月の無い夜2
手を首の後ろで組んで寝台に横になり、思いが漂うままに身を任せる。ノヂシャは夢を見るように、過去の色々な場面を思い浮かべていた。
ニーダーが即位してからというもの、ノヂシャの半生は過去を振り返るばかりだ。限られた幸福の時が、色褪せた思い出にならないように、幾度となく繰り返してきた。うまくできたらお慰み。うまくできなくても……思い出が、今この瞬間の現実を塗り換えてくれなくても……過去に閉じ込めた自分自身を、現実の孤独から切り離しておけるだけで良かった。
繰り返すうちに、習い性となった。だから、ニーダーに受け入れられて、孤独から解き放たれて、過去に縋りつく必要が無くなった今でも、振り返ることをやめられないのかもしれない。過去の失われた領域に、つい、目を向けてしまう。
まずはマリアが、それからヨハンが、最後にルナトリアが逝った。ノヂシャの為に、或いは、ノヂシャの所為で。その事実で、自分が心身ともにどれだけの痛手を負ったか、ノヂシャはもう、はっきりと自覚している。自覚せざるを得ない。ルナトリアを殺してからというもの、罪の意識がノヂシャをとらえて放さない。ニーダーの弟でいられる幸せを噛みしめると、身の毛がよだち、眩暈がして、我を失いそうになる。今だってそうだ。
皮膚が波打つ。身震い、ひきつけ、そのどちらでもなく、もっとおぞましい顫動を皮膚の内側、肉と骨の狭間に感じる。目が飛び出る程の痛みで、息が詰まる。頭がぼうっとする。現実なのか想像なのかもわからない激痛が、ノヂシャを錯乱させる。
目を閉じると、次々と、忘れられない人の姿が浮かんでくる。マリア、ヨハン、ルナトリアが、かわるがわる現れる。
マリアはノヂシャの枕元で子守唄を歌ってくれる。ヨハンはノヂシャを抱え上げて肩車をしてくれる。ルナトリアはノヂシャを抱擁して愛してくれる。
そして、マリアが死ぬ。ヨハンが死ぬ。ルナトリアが死ぬ。ノヂシャの所為で死んでしまう。ところが、彼らはノヂシャを責めない。ルナトリアでさえ、恨み言のひとつも言わず、優しい榛色の瞳を優しく細める。背後からその細頸を捩じ切り、ノヂシャはルナトリアを手にかけたのに、彼女の微笑みは最期まで、ノヂシャを優しく照らしていた。
軋んだ頭のなかを狂気が渦巻く。ぐるぐる、ぐるぐる。ぶつかって、回りながら、消えてゆく。流れ落ちる螺旋の奥底にのみこまれてゆく。覗きこめば、引き摺りこまれてゆく。生きることが耐え難い苦しみで、一刻も早く死にたいと、発作的に、ノヂシャは思った。
マリアもヨハンも、ルナトリアも、いない。自分ひとりが残されてしまうなら、もうこの先には、何も無い。
(ひとり……? ちがう、ひとりじゃない。ニーダーが……俺には、ニーダーがいるじゃないか)
ノヂシャは、昏睡からもがき出るように、強く瞬きをして、我に返った。死に向かおうとする思考に、驚愕する。
(今の俺には、ニーダーがいるじゃねぇか。ニーダー、俺の兄上。俺の喜び、俺の悲しみ、俺の全て。ニーダーだけ傍にいてくれるなら、他には何も要らない。そうだろ?)
