窮地に陥る
鞭打ち(革帯)の描写、流血(鼻血)の描写が御座います。苦手な方はご注意願います。
マーシュは一度として、臆病風にふかれて退散するなんて、恥ずかしい真似はしたことがない。どんなに痛くても辛くても、歯を食いしばって耐えてきた。勝負に負けても、散々にうちのめされても、惨めな負け犬にはならない。それがマーシュの誇りである。
多くの人がそうであるように、マーシュだって本当は、痛い目にあうのは嫌だし、恥をかくのも嫌だ。それでも、信念を貫き通したい。弱いものいじめは絶対に赦さないし、敵に後ろを見せない。クルスの薄笑いを透かして邪悪な謀りが透けて見えても、マーシュは逃げない……逃げられない。完全に固まってしまったマーシュの胸の内側では、心臓がめったうちに鼓動していた。
突然、クルスが立ちあがる。マーシュは息を止めてクルスを見上げた。背後の女の子も体をこわばらせているのがわかる。
クルスは足元に座り込むロダンの肩を小突き、彼を見上げるロダンの顔面にくしゃくしゃになったハンカチを被せた。ロダンは身を反らし、素っ頓狂な声を上げる。
「わっ! なに、なに? クルス?」
「ロダン、こいつはお前に預ける。あのマーシュがちょっとでもおかしな真似をしたら破り捨ててやれ。いいな、任せたぜ」
ロダンはこっくりと肯く。クルスはふんと鼻先で笑い、マーシュを見据えた。口元に皺を寄せて不敵な笑みを浮かべて、東屋の階段を降りる。じりじりと近づいて来る。クルスが舌なめずりをすると、背筋がすうっと冷たくなった。
まるで、猫の前の鼠になってしまったみたいだ。マーシュはクルスより強いのだから、本当ならマーシュが猫で、クルスがネズミなのに。女の子のハンカチという弱みを盾にとられてさえいなければ。マーシュは歯ぎしりしつつ、ハンカチを握るロダンを憎々しい目つきで見る。
ロダンは芋虫のような指でハンカチを摘まみ上げると、ハンカチを引き伸ばして頭上に掲げて、繁々と見つめた。マーシュは肝を冷やしてロダンを怒鳴りつける。
「おい、こら! 汚い手で弄り回すんじゃない!」
ロダンはきょとんとした。右手と左手の、掌と手の甲を交互に見比べる。不思議そうに小首を傾げた。「僕の手は綺麗だよ?」とクルスに顔を向けて言うけれど、爪の先には黒い汚れがこびりついている。「あんたの目は節穴!?」とマーシュが怒鳴っても、ロダンは小首を傾げるだけだ。
白いハンカチには、黒い染みが点々としている。あんな不格好な模様は無い。きっと、ロダンの手についていた汚れが、ハンカチにもついてしまったのだろう。
マーシュは苛々して、足を踏み鳴らす。ロダンの間抜けに言ったところで、埒が明かない。トッジをさがらせて一番前に立ったクルスに噛みつく。
「いい、クルス? もし、ロダンがあの馬鹿力でぐいぐいやって、ハンカチを引き千切るようなことになったら、絶対に承知しないんだからね! 早く取りあげ……」
マーシュの言葉が終らないうちに、クルスが笑った。高飛車に、憐憫の情さえ含めながら、冷やかに見下ろすクルスの眼差しに晒されて、気色ばんだ言葉尻が宙に浮く。
的外れな発言がクルスの失笑を買ったのだと察して、マーシュは耳まで真っ赤になった。
頭に血がのぼり、思っていたそのままの言葉が口をついて出てしまった。頭を冷やして考えれば、ハンカチを丁寧に扱うことをクルスに求めるなんてことは、お門違いも甚だしい。この状況で、クルスがマーシュの要求をのんだなら、鳥は海に入って貝になるだろう。つまり、ありえない。
クルスはマーシュの要求を黙殺して、右手を差し出した。不意をつかれて、マーシュは面食らう。
(んん? なに、この手は? 握手? 握手するの? わたしとクルスが? 今ここで?)
