マーシュの朝1
戸が閉まる音で、マーシュは目を覚ました。
(母さん、もう起きた?)
確かめようとして、手を伸ばす。
母さんとマーシュと父さん、家族三人の寝台はぴったりくっついて並んでいて、寝室を独り占めにする大きな寝台のようになっている。だから、こうしてごそごそまさぐれば、母さんが隣で眠っているのかいないのか、すぐにわかる。
母さんはいなかった。既に起床したようだ。
ぎぃ、ぎぃ、と階段の軋む音が微かに聞こえる。そろりそろりと足音をしのばせて、階段を上って行く。
(きっと、母さんだ)
三階には台所と食堂がある。何をするにもきちんとしている母さんのことだから、寝乱れた髪を梳かして着替えを済ませて、背筋をぴんと伸ばして、朝の支度にとりかかることだろう。
(だから、ぼんやりしている暇はない。起きて。母さんが先に行っちゃう。早く、急いで)
マーシュは自分自身を急き立てる。ところが、瞼が膠でくっついたようで、目を開けていられない。うんうんと唸りながら寝がえりをうつ。小さな格子窓の方へと顔を向けても、未明の空は薄暗い。陽が昇ったとして、細切れにされた陽の光には、覚醒を促すだけの力強さがないけれど。
家の中はいつも薄暗い。窓は小さくて、しかも、細目格子が嵌められているから。マーシュの家だけが特別なのではない。犇めき合うようにして建ち並ぶすべての家々がそういう造りになっている。
父さんは言う。
『夜になると、腹を空かせた人喰いが、お前みたいに旨そうなガキを求めてさまよい歩く。ガキを見つけたら、家の窓から手を入れて、攫って行くのさ。頭から腹まで噛み裂いて、ぺろりと平らげる。だから、この辺りじゃ家の窓に頑丈な格子を嵌めるんだ。ガキが人喰いに攫われないようにな』
父さんが、初めてこの話をマーシュに聞かせたのは、マーシュが幼い頃のこと。物心ついて間もない頃だったと思う。
その日の夜は怖くて眠れなかったし、それからしばらくは悪夢に魘される夜が続いた。
十歳になった今では、母さんに抱いていて貰わないと怖くて眠れないなんて、情けないことは言わない。だけど、時々、夢に見る。格子が取り払われた大きな窓と、そこから入って来る人喰いの腕を。
夢の中のマーシュは父さんの『冗談』を真に受けて、泣きながら逃げ惑っているけれど、現実のマーシュは知っている。人喰いは暗い森に棲むもので、人里にはおりて来ない。万が一、人里に迷い込むようなことがあっても、お城の兵隊さんや、父さんみたいな狩人がすぐに退治してくれる。
父さんは意地悪だから、マーシュを怖がらせて面白がることがしょっちゅうあった。王都の外のことを教えてと強請れば、暗い森に棲む人喰いの獣がどんなに凶暴で恐ろしいのか話して聞かせたし、夜の寝台で物語を聞かせてと強請れば、大獅子と天使の悲劇……残酷な場面があって怖かったし、誰も幸せになれないで終わるから嫌だった……を語った。
窓に格子を取り付ける本当の理由は『外の目から、外の手から、財産を守る為』だ。その財産には、貨幣や食糧や家財道具、宝飾品の他に、その家の妻と娘も含まれる。
強欲な盗人にそれらの財産を奪われないよう、家の窓は小さく、頑丈な格子を取り付けるのだ。
小さな格子窓が、マーシュは嫌いだ。窮屈で息が詰まる。だけど、無くてはならないものだと、理解している。この家にいる女が、のっぽで、目つきが悪ければ口も悪くて、乱暴者で、女を辞めたようなマーシュだけだったら、こんな格子は邪魔なだけだろう。でも、この家には母さんがいる。若々しくて、いつもにこにこ笑顔の、美人の母さん。母さんを邪悪な男の魔の手から守る為に、この格子は必要なのだ。
それに、格子がなくたって窓が大きくたって、マーシュがすっきりと目覚められるとは限らない。
マーシュは寝起きが悪い。もしも、マーシュが余所の子だったら、毎日、父親に鞭で打たれていたに決まっている。