ニーダーがノヂシャの人生の主役だ。だから、ニーダーと傍にいるのに邪魔になるものは、何もかも全部、捨てて来た。何も後悔しない筈だった。ニーダーの心を掴めば、ノヂシャのすべてはニーダーだけに満たされる筈だった。
それなのに、おかしい。望みを叶えたノヂシャは、その為に切り捨ててきたものに絡め取られているかのようだ。
心臓を刺す小さな棘のような不安を、くだらないと一蹴して、起き上がろうとする。だが、体中がこわばって、動かない。背を起こすことも、片足をのばすことも、両腕で体を支えることもできない。
ルナトリアのくちづけに侵されたノヂシャの身体は、冷たく、麻痺して、弱りきった肉の塊に変わってしまった。銀眼の魔女と化したルナトリアの血は、ルナトリアが逝ってしまったあともこうして、ノヂシャを責め苛んでいる。ノヂシャは鋭く舌打ちをした。
(鬱陶しい。ブレンネンの神様だか何だか知らねぇが、俺の中に我が物顔で居座りやがって。チクショウ、気に入らねぇ)
ノヂシャは苦痛を振り切るように、弾みをつけて上体を起こした。苦痛は決して逃がすまいとノヂシャに取り縋ってくる。四肢が弾け飛んでばらばらになってしまいそうだ。それがなんだ、とノヂシャは眉を顰めた。罪の意識に便乗するような、銀の神の図々しさに腹を立てていた。
銀の神の名を冠する、うねうねとした、不気味な銀色の流動体がルナトリアにとりついていた所為で、ノヂシャには苦痛をもたらすのが、ルナトリアの怨念なのか、それとも神意というものなのか、わからない。だからノヂシャは、この苦痛を受け止めるべきなのか、拒絶するべきなのか、どのように折り合いをつけたら良いのか、判断出来ないのだ。
(ルナトリア……貴女なら、俺を、好きなだけ、好きなようにして良い。貴女なら、俺は)
空回りする頭に、泡のように浮かぶ戯れ言を、ノヂシャは強く頭を振って追い払った。ふらふらと立ち上がり、壁に両肘をつく。勢い良く、額を壁に打ちつけた。
(一回、二回、三回。まだ、まだまだ。何度も、何度でも。強く。まだ、全然足りない。もっと強く、さらに強く! 頭の中に罅を入れろ。つまらねぇ感傷を叩き出せ。遠慮は要らないさ。この頭はどうせ、ずっと前から壊れているんだ)
傷口から血が流れる。一滴残らず全部、流し尽くしてしまいたい。そうしたら、空っぽになれるから。ルナトリアがくれた、優しさも痛みもなにもかも、絞り出して、彼女にこだわる自分の息の根を止める。そして、あるべき姿に戻らなければならない。ニーダーの存在だけで完成される、本来のノヂシャの容に。
目の前が真っ赤になり、五感が鈍くなる。これくらいで、やめておいた方が良さそうだ。ノヂシャはよろよろと立ちあがった。
頭の痛みは尋常ではなく、短い周期で、食い込むように襲ってくる。鮮烈な痛みがノヂシャのあたまをひやす。
大丈夫。頭が真二つに割れたわけではない。石の心臓がもつ治癒力の限界を、自身の身体で試す心算はない。影の民の治癒力を以てしても、欠損は補われないことは、身を以て学んだ。ならば、脳や脊髄といった、極めて繊細で重要な役割をもつ部位の損傷も、元通りに治すことは難しいかもしれない。純血の影の民なら、宿り替えをすれば万事、解決するのだろうが、ノヂシャのような半端物には命取りになりかねない。
(命とり。この錯乱は、命とりになる)
ノヂシャはおかしくなりつつある。幸せの絶頂にいるのに、深淵を見詰めている。魅入られたといって良い。風向きもよくない。破滅に向かっているような気がする。ニーダーに必要とされているのに。
(そうだ……ニーダーに、会いに行こう)
幸せなのに、幸せを感じられないのは、ニーダーに会っていないからだ。ノヂシャがノヂシャではないようなのは、ニーダーに会っていないからだ。
それなら、話は簡単だ。ニーダーに会えば良い。ニーダーに会えば、すべて元通りになる。うまくいく。
ノヂシャは扉に向かって、確かな足取りで歩き出す。ニーダーは待っているように言ったけれど、もう、待っていられない。これまでずっと、待っていた。ニーダーが振り向いてくれるまで、ずっと。ノヂシャから訪ねていっても良いだろう。弟が兄を訪ねることに、特別な理由や制限は要らない。
ニーダーはきっと、ノヂシャを満たしてくれる。他の何かが食い込む隙なんて、一片もないくらいに。