マーシュの朝2
一段飛ばしに階段を駆け上がる。台所と食堂が三階にあるなんて不便だと、つくづくそう思う。
ブレンネン王都に建つ家はどれも、最上階がお祈り室、その下の階は食堂と台所、さらに下の階は寝室と居間、一階は物置、という構造になっている。神様がおいでになる空に近い上階ほど神聖な場所として、地面に近ければ近いほど不浄な場所とする、しきたりに則るためである。
だけど、やっぱり、不便なものは不便だ。
もし、台所と食堂が一階にあったなら。食材や燃料を運び入れるのも、水汲みに行くのも、楽になるのだから。
(冷たい水を汲んで、重くなった水桶を抱えて、三階まで階段を上って。大変な仕事だ。母さんにはさせられない)
母さんが倒れる前に気が付けて良かったと、マーシュは胸を撫で下ろす。
昨日の朝のことだ。たまたま早くに目が覚めて、格子窓の隙間からぼんやりと外を眺めていると、母さんが大きな水桶を抱えて歩いているのを目撃した。驚愕したマーシュは、矢も盾もたまらず階段を駆け下りて、外に飛び出して行って、母さんから水桶を奪いとった。
『母さんは、もう、水汲みに行かなくて良い。これからは、わたしがやるから』
昼前の水汲みと、夕暮れの水汲みは、マーシュの仕事である。それで必要な水は全て賄えると思い込んでいた。朝食を拵える為にも水は必要だということも、宵越しの水が飲み水には適さないことも、マーシュは知っていたけれど、そこまで気が回らなかった。
(母さんも、教えてくれたら良かったのに)
不甲斐ない自分のことは棚に上げて、遠慮する母さんの余所余所しさを恨めしく思ってしまう。そんな自分が嫌で嫌で堪らない。自己嫌悪に苦しめられるマーシュは、水桶の縁を握りしめたまま俯いていた。水面にうつる顰め面を覗きこみ、母さんは苦笑して言った。
『気持ちは嬉しいけれど、あなたは母さんを心配しすぎるわ。母さんはとても元気よ。そうは見えないかもしれないけれど、母さんの身体はとても強いの。怪我をすることも、病気にも罹ることもないんだから。……まぁ、マーシュ。その目はなぁに? 嘘じゃないのよ、本当よ?』
宥めにかかる母さんの言葉を黙殺しつつ、マーシュは唇を噛んだ。
幼い娘に心配をかけたくない、という配慮なのだろうけれど、マーシュはもう十歳になった。こども騙しで誤魔化せると思ったら大間違いだ。
大切にして貰うことを喜ぶより、頼って貰えないことが切ない。マーシュが我が儘だから、そのように感じるのだろうか。マーシュは落ち込んだ。
それが、昨日の朝の出来ごとだ。
そんなやりとりをするのは、昨日が初めてのことではない。マーシュは母さんを心配するけれど、母さんは母さんのことを心配する必要はないと言う。
それを言うなら、母さんはまず、青褪めた頬を薔薇色に染めて、氷のように冷たい指先まであたたかな血を通わせなければいけない。それから、たくさん食べて、いつも元気溌剌していてくれないと困る。ちょっと目を離した隙に、倒れてしまいそうだなんて、思わせないで欲しい。そうでないと、マーシュは不安を拭えない。母さんが何を言っても、強がりにしか聞こえない。
「お前の養母は屍人だ」と嘲った、意地の悪い男の子達を、信じるわけではないけれど。
マーシュは、母さんに無理をさせたくないのだ。息も凍える寒空の下、いつもひんやりと冷たいあの白い手で、薄氷の張る水を汲むなんてことも。何かの拍子にぽっきりと折れてしまいそうな華奢な身体で、たっぷりと水を湛えた水桶を抱えて、井戸と台所を往復するなんてことも。
だから、家事のうちの肉体労働は、マーシュが請け合う。しばしば体調を崩して寝込んでしまう母さんと違って、マーシュは健康で風邪をひいて寝込んだこともない。極端に食が細い母さんとは違って、マーシュは……偏食ではあるけれど……食欲旺盛だから体力がある。さらに言えば、同じ年頃の男の子達よりもずっと力持ちだ。水汲みなんて、ちっとも苦にならない。母さんに無理をさせる方が、よっぽど、心苦しいのだ。
昨日の朝、これからは毎朝、母さんと一緒に早起きして水汲みに行くと、マーシュは宣言した。
それなのに、初日から寝過ごしそうになって、父さんに……よりによって、あの父さんに……起こして貰うなんて、一生の不覚である。大見得を切って始めた癖にこの体たらく。物凄く決まりが悪いので、出来ることなら、母さんには知られたくないのだけれど、父さんが黙っていてくれるとは考えにくい。
