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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第二十話《救済》
196/227

天使の救済

暴力描写、グロテスクな描写を含みます。ご注意願います。

 

 ***


 渦巻く風の音、殺気立つ追手の怒号と足音、深遠の唸り。それらはアンナの苦しみと思って重ねると、アンナの叫びになってゆく。


『復讐して。暗くて冷たくて、怖いの。痛くて苦しくて、憎いの。復讐して、リーナ、復讐して!』


 だんだん、強くなる。アンナの涙声がはっきりと聞こえる。アンナはずっと、力一杯精一杯、憎悪を叫び続けている。あたしには聞こえる。ちゃんと、聞こえている。


 わかっているわ、アンナ。あたしはニーダー・ブレンネンを赦さない。


 ニーダー・ブレンネン、いつまでもいい気になっていられると思うな。今に見ていろ。貴様には、必ずや目に物見せてくれる!


 あたしはアンナに誓った。どれだけの時間がかかっても、どれだけの苦難があっても、復讐を成し遂げるって。どれだけの犠牲を払っても、必ず。


 でも、でもね、アンナ。まさかこんなことになるなんて、あたし、思ってもみなかった。あたし、取り返しのつかないことをしてしまったわ。


 ……いったい、どうしたら……嗚呼、アンナ……あたし……あたし、姫様を……傷つけてしまった……!


 こんな筈じゃなかった。あたしは、ニーダー・ブレンネンを真二つにしてやろうとしたのよ。出来ると思った。母様があたしにお力をかしてくれたから。


 あたし、ニーダー・ブレンネンに勝てた筈なの。あの悪魔を、最悪の苦痛で責め苛んでやれたの。みんなの恨みを、ニーダー・ブレンネンとその呪いの子の恐怖と苦痛と死が、晴らすはずだった。それなのに!


 それなのに、姫様があたしの邪魔をした! 姫様が、高い塔の家族の大切な姫様が! 高い塔の家族の仇を庇って倒れた! それだけじゃない。姫様はニーダー・ブレンネンの息子の命を……あの呪いの子の命を惜しんだ! 信じられる? 姫様は、仇の子に情をうつした。復讐の為に産んだ、呪いの子なのに!


 だから、あたしじゃない。あたしの所為じゃない。あたしは悪くない! あたしは正しいことをしようとした。そうだ、あたしは正しいんだ! 間違っているのは姫様だ。姫様はあたしを、あたし達、高い塔の家族を裏切った!


 そうでしょう、ゴーテル? あんたは、確かに言った。姫様はニーダー・ブレンネンを憎悪して、奴の破滅を希い、呪いの子を産み落とした。ねぇ、そうよね? 嘘や妄言の類じゃないわよね? あんたはまともじゃないけど、それでも、あたし達を助けてくれたあの瞬間、あんたは狂っていなかったものね?


 罪人の塔から落下する最中、覆面を被ったあんたの頭にしがみついたとき。あたしの指に絡みついた、柔らかな銀糸。あれは月の光を紡いだ糸みたいに、きらきら光っていたわ。

 ブレンネンの偉ぶったクソ野郎どもが、頭髪を頭に撫でつける、あの気障ったらしい髪形を整えるのに丁度良い長さの、白銀の毛髪。


 あんたのものじゃ、ありえないわね。あんたの、固くて短い黒髪とは似ても似つかないもの。


 ゴーテル、あんたとはこれまで一度だって、落ち着いて話すことは出来なかった。あのときも、あたしがあんたの名前を呼んだら、あんたは血相を変えて……素顔はふざけた覆面に遮られて見えなかったけど、きっとそう……行ってしまったから。


『悪魔が来る……俺の心が深淵に引き摺り込まれる。俺はまた、悪魔の僕に成り下がる……』


 あんたは別れ際に、そう呟いていた。


 落ち着いて話すことが出来ても、あんたは多くを語ろうとしなかったでしょうね。あんたはあたしには何も知らせず、あたしを遠くへやろうとしていた。


 だからこそ、あたし、あんたの正気と良心を、信じても良いと思う。


 あんたは、高い塔の家族を……母様とあたしを捨てて、ミシェルの後を追って行ってしまった。だけど、あんたの心にはほんの一握りでも、あたしにかける情けが残っていた。そうなんだって、思うことにしたの。


 でも、今じゃもう、あんたは本当の意味じゃ。あんたですらないのよね。あんたは高い塔の家族の誰よりも、影の民の力を使いこなしていたそうだけど、宿り替えを完璧にこなすことは出来なかった。あんたの精神は、宿主のそれに引き摺られている。


 だからニーダー・ブレンネンはあんたをすぐ傍に置きながら、のうのうと生きていられるんだ。


 生白い肌。銀髪。ゴーテルだけど、ゴーテルじゃない。あれは紛いものだ。ゴーテルはあの肉体を、自分のものに出来なかったんだ。


 ニーダー・ブレンネンは、正真正銘の悪魔だ。あの男は先王の身体に……実の父親の身体に……ゴーテルを宿らせた! そうして、正気と狂気の狭間で苦痛に苛まれるゴーテルを言い成りにして、嘲笑っている! そうだ、そうとしか考えられない。あの悪魔……いったい、どこまであたし達を貶しめたら気が済むの!?


