お伽噺の王子様1
「はぁ? なんだ、てめぇ……知ったような口を利きやがって……因果関係を知ろうともしねぇで、一方を絶対悪と決めつけて糾弾すんのは、人道に悖っちゃいねぇってのか? ははっ、ご都合主義の人道だ」
クルスは苛つきを隠そうともせずレイに噛みついた。けれど、レイは平然と言い返す。
「君の意見も一理ある。しかし、たとえ彼女に非があったとしても、か弱い少女を虐げる残酷な所業を正当化する程の落度など、僕の知る限りあり得ないな」
レイの温もりは、日だまりを彷彿とさせて、心地好い。とろとろと微睡んでいたマーシュの理性は、思いも掛けないレイの言葉を聞いて、跳ね起きた。
マーシュは自分が女の子であるという事実を他人から突き付けられる度に、女の子であることを忌々しく思っていた。無知で無力な存在と看做されるのが堪らなく厭だったのだ。
だから、レイがマーシュを「女の子」……それも「か弱い女の子」と呼ばわったことに少なからず落胆してしまった。幻滅したという意識はなかったけれど、やはり、失望したのだろう。
マーシュの肩を抱くレイの手を、マーシュはすげなく振り払う。善意に溢れるレイの目は、揺れる光の綾が水面に揺れるように、純粋な疑問を宿してじっとマーシュを見つめた。マーシュはその疑問に答えることができない。
反対に、マーシュが「どうしてわたしを助けようとしてくれるの?」と訊いたら、レイははきはきと答えられるだろう。
レイが諍いを引き受けたのは、理不尽に虐げられる弱者を庇うあたたかい心からだった。レイは「心優しく頼りになこる男」であろうとする彼自身の良心と信念に従って、へまをやらかしたマーシュをクルスの暴虐から庇い、マーシュの大切な両親をクルスの悪意から庇ってくれた。
マーシュはレイに感謝するべきだ。頭では理解していても、心が聞き分けてくれない。マーシュはレイに何かを……高潔であるより特別な何かを期待していた。期待を裏切られたと失望して、悪態をついてしまった。自分でも、その「何か」の正体がわからないのにふてくされて、親切にしてくれた相手に失礼な態度をとるなんて、礼儀知らずで、恩知らずだ。母さんがマーシュのこの有り様を知ったらがっかりするに違いない。
マーシュはいたたまれずに顔を逸らして、明後日の方向を向いた。その先に、大きな瞳を潤ませた女の子の可愛らしい顔がある。女の子はマーシュを押し退けるようにして、レイの足元に跪く。そして、つい先刻、マーシュが振り払ったレイの手をとった。その美しい手をおしいただいて、涙ながらに訴えた。
「あたしたち、何も悪いことなんかしていません! その娘は、あの人たちに言いがかりをつけられたあたしを庇ってくれたんです! あの人たち、あたしのこと泥棒だって決めつけて……あたしが旅芸人の一座の娘だからって! その娘が助けてくれなかったら、あたしは今頃……。 お願いです、信じてください!」
女の子は小さな両手で顔を覆って、わっとばかりに泣き崩れた。唯々諾々としてマーシュの指図に従って、マーシュの背に隠れて息を殺しているうちに、限界まではりつめた緊張の糸がふつりと切れてしまったらしい。
レイは躊躇い無く女の子の傍らに膝をついて、女の子を宥めにかかる。華奢な女の子は、レイの懐にすっぽりとおさまった。
これこそが「か弱い女の子」の正しい在り方だとマーシュは思う。そして、こんな感想を抱いた。
(わたしとは大違い)
女の子を蔑むつもりはないし、可愛い気のない自分を卑下するつもりもない。
レイに肩を抱かれてかちんこちんに体を強張らせて、ついには彼の手を振り払ってしまったマーシュと、レイの胸にすがりいて身を委ねる女の子を、同じ「女の子」とひとくくりにしてしまうことに、どうしようもなく違和感を覚える。ただそれだけのことだ。
マーシュは「か弱い女の子」ではない。とは言っても「強い女の子」でもないだろう。
窮地に立たされた女の子を助けるつもりだったのに、足元を掬われて自分が窮地に陥ってしまった。マーシュが情けない助っ人だから、女の子はこんなにも怯えているのだ。
マーシュが「強い女の子」だったなら、役立たずのマーシュを責めたり詰ったりしないで「庇ってくれた、助けてくれた」と言ってくれる気立ての良い女の子に怖い思いをさせたりしなかったのに。