もしそうなら「まっぴらごめんだね」と言い捨てて、差し出された手を叩き落としたいところだけれど。
(……そんなバカな)
マーシュとクルスが握手する、なんて。クルスだって「まっぴらごめん」だろう。クルスは優位に立っているのだから、そんな、捨て身の嫌がらせをしたりしない筈だ。そもそも自分の喧嘩を弟に丸投げする卑怯者に「皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断つ」という発想は無いに決まっている。
マーシュはクルスの顔と右手を見比べる。そのどちらか、或いは両方を熱心に見つめることで、クルスの魂胆を炙り出せたら良いのに。わからないということが、徒に不安を煽る。
クルスはたぶん、マーシュの不安を感じ取っているだろう。下品な嗅覚を具えた奴である。だから、こうしてもったいぶる。マーシュは腕を組んだり、爪先をせわしなく動かしたりして落ち着きなくクルスが話を切り出すのを待った。クルスはそんなマーシュを、上から下までじっくりと眺め回す。それから、顎をちょっと引いて、唇を曲げた。
「革帯を外せ」
そう言ったクルスの眼はネズミを襲う猫の眼のようだった。クルスは、マーシュの腰を指差している。
エプロンの肩紐を背中で交差させて腰で結んであるから、革帯を外しても、頭からすっぽり被る筒型のワンピースが頭まで捲れ上がる心配はしなくて良いと思う。革帯でしっかり固定されていないと、ちょっと心許ないけれど、革帯を外すこと自体は問題ではない筈だ。
でも、革帯を外して、それで済むと思うほど、マーシュは楽天家ではない。だって、クルスは『後悔させてやる』と言ったのだ。
(まさか、こいつ、わたしを素っ裸にして、恥をかかせようとしている……!?)
マーシュの喉はひっ、とごく小さな音をたてて息を吸い込む。
絶対に嫌だ! とマーシュは心の中で叫んだ。人前で裸になるなんて……母さんに見せるのも嫌で嫌で堪らなかった、不恰好に膨らみ始めた胸を、こんな悪党どもの好機の目に晒されるなんて……絶対に嫌だ。そんな辱しめには耐えられない。死んだほうがましだ。
ロダンに握られたハンカチがマーシュの所有物だったなら、それが大切な物でも、マーシュは涙をのんで諦めただろう。だけど、あれはマーシュの物ではなくて、後ろの女の子の物だ。マーシュには諦められない。だけど、裸にはなれない。無理という言葉はあまり使いたくないけれど、こればかりは絶対に無理だ
(クルスを人質にとる? クルスを返して欲しかったらハンカチを返せって、交渉してみる? クルスは『俺はいいからハンカチを破れ!』なんて啖呵を切るような、気骨のある奴じゃないから、きっとうまくいく。でも、わたしがクルスに飛びかかってクルスを捕まえるより、ロダンがハンカチをびりびりに破く方がはやい。トッジの奴もいる。どうしよう……どうすれば良い!?)
不安と混乱の嵐に揉みくちゃにされながら、マーシュは目を白黒させて立ち尽くす。クルスは目をぱちくりさせた。小首をかしげて何か考えていたかと思えば、腹を抱えて笑いだす。
「おいおい、マーシュお前、何を勘違いしてやがる! 俺はお前に、裸になれとは一言も言ってねぇぞ! 革帯を外して、俺に寄こせって言ってんだ。お前の裸なんぞ、そんな気色悪ぃもん、誰が見たがるってんだ! なぁ、お前らもそう思うよな?」
クルスが振り返り、悪友たちに同意を求める。トッジとキールは顔を見合わせて、吹き出した。仲間たちにつられてロダンも笑いだす。悪意に満ちた爆笑がマーシュを打ちのめした。恥ずかしいし、惨めだ。マーシュは自分自身のことがあまり好きでは無いけれど、人並みの自尊心というものを持ち合わせている。それに音を立てて罅が入った。顔から火が出る思いがする。穴があったら入りたい。
(いや、ちがう。そうじゃない。穴があったら、この悪党どもを蹴り落として埋めてやるんだ)
心のなかで息巻いて『強気なマーシュ』を立て直そうとする。それだけでは不足だったから、マーシュは留金を外した革帯を、クルスの足元に力一杯投げつけた。クルスを見下ろして、言い放つ。
「そりゃそうだ。男なら、可愛い女の子の裸が見たいでしょうよ。クルス、あんたが裸になれば、お仲間たちはきっと喜ぶね。特にトッジなんか、大喜びして鼻血を出すかもよ」
クルスの眉間に、嵐の前の稲妻のように怒りが閃く。ほんのちょっぴり、胸がすっとする。トッジは額に青筋を張らせて何か怒鳴っているけれど、聞き取れないので聞き流す。どうせ、たいしたことは言っていない。クルスが「トッジ、うるせぇ」と言ったら黙った。
クルスは身を屈めて、足元に落ちたマーシュの革帯を拾う。留金のある方を右手にくるりと巻き付けて長さを調整すると、もう片方の端を左手で掴み、肩幅に広ければ両手の間でぴんと張る。揺り返す革帯を凝視しながら、マーシュは訝しむ。クルスは何をしようというのか。
クルスな左手を放すと、だらりと垂れた革帯を何度か軽く打ち振るった。革帯の先端が空を切るヒュンヒュンという音が、静まり返った東屋の周りに、異様に大きく響いた。
前後にひらいた足を踏ん張り、クルスは革帯を振り上げる。マーシュの顔面を目掛けて、強く振り下ろした。
鞭打ちだ。革帯は鞭の代わりになるのだ。鞭打ちされる経験が無かったマーシュには、革帯でひとを打つなんて思いもよらないことだったから、反応が遅れた。
革帯がマーシュを打ち据える瞬間、マーシュは反射的に固く目を瞑った。背後で女の子が小さく悲鳴をあげる。
額から鼻梁にかけて、鈍い疼きがはしったと思ったら、次の瞬間、脳天を揺さぶる衝撃に襲われる。痛みと痺れが暴れまわり、無数の針のように突き立てられていた。鼻の奥が燃え滾るように熱い。
俯けば、なんとも言い難い嫌な感覚を伴って、鼻孔から溢れた血がたらりと垂れて滴り落ちる。
革帯で打ち据えられた。よりにもよって、顔を。恐る恐る鼻をつまんでみる。痛みのあまり、飛び上がってしまった。摘まんだ感触からすると、鼻梁は真っ直ぐで、折れてはいないようだったから、一安心ではあるれど。
(ちくしょう、やりやがったな、クルスの野郎!)