だって、あの父さんだ。マーシュに意地悪したり、マーシュをからかったりすることが、父さんの趣味なのだ。もっとマシな趣味を見つけて欲しいものだけれど、父さんには、いくら言ったところで、無駄だろう。
三階に到着したので、あれこれと思いを巡らせるのは、いったん止めにする。マーシュは台所と食堂に続く扉を開いた。
母さんは台所に立っていた。朝食の為に鶏を裁いているところだ。思った通り、きちんと身支度を整えていた。毛先が肩にかかる程度の長さの亜麻色の髪を、器用に纏めて、お団子にしている。小さな兎の尻尾みたいで可愛い。口には出せないけれど、そう思っている。
兎の尻尾がぴょこぴょこ跳ねる度、マーシュの心はちくちくと痛むのだけれど。
マーシュが台所に入って扉をしめたところで、兎の尻尾をぴょんと跳ねさせて、母さんが振り返る。母さんが笑うと、おひさまが雲間から顔を出したように、薄暗い台所がぱっと明るくなった。
「おはよう、マーシュ。今朝も早起きね」
マーシュはこっくりと肯いた。母さんの傍を通り過ぎて、大きな水甕の隣に置かれた水桶を手にとる。踵を返そうとすると、母さんに呼びとめられた。
「お水を汲みに行ってくれるの?」
歩みを止めて、こっくりと肯く。すると、母さんは濡れ布巾で拭いた手を胸の前で合わせて喜んだ。
「まぁ、マーシュ。あなたは本当に優しい子ね。父さんにそっくり。うふふ、ありがとう」
マーシュは目を逸らす。たいしたことはしていないのに、母さんの喜びようはいちいち大げさだから、照れくさいし、後ろめたい気持ちになって、落ち着かない。
帽子の庇を引き下げて目許を隠す仕草が、マーシュの照れ隠しだとわかっているから、母さんは微笑ましいと言わんばかりに、にこにこしていて、マーシュはさらにいたたまれなくなる。
「……行ってきます」
母さんの顔を見ずにぶっきらぼうな挨拶をして、さっさと行ってしまうことにする。すると、母さんが慌てた様子で追いかけてきた。
「待って、待って。ダメよ、そのまま、行っちゃダメ。お髪を梳って、編んであげるから。お出掛けはそれからよ」
「あとでいい。帽子を被ってるから」
「ダメ。さぁ、先に二階に降りて、待っていて頂戴。今日はどのリボンを飾りましょうか。今日の衣装に合わせた紺色にする? それとも、明るい山吹色がいいかしら。薄紅色も華やかで素敵ね」
「水汲みに行くだけだよ」
「マーシュ」
母さんはマーシュの前に立ちはだかると、マーシュの肩にぽんと手を置いて、にっこりした。有無を言わせない微笑みが『母さんがダメと言ったら、絶対にダメよ』と断言している。
こうなったら母さんは、マーシュはもちろん、父さんも……マーシュと母さんをからかうことが趣味だと言い切る父さんさえ……逆らえない。
マーシュは溜息をつくと、母さんに従って二階の居間に移動した。
居間で待っていると、少し経ってから、母さんが二階に降りて来た。寝室に置いてある、化粧箱とブラシを携えて来た母さんは、居間に入るなり、少し厳しい口調で言った。
「マーシュ。あなた、また、蓋を開けっ放しにしたでしょう」
火を熾した暖炉の前に引っ張って来た椅子に腰かけて、足をぶらぶらさせながら、マーシュはとりとめのない口調でまぜっかえした。
「蓋を閉めたら、窒息しそうじゃない?」
優しげな曲線を描く母さんの眉が跳ね上がる。あっ、これはまずい。と思ったときにはもう手遅れだ。
母さんはマーシュの頭の上から取りあげた帽子を、マーシュの膝の上に落とす。鬘も同じようにして、帽子の上に落とす。そうして、母さんは男の子のように、短く切り揃えたマーシュの髪をブラシで梳かし始めた。ブラシを頭に叩きつけるようにして、梳かす。マーシュは肩を竦めた。母さんの声が頭の上から降って来る。
「マーシュ、いいこと? 色とりどりのリボンや髪飾りは、父さんが真心をこめてくれた、大切な贈り物。母さんの宝物なの。母さんの物は、あなたの物でもあるけれど、だからって、いい加減な気持ちで扱って欲しくないわ。大切にして欲しいの。使ったら忘れずに箱に戻して、きちんと蓋を閉めて、ちゃんと鍵をかけておくこと。大切なものは、失くしてしまわないように、しまっておくものよ。わかった?」
マーシュは肯いた。リボンや髪飾りは、マーシュとは違って、暗くて狭いところに閉じ込められても窒息しない。化粧箱の蓋を開けっ放しにする理由なんてない。単に、昨晩のマーシュが蓋を閉め忘れただけのことだ。