クルスの言いなりになって、屈辱的なごっこ遊びを強いられたあの体たらくでは、女の子はきっと、マーシュなんかよりレイの方がずっと頼りになると思っただろう。「わたしもわたしなりに頑張ったんだ」なんて主張したところで、ますます惨めにるなだけだと、マーシュは自分に言い聞かせて奥歯を噛んだ。そうしなければ惨めになる。そうしなくても惨めだったけれど。
レイは泣きじゃくる女の子の背中を撫で擦りながら、やわらかくあたたかな声調で言った。
「信じるよ。僕は君達の味方だ。だからもう、心配しなくて良いんだよ」
「こっちの言い分には聞く耳もたねぇってのか?」
しらけ顔のクルスが千切って投げるように言う。侮蔑の眼差しに射られても、レイはたじろがない。
「弱きを助け強きを挫く、それこそ、真の男の極意だ」
毅然として言い返すレイを見下ろすクルスの端整な顔が、強い力でぐしゃりと握り潰されたかのように醜く歪む。マーシュには確かめようもないことだけれど、その瞬間、マーシュの表情はクルスのそれを鏡にうつしたかのようだった。
レイもそのことには気付かなかっただろう。レイの目はクルスではなく、マーシュでもなく、泣き腫らした大きな目でレイを見上げる女の子を見つめていたから。レイは女の子の涙を指先で拭うと、茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
「と言うのは建前で、本当は、可愛いらしい二人の女の子の味方をしたいだけだったりしてね」
マーシュは飛び上がって驚いた。思わず知らず、すっとんきょうな声を上げてしまう。
「なっ……あんた、なにを……!? 可愛いって、わたしが!? バカ言わないでよ! よくも、そんな……歯が浮くような台詞を……心にもないことを……!」
マーシュはおかしなほどに狼狽えた。顔から火が出る思いをしていた。
レイの言う「可愛らしい二人の女の子」とは、ひとりはもちろん、レイが慰めている真っ最中の可愛らしい女の子のこと。あともうひとりは、たぶん、きっと、恐らくは……マーシュのことだ……と、思う。
レイは火の玉のようになったマーシュの顔を食い入るように見つめて、小首を傾げた。
「君は可愛い女の子だ。どうして僕が嘘をつかなければならないんだい?」
心の底から不思議に思っているような口振りである。マーシュは言葉を失った。
陸に打ち上げられた魚のように、口をパクパクさせたけれど、言葉はひとつも出てこなかったし、そもそも、頭の中が真っ白になってしまって、言葉はひつとも見つからなかった。
マーシュは混乱していた。どうしよう、どうしよう、と心は落ち着きのない子兔のように跳び跳ねて右往左往するばかりだ。
(ちょっと待って、落ち着け、なんでもいいから落ち着け! レイに言わせれば、世界中の女の子は一人残らず「可愛い女の子」なんだってば! わたしが特別なわけじゃない、自惚れるんじゃない、このバカ!)
マーシュは浮き足立つ自分自身を叱咤する。そうしたらひっちゃかめっちゃかになった頭の片隅で「レイに「自惚れるな」ってせせら笑われなくて良かったね」と隅に追いやられた理性が囁いた。「そんなことになったらわたし、憤死しちゃったかもよ」と冗談めかして付け加える。
へどもどするマーシュの弛緩した口元から零れ落ちる、あ、だの、う、だの意味を為さない音の羅列を、クルスの刺々しい声が遮った。腑抜けに用はないと言わんばかりに、マーシュには一瞥もくれず、顰め面でレイを睨み付けている。
「なんだそりゃ……てめぇ、それでもブレンネンの男かよ」
「その言葉は、そっくりそのまま君へ返そう。君のような、未来のブレンネンを担う少年には……国王陛下が理想となさる、真のブレンネンの男の在り方を理解した上で、そうあるように心掛けて欲しいものだ」
国王陛下ときいて、マーシュは眉をひそめた。レイはお貴族様だから、よいしょよいしょと国王様を持ち上げるのだろう。そうするように教育されているのだろうから、仕方のないことなのだろう。それでも
「夢ばかり見ていないで現実を見たら?」
と憎まれ口を叩きたくなってしまう。
国王様がレイのような理想を掲げているのなら、ブレンネン王国の男たちは何故、母や姉や妹、妻や娘といった、彼らにとって大切である筈の女性を虐げて支配する非道を平然と為すのだろうか。
(レイは知らないのかな? レイの「父上」はレイの「母上」を大切に想っている? 父さんと母さんみたいな、想い合う夫婦なの?)