マーシュは昂然と顔をあげてクルスを睨み付ける。マーシュの険相を見て、クルスはぎょっとしたようだ。顔がひきつっているし、及び腰になっている。クルスは言った。
「うおっ……なんだよ、汚ねぇな。打たれ強さだけが、お前の取り得だろうが。鼻っ柱くらい鍛えとけ」
マーシュはぐっと奥歯を噛んだ。女の子のハンカチがロダンの手の内に無ければ、クルスの傲慢な鼻柱を圧し折ってやるのに。そして、今のクルスの言葉をそっくりそのまま、お返ししてやるのだ。そうでもしなければ、腹の虫がおさまらない。
一触即発の危機と隣り合わせで火花を散らす眼と眼。クルスは革帯で左の掌を軽く叩きながら、思いっきり顔をしかめた。
「なんだ、その面は。男をなめくさりやがって、生意気な女だぜ。カラバの野郎は、養女ひとりまともに躾られねぇ抜け作だ。ブレンネンの男の風上にも置けやしねぇ。甘やかされた女は獣も同然。獣には鞭をくれてやる。四つん這いになれ」
一瞬、意味がよく分からなかった。父さんをバカにされたことを怒る前に、もう一度、聞き直そうかと思ったくらいだ。数秒たって「ええっ」とマーシュは声を上げた。クルスの要求は、まったく常軌を逸していた。
(わたしに、獣みたいに四つん這いなれって? 四つん這いになったわたしを、革帯の鞭で打つって?)
「……そういう冗談は悪趣味だ」
マーシュは抑揚なく言い、クルスの出方をうかがう。クルスはにやにやした。
(こいつ、本気だ……信じられない! 正気!?)
後ろの女の子も、マーシュと同じ考えだった。女の子はおずおずと前に進み出ると、マーシュの腕に遠慮がちに触れた。うるうるとした大きな瞳が、上目遣いにマーシュを見上げる。
「あの……迷惑かけちゃって、ごめんなさい。もういい、もういいです。あなたにそこまでさせられない。もういいから、行きましょう?」
「あんたは引っ込んでいて」
マーシュは女の子に一瞥もくれずに言い放ち、女の子の肩を押してさがらせた。
わたしに任せて、とか、大丈夫だから心配しないで、とか。他にもっと言いようがあるだろうに、つっけんどんな物言いしか出来ない自分にはうんざりするし、がっかりする。だけど、後悔する暇も反省する余裕も、今はない。クルスの関心が女の子の方に向いたら厄介だ。愚図愚図していられない。
断崖から銀の水海に身を投げる思いで、マーシュは地面に膝をつく。後ろでは女の子が息をのみ、前ではクルスが含み笑う。マーシュは地面を見つめて、それから、自分の両手を見つめた。意を決して、掌を地面について四つん這いになった。
クルスの悪友たちがどっとわく。
トッジは「良い格好だな! お似合いだぜ、マーシュ!」囃し立て、キールは「うわっ、本当に這いつくばった! そうしていると、まるで豚だな! なぁ、クルス。豚の真似をさせてみろよ」と野次を飛ばした。
マーシュは項垂れた。次から次へと飛び出しそうになる罵詈雑言の数々を噛み殺すことに集中する。そうしていないと、口汚く罵るついでに殴りかかってしまいかねない。
トッジとキールに言いたい放題言わせてから、クルスはひょいと肩を竦めた。
「いいや。豚じゃねぇだろ。こいつは馬だ。暴れ馬ってやつよ。いいか、お前ら、手を出すんじゃねぇぞ。俺が良いって言うまでは、そこで見てろ。俺が乗りこなしてやる」
そう言って、クルスはマーシュの右隣に回り込む。何をするかと思えば、マーシュの背にどかりと腰かけた。遠慮も躊躇いもなかった。背にクルスの尻が乗っている。馬のように扱われている。
マーシュは屈辱と羞恥を平手打ちのように感じた。けれど、暴れて振り落とす訳にはいかない。今は大人しくして、クルスの言いなりになって、クルスが油断したときには、目にもの見せてやる。しかし、やられっぱなしは悔しい。マーシュは無理をして口角をあげた。