ブレンネンの女達は朝日が昇るより早く起床する。男達が起床するまでに、朝の支度をすっかり整えておかなければならないから。男はちょっとしたことでも腹を立て、女を打つのだ。
『誇りあるブレンネンの男なら、女には甘い顔は見せない』を合言葉にして、男達は女達を虐げる。それがブレンネンの常識だ。そんな常識にとらわれない食み出し者を、マーシュは父さん以外に知らない。
マーシュはこの家の子だから、生まれてから今日まで、鞭で打たれたことは一度もないけれど、きっと、すごく痛いだろう。どんなに痛くて堪らなくたって、マーシュは泣かないのだけれど。
今よりもっと小さい頃は、男の子達に一方的に殴られて蹴られて、ずたずたのぼろぼろにされたこともあったけれど、それでも、惨めったらしく、めそめそ泣いたりはしなかった。
マーシュは男の子達に「生意気な娘」だと目をつけられているから、しばしば、因縁をつけられる。売られた喧嘩は買う主義だから、殴り合いになることもある。余所の家の子だったら「女の子が殴り合いの喧嘩をするなんて、とんでもない」と叱られて、うんと厳しいお仕置きをされるに違いない。
ところが、マーシュの家は違った。父さんは、弱虫も負け犬も嫌いだ。マーシュが苛められて逃げ帰って来て、そのまま泣き寝入りなんかしたら、がっかりするだろう。
父さんは、マーシュが男の子達と喧嘩をしたと知ったら、まず『それで、どっちだ?』と訊ねてくる。勝ったと言えばにやりと笑って『流石は俺の娘だぜ』と褒めるし、負けたと言えば目を眇めて『もちろん、やられっぱなしじゃねぇだろうな』と発破をかける。
マーシュの負けん気の強さは『弱虫も負け犬も嫌いだ』と言って憚らない父さん譲りだと、母さんは笑う。けれど、そう言う母さんも、ブレンネンの他の女とは比べ物にならないほど、負けん気が強いと思う。娘が男の子相手に殴り合いの喧嘩をするなんて、余所の家の母親なら、卒倒してしまいそうなものだけれど、母さんは違う。いつか、大真面目に
『いいこと? 危ないと思ったら、すぐに逃げるのよ。いくら、傷の治りがひとよりうんと早くても、痛いことには変わりないのだもの。マーシュが痛い目にあうのは可哀想。でもね、楽勝だと思ったら、やっつけちゃいなさい。大勢でたったひとりの女の子をいじめるような卑怯者に、遠慮はいらないわ』
と言って、マーシュを驚かせ、父さんを大笑いさせていた。
そんな父さんと母さんだからマーシュは『父さんに限って母さんに手を上げるなんて、卑劣な真似はしない』と信じて疑わないし『だから母さん、はりきって早起きなんか、しなくて良いのに』と思わずにはいられない。
母さんは毎朝、父さんが余裕をもって、雇い主との約束の刻限に間に合うように、早々に朝の支度を整える。ところが、当の父さん本人は、ぎりぎりになるまで起きられない。
「母さんが早起きしても……父さんの寝坊助は治らない……」
もごもごと憎まれ口を叩いて、毛布に潜り込む。暖かい。夏は太陽が力を漲らせる季節だけれど、丈高き霊山に戴かれるブレンネン王国は、季節問わず、朝晩の冷え込みが厳しい。人も獣も草花も皆揃って震えて陽が昇るのを待ち焦がれる時分である。それなのに、誰が好き好んで、暖かな場所を抜け出して、寒空の下に飛び出そうとするだろう。そんなことをぼんやりと考えている。「わたしも父さんのこと言えないな」とマーシュは自嘲した。
すぐ傍で、毛布に包まった父さんがもぞもぞしている。マーシュは毛布から頭を出して、薄目を開けて、父さんの様子を窺った。父さんはものすごく寝相が悪いのだ。下敷きにされては堪らない。父さんから距離をとろうとした矢先に、毛布の下からにゅっと伸びてきた腕が、マーシュの毛布を引き剥がす。マーシュの体温で暖まった毛布の内側に冷たい空気が刺し込んできた。マーシュは慌てて毛布を引っ張って、取り返そうとする。力自慢のマーシュだけれど、父さんの力には敵わない。父さんはマーシュの毛布を糸巻きの要領で巻きとってしまう。