そうなのかもしれない。なぜなら、レイは本心から「弱い者に手を差し伸べる、優しく頼りになる男」を目指しているらしいから。レイの周りの大人たちは……少なくとも、レイが敬愛し目標とするような大人は……マーシュのよく知る「ブレンネンの男らしい男」ではなく、レイの語る理想の「ブレンネンの紳士」なのかもしれない。
(信じられないけど……そうでもなきゃ、こんな風にはならないんじゃないかな……)
マーシュはまんじりとレイを見つめる。レイは女の子の矮躯を抱えるように支えて立たせてやると、レイを凝視するマーシュを指で招いた。マーシュはぎくりとしてから、ふらふらと歩み寄る。レイから「彼女を頼むよ」と告げられ、女の子の身柄を託された。
いくら小さくて軽くても、脱力した体を預かるとなると、ぼうっとしてはいられない。ぴったりと身を寄せてくる女の子の背におずおずと手を回して支えてやった。その様子を見守ると、レイはにっこりして頷いた。
「そう、それで良い」
そう言いながら、レイは潤んだ瞳で彼を見つめる女の子の髪を優しく撫でた。マーシュは反射的に「偉そうな口を利かないでよ。あんた、何様のつもり?」と毒づきそうになった。
レイはお貴族様なので、偉そうにしていて当たり前だ。お貴族様はお偉いのだから。お貴族様の何がそんなに偉いのか、マーシュにわからないけれど。マーシュは俯いて掌で目許を覆う。汗をかいた掌がひんやりと冷たく感じる。マーシュは溜め息をついた。
(……わたし、なんでこんなにカリカリしてるんだろ。レイは……たいして知らないけど……物腰の柔らかい、穏やかなひとみたいだし……今のだって、そんなに感じの悪い物言いじゃなかった。小さなこどもを相手にしているみたいではあったけど……でも、だからって、こんなことでカチンとくるなんて、いくらなんでも怒りの沸点が低すぎるでしょうが)
自分自身を窘めてみても、一度、芽生えた反感は、ちょっとした拍子にむくむくと膨らんでしまう。
マーシュはなんとか堪えた。けれど、レイに対する負の感情を堪えきれなかった、もとい、堪えるつもりが毛頭ない奴が他にいた。クルスである。レイを無遠慮に指差して、これまでのレイの言動をひっくるめて鼻先で笑い飛ばした。
「さては、てめぇは、あれか。余所の国の御伽噺から抜け出した王子様か。わざわざ ご足労くださったのに悪いんだが、このブレンネンじゃ、てめぇみてぇなのはお呼びじゃねぇのよ。 悪いことは言わねぇ、とっとと絵本の世界に帰んな。さもなけりゃ、痛い目を見る羽目になるぜ 」
マーシュは吹き出しそうになった。目許を覆っていた掌を滑らせて口元までおろし、笑いを噛み殺す。お伽噺の王子様とは、言いえて妙かもしれないと思ったからである。次の瞬間には後悔したし、背後に従えたロダンとトッジに目配せして暴力の気配を滲ませて脅しをかけてくる、クルスの卑劣さに憤る。
レイは腕組みをして、小首を傾げた。唇をひん曲げて、眉根を寄せて、半目になっている。たいていの人間を不細工にしてしまうであろう表情も、レイの前では形無しだった。
うーん、と唸ってから、レイはぱっちりと目を開く。目許にかかる前髪を頭に撫で付けた。
「僕は幼い頃から武芸を習学してきた。日々の研鑽の蓄積に自負がある。僕と君が争ったとして、君になんら利するところがない。僕としても、力に飽かせて君を退けるの不本意だ。自身の非を認め、彼女に謝罪し、心を入れ換えてはくれないか? 」
レイは無邪気に、且つ、大真面目にそう言った。これには、クルスもその取り巻きたちも、白状するとマーシュも、呆気にとられた。取り巻きたちを振り返り、顔を見合わせたあと、クルスは腹を抱えて笑い出す。
「ははっ! なんだそりゃ! てめぇ、何様のつもりだ? 大口叩きやがって、後悔するぜ。俺ぁ、俺がてめぇと殴り合うなんざ、一言も言ってねぇからな? お宅の言う通り、俺は聡明だからよ! 適材適所ってのをわきまえてんのさ。ご自慢の武芸とやらで、デカブツ二人相手にどうやって立ち回るのか。見せてもらおうじゃねぇか」
「彼らが、三人がかりで?」
レイに視線を向けられると、ロダンは得たりやおうと頷き、トッジは臆面もなくやにさがる。キールだけはぎょっとして、それからそわそわと身じろぎした。端から喧嘩に加勢するつもりはなかったのだ。レイは知るよしもないけれど、いつものことである。
クルスはキールのことなんて、はじめから戦力に数えていないだろうけれど、そのことに敢えて言及することはなかった。今この場で優先されるのは、キールのような小者をいびりたおすことではないと弁えているのだ。
レイは目をぱちくりさせている。それを怯えととらえたのか、クルスは嘲りも露に言い放つ。
「なんだ、どうした? 怖じ気づいたか、ええ? 王子様よ」
ところが、レイはふるふると頭を振り、事も無げに応えた。
「僕は構わないよ。しかし、後ろの君達は、どうだ? 不服はないのかい?」
レイの問いかけには、俄これから殴り合いの喧嘩をする相手に対する気遣いが含まれている。どうやら、レイはロダンたちが「三人がかりでレイ一人を相手に喧嘩をする腰抜けの卑怯者」になってしまっては、ロダンたちの自尊心が傷付いたり、名誉が損なわれたりするのではないかと、心配しているらしい。
信じられない、と目を剥いたのはマーシュだけではなかった。キールも目を剥いている。クルスの白い顔に赤みがさして、みるみるうちに火のような怒りを顔いっぱいにみなぎらせた。