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愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十八話 運命
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反撃

 

 リーナは茫然としている。虚ろな黒瞳には一点の煌めきさえ見当たらない。心を奮い立たせる炎が、終に燃え尽きて、灰になってしまったかのようだった。


 ニーダーは、こゆるぎもしないリーナを足蹴にし、凍りつく眼差しを向けている。端麗な微笑を刻んだ口唇が、邪悪な呪詛を吐く。


「下劣な奴。おぞましい魂諸共、蛆虫のように潰れて死ね」


 ラプンツェルは愕然とした。ニーダーが、ラプンツェルと息子に夢中で、甘く、優しいばかりの男だと、一体、いつから錯覚していたのだろう。


 ニーダーはリーナを殺めるつもりなのか。本気なのか、或いは、脅しに過ぎないのか。見極めることは難しい。

 冷酷な目論見と残酷な衝動、その二つを秤にかけたとき、ニーダーの心がどちらに傾いたとしても、おかしくはなかった。少なくとも、ラプンツェルは納得する。どちらに転んでも、ニーダーは非道の限りを尽くして、ラプンツェルに残された希望の最後の一片まで、焼き尽くしてしまうことに、変わりはないのだから。


 無防備な脇腹を踏み躙られたリーナの苦鳴が、愉快な音楽であるかのように、ニーダーは含み笑う。思い遣りの欠片もない酷薄な仕向けが、ラプンツェルの喪失を裏付ける。


「蛆虫とは、我ながら言い得て妙だ。率直に言って、貴様のその醜態は目に入るだけで、癪に触るのでね」


 冷血な嘲笑が、傲慢な白皙に固定される。そこに、ラプンツェルが描いていた幻想は、跡形もなく消え失せた。


 これこそ、ニーダーの本性だった。白く透き通る頬を儚い涙が下り、夜空に瞬く星のようにきらきらと輝いた、孤独な少年はきっと、ラプンツェルと出会う以前に死んでいた。


 全身全霊を懸けてラプンツェルを愛した。妻子と真摯に向き合い、妻子を慈しみ、幸福な家族であることを望んだ。そんな風にしてラプンツェルの心を惑わした、優しいニーダーなんて、最初からどこにもいなかった。


 ニーダーは、豊かな愛を知らず「ひと」になり損ねて、地の底に堕ちた悪魔だったのだ。死に至る渇きを潤す為に、ただひたすら、偽装していた。ニーダーは残酷な運命に翻弄される憐れな魂などではない。報われない、憐れな魂を玩弄して慰めを得る男。ニーダーは悪魔だ。


 ニーダーの左手が無造作に提げていた白刃が、緩やかに旋回して朝靄を切り裂く。刃の切っ先がリーナの項に突きつけられる。


 ざわざわと、遠くの木立が揺れた。草葉を漣のようにうねらせて、横殴りの突風が吹き抜ける。


 運命に導かれるかのように、誰もが空を仰ぎ見た。その視線の先には、陽の光を一身に集め、眩く輝く白銀の鳥。自由の翼をのびのびと広げて、悠々と、高い空を渡って行く。ラプンツェルは目を瞬かせる。こんなに美しく、大きな翼をもつ鳥を、見たことがなかった。


(不思議な鳥。まるで天使様みたい)


 バルコニーに鳥影が射した。幻想的な光景に魅入られていたラプンツェルは、ニーダーが掠れた声で小さく紡ぎだした名前を聞きとり、はっと我に返る。


「ルナ」


 ラプンツェルはニーダーを凝視した。ルナとは、ルナトリアの愛称である。幼い頃からずっとニーダーを慕っていて、しかし、ニーダーの正体を知ってしまって、ニーダーを恨んだ、ニーダーの唯一無二の親友、ルナトリアの。


 ルナトリアはきっと、カシママをその身に宿すことになった。ブレンネン王国では銀の神と崇められるカシママの力を我が物とした。だとしたら、ルナトリアはいとも容易く、恨みを晴らすことが出来た筈だ。


 しかし、ニーダーは死地より舞い戻った。ルナトリアは、ニーダーを殺めようとしたけれど、思いきれず、死んでしまったのか。


 ルナトリアを殺めたのは、ルナトリア自身か、それとも、ニーダーか。ひょとすると、ノヂシャなのかもしれない。あまりにも悲しいから、そうでなければ良いと願うけれど、ルナトリアはラプンツェルの憐れみを、快く思わないに決まっている。


 ルナトリアの真実がどうであれ、ルナトリアは死してなお、ニーダーにとって特別な存在であることは明白だった。ニーダーの目には、天高く舞う白銀の鳥が、美しいルナトリアの魂としてうつるのかもしれない。


(あなたの天使は、高い塔の高い窓辺で下手な歌を歌っていた、私じゃなかったの?)


