの発言から彼の真意をくみとることが出来なかったのかもしれない。表情から察するに、ロダンもトッジもそうだろう。キールは俯いているからよくわからない。
けれど、この疑問を「考えすぎ」の一言で片付けようにも、クルスの顔を見てしまうと、そうはいかなかった。
クルスの顔はブレンネンの太陽に見放されたかのように青ざめている。心の急所に驚愕と恐怖が突き刺さり、表情をひきつらせているようだ。
クルスは口が減らない奴だから、言われっぱなしで黙りこくるなんてこと、マーシュの知る限り、一度もなかった。会ったばかりのレイでさえ、不思議に思ったようで、クルスに歩み寄ろうとする。ヘズはそんなレイの肩を掴み、レイの行く手を遮るように立ち位置をかえた。体ごとクルスを振り返ると、こう言い放った。
「まぁ、いいや。知っているなら話がはやい。繰り返し言ってやるつもりはないから、よく聞けよ。その綺麗な目玉とこの邪眼とをいれかえられたくなけりゃ、尻尾をまいて消え失せるんだ。お利口なお嬢さんなら、俺の言う通りにしてくれるよな?」
クルスは真っ赤に充血して潤んだ目をヘズに向けた。この恐ろしい化け物ならやりかねない、といった表情になる。お嬢さん呼ばわりも、この時ばかりは聞き流したようだ。
クルスは弾かれたように立ち上がると、呆気にとられるロダンの手を引いて踵を返す。
「行くぞ、ロダン! トッジ、お前もだ! グズグズするな!」
クルスはロダンを引き摺るようにして、トッジの横を足早に通り過ぎる。トッジはおろおろとして、クルスの背中とヘズの顔を交互に見た。うろうろと彷徨う視線が行き場をなくして、足元に落ちる。トッジは目を瞠る。さっと腰を屈めると、足元に落ちていた何かを拾い上げるような動作をした。それから慌てて、角を曲がって行くクルスとロダンを追いかける。キールはとっくに逃げ出していたようだ。
クルスとその取り巻きたちの敗走の一部始終を、マーシュは呆気にとられて眺めていた。