 あたし自身の血流が荒々しい濁流のように、聴覚域を流れてゆく感覚は、あたしをじりじりと追い詰める。


 あたしは深呼吸を繰り返す。もしもあたしに翼と鉤爪があったなら、あたしは今直ぐにこの場を飛び立って、ニーダー・ブレンネンの元まで飛んで行って、奴の心臓を抉り出してやるのに。


 だけど、翼もなければ鉤爪もない、消耗してしまって輝殻も纏えない、能無しの小娘に出来ることといったら、息を殺して隠れていることくらい。


 生まれたばかりの赤ん坊を抱えて、灌木の茂みの影に身を潜めているあたしの周囲には、惨めに逃げ隠れするあたしを、血眼になって探し回る兵士達がうじゃうじゃいる。


 下手を打てばたちまち見つかって捕らわれてしまう。あたしはもう、身動ぎすら儘ならない。


 だからと言って、このままここでこうしてはいられない。兵士たちはそこらじゅうを虱潰しに捜索している。遅かれ早かれ、見つかってしまう。


 それに、胸に抱いたアンナの赤ん坊は、今は大人しく良い子にしてくれているけれど、いつまでもそうしていられる筈がない。この子が堪え切れなくなって泣きだしたら、万事休す、だ。


 あたしの腕の中で、アンナの赤ん坊がもぞもぞしている。ゆすってあやしてあげることも出来なくて、あたしはひたすら、心の中で語りかける。


(お願い……お願いだから……もう少しだけ、我慢して……)


 でも、もう少しって、どれくらい? いつまで? あたしには、わからない。 


 そのとき、赤ん坊が声を泣きだした。赤ん坊の泣き声が、四方八方から、あたしを責めるように響いている。


 本当に、アンナの赤ん坊の泣き声かしら? いいえ、悲鳴のようだわ。誰の? アンナの? 違う……これは……呪いの子の泣き声……姫様の悲鳴? あたしに背を切り裂かれて倒れた、姫様の悲鳴なの?


「いたぞ、捕えよ!」


 張り詰めた空気を揺さぶる、兵士の銅鑼声。あたしは弾かれるように駆けだした。いくつもの足音が、あたしを追いかけて来る。


「逃げたぞ! 北の方角、墓地へ向かっている!」

「追え! 追うんだ! 決して見失うな! 王妃殿下に害を為した大罪人を、陛下の御前に引き摺りだすのだ!」


 あたしは出来る限りの速度で走る。走っているんじゃなくて、飛んでいるんじゃないかって、錯覚してしまうくらいに。それでも、追手の足音はどんどん迫って来る。


「観念しろ! その先は行き止まり、貴様は袋の鼠だ!」


 追手の言葉は黒い矢のようにあたしの心臓を撃ち抜く。けれど、あたしは立ち止まらなかった。


 行き止まり? そんなの、今さらだわ。そうよ、行き止まりのどん詰まり。高い塔の家族の大切な姫様を、憎い仇さえ憐れまずにはいられない心優しい姫様を、わざとじゃないとは言え、傷つけてしまった。あたしには、もう、逃げ場は残されていない。


 それでも、諦められない。あたしの腕の中にはアンナの赤ん坊がいる。あたしはアンナにこの赤ん坊と復讐の誓いを託された。だから、諦めない。あたしは死ねない。絶対に死なない。ニーダー・ブレンネン、あの男を地獄の底に堕とすまで、あたしは死ねない!


 あたしは走る。風を切って走る。限界を超えて走る。木々は黒い影となり、生者を地獄に引き摺りこもうとする亡者のように、あたしの四肢に枝葉や根を絡ませる。引っ掛かかりながら躓きながら、あたしは歯を食いしばって走り続けた。


 足裏が地面から浮かび上がって、空気を蹴る。飛ぶように走っているんじゃなくて、走るように飛んでいるみたい。


 せかせか足を動かして、地面に足裏がつく一瞬に、力を込めて大地を蹴る。足をばねにして、弾んで飛び上がる。


 体が砕け散っても良い、魂を削っても良い、だからもっと速く、もっともっと、速く走らせて!