「あれれ? いつの間に乗っかっていたの? 小さな女の子みたいに軽いから、気付かなかったよ。お上品な女乗りがよくお似合いで」
「ほざいていろ。今のうちに」
クルスの冷ややかな声が頭上から降ってくる。次いで、ヒュンという鋭い音がした直後、革帯がマーシュの尻をとらえ、派手な打音と衝撃が弾けた。
顔面を打たれるのと比べたら、毛織物の布地越しに尻を打たれるくらい、へっちゃらだ。だけど、苦痛が軽くなったからといって、屈辱が少なくなるわけではなくて。真っ赤に染まる顔を隠そうとして俯くと、クルスの手がにゅっと伸びてくる。その手がマーシュの前髪……正確に言うなら、マーシュが被っている鬘の前髪……を鷲掴みにして、引っ張りあげる。
鬘はピンでしっかりと地毛に留めてあるけれど、乱暴にされると外れてしまう。マーシュは仕方なく、クルスに従って顎をあげた。マーシュを従えたと得意げなクルスの逆さまの嘲笑が、マーシュの視界に入りこむ。マーシュは目を丸くした。
「横乗りした方が、お前の尻を叩きやすいだろうが。そんなこともわからねぇのか、間抜けが。……口で何を言ったところで、獣には通じねぇか。人間様への尊敬と畏怖の念を、鞭の味ともども、そのでかい図体に叩き込んでやるから覚悟しろ」
マーシュの心臓が跳ねた。クルスの無情な宣告に恐れを成したから、ではない。マーシュはクルスの脅し文句なんか聞いていなかった。マーシュは、機嫌良く笑うクルスの首根っこをつかまえた大きな手に心を奪われていた。その、完璧な造形美には見覚えがある。顔を見るまでもなく、彼だとわかった。
彼は、子猫にするように軽々とクルスをつまみ上げると、ギャアギャア喚くクルスを手に提げたまま三歩歩いて、唖然とするトッジの前にぽいっと放る。トッジは蛇に睨まれた蛙のように動けない。
尻餅をついて悶絶するクルスを見下ろす彼の横顔は、相変わらず整っている。美しいという表現さえ追い付けない美貌だ。血塗れの鉤爪に人を捕らえる人喰いに思わせるほどの殺気走った表情は、とても恐ろしいのに、魅入ってしまう。
クルスを睨み付ける彼の瞳は、紅蓮の炎を燃やしている。
「恥を知れ、卑怯者!」
彼が一喝すると、何か言おうとして口を開いたクルスが、口を閉ざした。真っ青になってがたがたと震えだす。まるで、彼の言葉が魔法の呪文で、体を支える骨を丸ごと取り除いてしまったかのように。
彼はくるりと足を踏み変えて、振り返る。顔面蒼白のクルスだけではなく、トッジとキール、マーシュをも戦かせていた怒気は、マーシュと向き合うと、嘘みたいに消えてなくなった。
彼はマーシュの傍らに跪くと、マーシュの肩を優しく抱いた。彼に促されるままに、上体をおこす。マーシュの顔をまじまじと見つめると、彼は眉を潜め睫毛を伏せた。
「かわいそうに。傷むだろう? ……酷いことをするものだ」
鼻血を出したマーシュを気の毒に思ってくれているらしい。それはわかるのだけれど、この至近距離で、彼の憂い顔を見せられるのは心臓に悪い。なんだかわからないけれど恥ずかしくて、目のやり場に困ってしまう。
きょどきょどと視線を彷徨わせるマーシュを訝しむことなく……胡乱な奴だと思っていたとしても、それをおくびにもださず……彼はふんわりと柔らかな微笑みを浮かべ、胸ポケットから引き抜いたハンカチを差し出した。今朝、彼がそうしたように。
マーシュがまごまごして受けとれずにいると、彼はマーシュが遠慮していると思ったようだ。小首を傾げて、にっこりする。
「これをどうぞ。遠慮は要らない。用が済んだら、捨ててしまって構わないから」
そう言って、彼はマーシュにハンカチを握らせる。マーシュは、彼……レイから二枚目のハンカチを受け取った。