毛布を取りあげられたマーシュは、寒さに震え上がって、小さく丸くなる。冷たく尖った朝の空気を、耳に馴染む笑声が揺さぶった。
「おはよう、寝坊助」
大きな手が、マーシュの短い髪をくしゃくしゃと撫でる。氷のように冷たい指が頭皮に触れて、さぁっと鳥肌が立った。
マーシュは不機嫌を丸出しにした唸りを上げて、ちょっかいをかけてくる父さんの手を振り払う。母さんの毛布を引っ張って、大急ぎで身体に巻きつける。ところが父さんは、冷えた身体を揺するマーシュの首根っこを掴んで、マーシュを毛布の外に引っ張り出そうとする。
「やめて……やめてよ……やめろってば……しつこいな、もう!」
マーシュは鬱陶しい手を叩き落とし、猛然と寝がえりをうつ。大仰に手の甲を擦る父さんをぎろりと睨みつけた。父さんは光の加減で色彩を変える瞳……薄暗い寝室では焦げ茶色に見える……をぱちくりさせる。
「なんだなんだ。御挨拶だな。せっかく起こしてやったのに」
マーシュは思いっきり顔を顰めて、毛布に潜り込んだ。すっかり腹を立てていた。
(朝日が昇る前に起こして、なんて、誰が頼んだ? だいたい、その言い草はなに? 『起こしてやった』? なに、それ。父さんは、わたしがどんなに頑張って『起こしてやった』って、起きない癖に)
マーシュは寝起きが悪い。けれど、父さんはもっと悪い。大きな芋虫がつくる蛹みたいに、毛布に包まって丸くなって、夢の世界に閉じこもる。マーシュなら、呼び掛けられたり、軽く身体を揺すられたりすれば、そのうち、嫌々でも目を覚ます。父さんの寝汚さは、そんなものではない。何を如何しても起きない。梃子でも起きない。
叩いても、背に乗っかっても、うんともすんとも言わない。大声で呼びかければ、うるさがられて、毛布の中に引き摺り込まれてしまう。ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、黙らされる。そうして、父さんが自ずと目を覚ますまで、息苦しく暑苦しい思いをする羽目になる。
毎朝のことだ。「父さんを起こして来て頂戴」と母さんに頼まれて「無理だと思う」と目顔で訴えても聞き入れられず、渋々、二階の寝室に降りて行って。やるからには、今日こそはやり遂げる。と気合いを入れて奮闘するのだけれど、健闘むなしく抱き枕にされて、おしまい。あとはいつも通りに。
「お前がちゃんと起こしてくれないから」とぶうぶう文句を垂れながら、大急ぎで朝食を胃袋に詰め込む父さんの隣で、ふてくされて、母さんにころころと笑われる羽目になる。
それなのに、とうしたことだ。今日に限って父さんは、こんな未明にぱっちりと目を覚まして、マーシュの眠りを妨げる。まだ毛布に包まってまどろんでいたいのに。
(あれ……? でも、わたし……いま、起きなきゃ……間に合わないんじゃ、なかったっけ……?)
間に合わない? なんのことだろう? マーシュは首を傾げる。なにか、約束を……大切なひとと、約束を交わしたような気がする。約束を交わすほど親しい友人は、マーシュにはいない。周囲の人々は、大人も子供も皆、マーシュを嫌っている。マーシュを信頼して約束を交わしてくれるのは、父さんと母さんくらいだ。
(ん? ちょっと待ってよ……約束……母さんと……約束……)
「俺の言った通りになった」
まどろむ意識の水底で、ゆらゆらとゆらめくなにかに目を凝らしているところで、父さんが茶々を入れてくる。「ちょっと、今は黙っていて」と鋭い視線を投げかけるけれど、父さんはどこ吹く風だ。寝台に寝そべったまま、器用に肩を竦めた。
「言ったろ。どうせ三日も続かねぇって」
バカにされた。腹が立つ。だけど、問題はそこじゃない。マーシュは跳ね起きた。
「……水汲み!」
(そうだった。母さんと約束したんだった。これからは、母さんに代わって、わたしが朝の水汲みに行くって。だから、母さんと一緒に起きなきゃいけなかったんだ。それなのに、どうしよう、出遅れた! まだ間に合う?)