素直に謝ってしまえば良いのに、余計なことを言って、話し相手の神経を逆撫でしてしまう。父さん譲りの……いや、父さんに倣ううちに身に付いた、悪い癖だ。
「わたしは懲りないな」とマーシュは苦々しい気持ちでひとりごちる。この前、母さんお気に入りの葡萄色のリボンを失くして、こっぴどく叱られたばかりだったのに。
マーシュがしょんぼりすると、母さんはすぐに赦してくれた。マーシュが心から反省しているか、それとも口先だけなのか、母さんにはわかるらしい。マーシュの髪を丁寧に梳かす母さんは、すっかり機嫌をなおしていた。
「あなたのお髪は素晴らしいわ。お空に架かるお月様の光を紡いだかのよう。素敵ね」
いつものようにそう言って、母さんはマーシュの正面に回り込む。マーシュの膝の上に落ちた鬘を拾い上げ、マーシュの頭に被せた。そうして、マーシュの顔をまんじりと見つめてから、優しく微笑んで、マーシュの頭を胸に抱き寄せた。
「ごめんね、マーシュ。痛かったね。母さん、やりすぎたわ。ごめんなさい。母さんの一番の宝物は、あなたとあなたの父さんよ。掛け替えの無い宝物。母さんはあなた達のことが、誰よりも何よりも、大切なの」
マーシュの頭を優しく撫でて、母さんはマーシュに鬘を被せた。マーシュの髪と鬘をピンで留める作業に集中する母さんの、真剣な、それでいて楽しそうな表情を、マーシュはぼんやりと見上げる。
叱られることは珍しくない。母さんはマーシュを特別に厳しく躾たという訳ではないけれど、マーシュのお転婆な振る舞いが目に余れば、お仕置きをすることもある。たいていの場合、マーシュが悪いのだけれど、母さんはいつだって、マーシュよりもしょんぼりして、マーシュをぎゅっと抱きしめる。
とどのつまり、母さんはマーシュと父さんに甘いのだ。何よりも誰よりも、マーシュと父さんを大切に想ってくれるから。
母さんはマーシュの髪を褒めてくれるけれど、マーシュは自分の髪が嫌いだ。毛染め薬でも染まらない輝きは、厄介を通り越して忌々しい。この髪の所為で、母さんと父さんに余計な心労をかけていることを、マーシュは知っている。マーシュの髪が外の誰かの目に触れたら、マーシュだけではなくて、父さんも母さんも『涜神の罪』に問われてしまうだろう。
母さんは、自前の髪を人前に晒せないマーシュの為に、自慢の髪をばっさりと裁ち切って、鬘を拵えてくれた。髪は女の命であるとされているにも関わらず。ブレンネンの女たちは誰もが皆、長く伸ばした髪の手入れを欠かさない。豊かな輝きは女の誇りになるのだ。
マーシュはその手の事柄に関心を寄せていないけれど、母さんはマーシュが髪を伸ばせないことにひどく心を痛めている。
マーシュが女の子として、恥ずかしい思いをしないように心を砕いて、鬘を拵えてくれた。その所為で、母さんの髪は肩に届く程度の長さしかなくなってしまった。
髪は時間が経てば伸びるものだけれど、母さんの髪は伸びない。身体が弱いことと、なにか関係があるのかもしれない。理由はわからなくても、マーシュの小さな胸は、母さんに申し訳ないという気持ちでいっぱいになって、張り裂けそうになる。
鬘をピンで固定し終えて、鬘を梳かし始めた母さんが、マーシュの視線に気が付いて、小首を傾げる。マーシュは母さんの瞳を真っ直ぐに見つめて、囁くような小さな声で言った。
「母さんの瞳が、お月さまだよ」
言えた。お月さまより綺麗だよ、とは言えなかったけれど。
母さんは、口下手なマーシュに出来る限りの賛辞を、ちゃんと受け止めてくれた。白銀の双眸を潤ませて、母さんはマーシュを抱き締めてくれた。
母さんの瞳は月よりも綺麗だ。母さんは夜空に君臨する月の女王よりも優しい。母さんは綺麗で、優しいひとだ。マーシュのような娘を、慈しみ育ててくれた。それを言うなら、父さんもそうだけれど。母さんと父さんには、いくら感謝しても足りない。
「ありがとう、マーシュ。あなたは、父さんにそっくりよ。母さんね、とても幸せ」
愛情に満ち溢れた母さんが紡ぎ出す優しい嘘が、マーシュの心の脆い部分に突き刺さる。
似ていない。ずっと前から、探してきたけれど、見つけられなかった。父さんとも、母さんとも、似ているところなんて、一つもなかった。
当然だろう。だってマーシュは、父さんと母さんの、本当の娘ではないのだから。