 追手はどんどん迫ってくる。血に飢えた獣のような、生々しい息遣いが、もうすぐそこにある。このままじゃ捕まってしまう。捕まったら、ニーダー・ブレンネンの前に引き摺りだされる。そうなったら、もうおしまい。今度こそ、殺される。うんと甚振られて殺される。


 苦痛と屈辱は怖い。でも一番怖いのは、無為に死ぬこと。ここで死んでしまって、何もかも、意味を無くしてしまうこと。


 あたしは生き延びた。アンナの苦しみに目を瞑って耳を塞いで、アンナを裏切って、こうして生き延びた。そんなあたしが、復讐を成し遂げられずに死んでしまったら、あたしは単なる裏切り者。高い塔の家族の許へ帰れない。


 だから、死ねない。まだ、死にたくない!


 だけど、どうしたらいいの?


「助けて……」


 雑木林を抜けると、墓地に出た。このあたりに、ゴーテルが言っていた、秘密の通路の入口がある筈だ。だけど、悠長に探している時間は無い。


 あたしは息苦しさに喘ぎながら、母様のカメオを握りしめる。胸を押し絞るようにして、叫んだ。


「誰か……助けて! お願い……誰か助けて! なんでもするわ、あたしに出来ることなら……あたしのもっているものなら、何でもあげる……! だからお願い……誰か……あたし達を、助けて!」


 鴉の集団が一斉に飛び立つ。あたしの絶叫は、死者の眠りの静寂に吸い込まれてしまった。


「誰か助けて!!」


 誰かって、誰だろう? 誰があたし達を助けてくれる? 母様は死んでしまった。高い塔の家族の皆も。ゴーテルはニーダー・ブレンネンの傀儡も同然で、姫様はあたしがこの手で切り裂いてしまった。


 黒い羽が花弁のように舞い踊るなかで、あたしは空を仰いだ。


 雲ひとつない晴天。ぽっかりと浮かんでいた雲は、冷たい風がひゅうひゅうと吹いて、押し流していった。青い空を遮るものはなにもない。空っぽの空。あたしは生まれたばかりの赤ん坊と二人きり。誰も助けてくれない。


 冷たい風が足元を這った。孤独を連れて来たその風に、足元を掬われる。涙で視界が滲む。あたしは前のめりなって、露に濡れた大地に膝をついた。


 跪いたあたしの肩に、手がかけられる。氷のように冷たいそれは、まるで屍のものだった。咄嗟にその手を払いのけて、あたしは息をのんだ。


 その白い繊手は、爪の先まで整えられていた。ほっそりとして、指はしなやかに細く長い。優美で品が良い、本物の淑女の手だ。しかし、それは手首まで。手首の下からは無数の白銀の糸が伸びている。蛇のように、細く長く、身をくねらせて。


 呆気にとられるあたしの目と鼻の先で、その白い手はくるりと手首を返した。白銀の糸の束を無造作に掴むと、人差し指でピンと弾く。竪琴の弦を弾くような、美麗な所作で。


 すると、背後で兵士たちの断末魔が上がり、紅い霙があたしに降り注いだ。


 噎せかえりそうな血臭。吐気を催す臓物の臭気。飛び散ったのは血と肉片。あたしは動けなかった。動けても、振り返ることは出来なかっただろう。


 もし、なけなしの勇気を振り絞って、振り返ってしまったら……あたしはこの先、食事の度に、凄惨な光景を思い出して、悩まされたに違いない。


「本当に、なんでもしてくださるのね?」


 薫風のような声調で紡がれる女の言葉が、頭上から降ってくる。声のする方へ、反射的に視線を向けると、亜麻色の長い髪を風に遊ばせた黒衣の天使が、あたしに微笑みかけていた。


 天使の左手は、手首から先がなくて、そこから白銀の糸が垂れ下がっている。右手は、胸に抱いた、少年の髪を撫でていた。


 墓石に腰掛けた彼女が横抱きにしているのは、痩せっぽっちの少年。首が不自然に捻じれて、こちらを向いているその顔には見覚えがあった。瞼が閉ざされ、魔法にかけられるような青い瞳が隠れていても、眩い銀髪の輝きは隠せない。


「ノヂシャ」


 呆気にとられたあたしは、知らず知らずのうちに、彼の名を呼んでいた。地獄の底にいても心が洗われる、輝くばかりの微笑みを浮かべた天使の背後では、精緻に編み込まれたレースのような、白銀の翼が誇らしげに輝いている。


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