 ニーダーの横顔に、何を見出したなら、胸のざわめきを鎮めることが出来たのだろう。その答えを見つけられないうちに、血相を変えて振り向いたニーダーに肩を掴まれる。


 ニーダーは、ラプンツェルと息子を部屋に押し戻そうとした。どんな想いで、何を如何しようとしたのか、ニーダーの思惑は、ラプンツェルには分からない。ただ一つだけ、分かったことがある。ニーダーの手に握られた白刃の切っ先が、リーナから逸れていることだけ。


 千載一遇の好機だった。これを逃せば、リーナはもう、助からない。


 ラプンツェルは身を翻し、ニーダーの腕をかいくぐる。ニーダーの傍らを擦り抜け、リーナの前に立ちはだかる。ラプンツェルは兎のように俊敏ではないけれど、不意をつかれたうえ、負傷したニーダーには、ラプンツェルをつかまえることが出来なかった。


 ニーダーの空色の瞳に稲妻が閃く。刀の柄を握る五指に力がこもった。跳ねあがろうとする白刃を、ラプンツェルは躊躇いなく掴んだ。


 ラプンツェルは、賭けていた。ニーダーの心に深く根付いた、幸福への憧憬と執着に。眩しくて、脆くて、どろどろした感情を、ニーダーが本心から愛だと錯覚しているのなら。ラプンツェルと息子の為に、変わると言った誓いに嘘がないなら。ラプンツェルは、ニーダーを止められる筈だ。


 ラプンツェルの手が刀刃に触れることを、みすみす許したのは、ニーダーにとって、致命的な落ち度であり、失態だった。刀刃を握りしめたラプンツェルの、震える手から滴る血が、ニーダーの動きを封じた。


 ラプンツェルは、白々と鈍い輝きを放つ白刃をまじまじと見つめていた。刀の肌に歪んだ微笑がうつりこむ。


「呆れた。あなた、それでも武人なの? 私みたいな小娘に、得物の刃を掴まれるなんて、どうかと思うわよ」


 ラプンツェルは肩を揺らして笑った。柔らかな肌を切り裂き、血を流す痛みが愉快だった。傍若無人の暴君が、生意気な小娘に不才と揶揄され、せせら笑われても、屈辱を屈辱と捉えることもしない。ただうろたえ、たじろぐニーダーの無様さが、滑稽だった。


 何にも増して滑稽なのは、絶望する程に、ニーダーの本性から目を背けていた、ラプンツェル自身なのだけれど。


「……手を、放しなさい」


 ニーダーは言った。声は細く震えている。命令ではなく、懇願の声調。些細な振動さえ、刀身を伝われば、ラプンツェルを切り裂いてしまうと思えば、話すことはおろか、息をすることさえ、憚られるとでも、言うかのように。


 何を今更、とラプンツェルは心の中で吐き捨てた。誰よりも、ラプンツェルの身も心も、深く傷つけたのは、他でもない、ニーダーだ。それなのに、今更になって、ラプンツェルの苦痛を嫌うだなんて。とても滑稽だ。


 ラプンツェルはニーダーの瞳を、揺るぎない眼で真っ直ぐに見据える。その揺らぎに勝機を見た。


「リーナを逃がしてあげて。これ以上、リーナに酷いことをするなら」


 ラプンツェルはそこで言葉を切り、呼吸を調えた。上下する胸に、ぴたりと寄り添う息子の温もりに、続けるべき言葉を奪われそうになるけれど。背に庇ったリーナが、天国へと旅立った家族の皆が、見ている。だから、これ以上、愚かな過ちは繰り返せない。


(私は高い塔の娘。ニーダーは私の家族を滅茶苦茶にした悪魔。私はニーダーを憎む。絶対に赦さない。私は、復讐を誓う)


 ラプンツェルは、抜き身の刀身を握りしめた右手を、ゆっくりと胸元にひきつける。


 ニーダーは、ラプンツェルの為すがまま。その顔色は、蒼白だ。ラプンツェルの意図を見抜いている。それでも、ニーダーがラプンツェルを傷つけたくないと願う限り……そのようなふりをする限り……ラプンツェルを止めることは出来ない。


 ラプンツェルは、引き寄せた刃の切っ先を、自身の喉に突きつける。ラプンツェルは目を閉じた。息子の小さな手が、夜着の襟元をひっしと掴んでいる。瞼の裏に浮かび上がる、息子の可愛らしい笑顔に、ニーダーの残酷な冷笑を重ねて、塗り潰して。


 そうして、ラプンツェルは覚悟を決めた。


「私は死ぬ。この子を道連れにして、死ぬから」



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