落ち着いて。焦ったって仕方がない。とにかく、手早く着替えて、三階にいる……まだ、いる筈……母さんのところへ行こう。水汲みは朝一番の仕事だから、もう母さんが行ってしまっていてもおかしくはないけれど、もしかしたら、マーシュを待っていてくれるかもしれない。
焦らずに、落ちついて。でも、出来るだけ急いで。そう自分に言い聞かせながら、寝台を降りようとするマーシュの腹に、父さんの腕が巻きついた。ぐいと抱き寄せられる。寝台に仰向けに転がされたマーシュは、悪戯っ子のように、瞳を萌葱色に煌めかせる父さんを睨みつけた。
「……邪魔しないでくれる」
「もうひと眠りするんだろ」
「しない。水汲みに行く」
「なんだ、まだやるのか」
当たり前でしょうが。と言うかわりに、マーシュはぎょろりと目玉を回す。余所の家でやったら、その場で平手打ちを食らうだろうけれど、父さんはそうするかわりに、マーシュの鼻の頭を人差し指でとんとんと叩いた。
「やるもやらねぇも、お前の勝手さ。だが、賭けは俺の勝ちだからな。朝の水汲みを三日続けられなかったら、階段掃除はお前がやるんだ」
マーシュは眉根を寄せた。何を寝惚けたことを言っているんだ、父さんは。マーシュは声を尖らせる。
「だから、続けるってば」
「俺が起こしてやらなきゃ寝過ごしてたし、教えてやらなきゃ忘れてた」
父さんの言う通りだ。返す言葉も無い。自分から言い出したことを、ついさっきまで、すっかり失念していた。悔しいし、情けない。母さんとの約束を反故にせずに済むのなら、父さんには感謝するべきだろう。ところが父さんは、もともと圧倒的に不足しているマーシュの素直さをきれいさっぱり消してしまう名人だ。マーシュが黙りこんでいると、父さんはマーシュの背中に額を擦りつけて、欠伸を噛み殺した。
「負けを認めて、水汲みに行って、母さんを喜ばせるか。負けを認めずに、もうひと眠りして、母さんをがっかりさせるか。どうする? 俺はどっちでもいい」
「……わかった! 階段掃除はかわってあげる! だから、もう放してよ!」
マーシュは自棄になって叫ぶ。父さんは「放してやりたいのは山々だが、それには感謝の気持ちが足りない」と言ってマーシュをからかったので、マーシュはとうとう、頭に血をのぼらせた。
「べたべたするな、鬱陶しい!」
父さんの脳天に肘を打ちつけると、さしもの父さんも、ぐうと唸って拘束をゆるめる。その隙に乗じて、父さんの腕から抜け出して、寝台から飛び降りた。氷の上に立つようだ。足の裏から頭の天辺まで、寒気が突き上げる。マーシュはぶるぶる震えながら、昨晩、寝る前に用意しておいた衣服に着替える。厚手のタイツを履いて、長袖のシャツを着て、その上に、仔羊の皮を裏地にした毛織物のワンピースを重ねて、さらにその上からエプロンを身につけて、腰に革帯を締める。最後に長靴を履けば、身支度は完成だ。これなら外に出ても寒くないし、昼間の強い日差しから肌を守れる。脱ぎ散らかした寝巻を畳んで寝台の上に置いた。
亜麻色の髪の鬘を頭に載せて、その上に毛皮の帽子をぎゅっと被れば、身支度は完成だ。本当は、自毛と鬘を小さなピンで留めて、編み込んで、仕上げに大きなピンで固定しなければいけないのだけれど、それは後回し。おかしなところがないか、じっくりと点検してから寝室を出るべきだけれど、そんな余裕はない。麦藁色の頭が毛布に潜りこんでゆくのをぎろりと睨みつけてから、マーシュは寝室を飛び出した。