信じられない
ラプンツェルとニーダーは二人とも、長いあいだ同じ姿勢で、無言のまま、時間を過ごした。保留された空気が二人を取り巻いている。この空気が、ニーダーの匙加減ひとつで茨の棘となり、ラプンツェルを突き刺し、ずたずたにしてしまうと、わかっているから、ラプンツェルは息をすることさえ儘ならない。
虹のように綺麗な弧を描くニーダーの目は、空の色に染まっている。孤独な少年が、見上げ続けた青空の色だろう。空色の瞳と見つめ合い、ラプンツェルは頭をめぐらせた。何か言わなくては。けれど、適切な言葉が浮かんでこない。
ばかばかしい、と鈍い意識の片隅で、ラプンツェルは自嘲する。ラプンツェルは嘘を吐くのが得意ではないし、よしんば、うまいことを言えたとしても、結果が覆るとは思えない。
「私を疑っているの?」
ラプンツェルはニーダーに訊ねた。愚かな問い掛けだった。答えがわかりきっている問いを投げ掛けるべきではない。無礼だから。けれど、ニーダーは無礼を咎めようとはしない筈だ。二人はもっと別の、重大な問題に直面しているのだから。
落ちつかなくてはならなかった。怯えてはならなかった。怯えは顔に出るし、相手に疑念を抱かせる。
でも、きっと。もう既に、手遅れだった。
ラプンツェルの馬鹿馬鹿しい問いかけに、ニーダーは律儀に肯いて応える。謎めく微笑みを深めて、ニーダーは言った。
「私は疑り深い性格でね。人を信頼することは、極稀だ」
ニーダーが率直に答えたことは、疑う余地の無い事実だった。彼が口を閉ざすと、訪れた沈黙は、まるで、深い夜のように静まり返る。たった独りで置き去りにされたような心細さに、ラプンツェルは震えた。意識の端にかたく結びついたものが、ラプンツェル自身の孤独であることに、気付いてしまって、狼狽える。
ニーダーの孤独は、決して、ラプンツェルを放さないと思っていた。実際、ラプンツェルはニーダーに囚われている。解放されることはないだろう。ニーダーはラプンツェルを鳥籠にいれて鍵をかけた。囲い込みは既に完了している。しかし、捕らえておきながら、ニーダーはラプンツェルを突き放した。
まずは、胸が焼けるような怒りを覚えた。正当な理由がある感情だ。けれど、次いで込み上げた、胸が張り裂けるような悲しみには、正当な理由がまるで無い。
ラプンツェルはうろたえ、この上なく、愚かな質問を口走っていた。
「もう、私を愛していない?」
「ばかな」
ニーダーは間髪いれずに否定した。反射的と言って良い、鋭い反応だった。答えた瞬間には完璧に静止していた微笑が、次第に、歪んでゆく。ラプンツェルは、ニーダーの真意と感情の変遷を見極めようとしたけれど、かなわなかった。ニーダーにひしと掻き抱かれていた。
「君を愛している。憎まれようが、呪われようが、この想いは決して変わらない」
ラプンツェルは自身の激しい息遣いを聞いていた。息子の泣き声を聞いていた。けれど、ニーダーの逞しい胸板に耳を押し当てても、彼の鼓動は聞こえて来なかった。
ニーダーの想いを信じて良いのか。ラプンツェルは迷う。ニーダーはラプンツェルを信じていないのだから、ラプンツェルだって、そうするべきではないだろうか。
考えてみれば……考えるまでもなく……ニーダーはずっと、彼が高い塔の家族を捕え、虐げていた事実を、隠していた。つまり、ラプンツェルを騙していたのだ。
ニーダーが「マーシュ」を殺したラプンツェルを信じられないと言うなら。ラプンツェルは、高い塔の家族を殺し、暴虐の限りを尽くしたニーダーを信じられない。それが賢明な判断なのだと思う。
ラプンツェルは激しく頭を振った。ニーダーの左手が後頭部に回る。ニーダーの胸に顔を強く押し付けられる。ラプンツェルは我武者羅になってもがいた。腕の中では、息子がもがいている。二人分の拒絶をものともせず、ニーダーは力ずくで妻子を腕におさめた。
ニーダーは力の強い大人の男性で、ラプンツェルはか弱い少女で、息子にいたっては乳飲み子で。力の優劣は歴然としている。ニーダーはラプンツェルの耳元で、愛していると繰り返し囁いた。ラプンツェルが抵抗を続けると、ニーダーは静かな声で言った。
「君は私を赦さない。君が私を愛することはない」
ラプンツェルは顔を顰めた。これが質問であったなら、先ほどラプンツェルが口走ったそれと、同じかそれ以上に、愚かな質問だった。しかし、これは質問では無く、確認でもない。ただ、事実を読み上げているだけ。そのような口ぶりだった。
「世界が引っ繰り返っても、君が私への憎しみを忘れることはない」
ニーダーの言葉を、ラプンツェルは否定も肯定もしなかった。抵抗は止めていた。じっと、息を殺して、ニーダーの言葉について考えた。
ラプンツェルの世界はとうに引っ繰り返っていた。ニーダーがひっくり返してしまったのだ。ラプンツェルは、ニーダーへの憎しみを忘れない。思い出したのではなくて、忘れていなかった。その筈だった。
「是非も無い。それでも、私は君を愛している」
ふいに、ニーダーが抱擁する力を緩める。ラプンツェルが自分の足で、ちゃんと立っていられるか確認してから、ニーダーはラプンツェルを解放した。気遣われている、と感じたのは、錯覚ではないと思う。ラプンツェルではなく、ラプンツェルが抱いている息子を気遣ったのかもしれないけれど。
ニーダーは息子を愛している。今となっては、それだけが、確かなことだ。
ラプンツェルはニーダーの顔をまじまじと見つめた。愛しい息子を、裏切り者の手に委ねなければならない理由を、彼の口から、はっきりと聞きたいと思った。
ニーダーはラプンツェルの長い髪を一房手に取り、梳いた。リーナの手の中では白銀に輝いていたのに、今はくすんだ灰色にしか見えない。するすると零れ落ちる銀糸の髪に口づけた唇が、微かに開かれる。
「私は君を赦そう。君だけが特別だ。君でなければ、赦さない。私から最愛の妻子を奪う者を、私は決して赦さない」
ニーダーはラプンツェルの前をすり抜ける。彼は大窓へと足を向けた。その先はバルコニーへと続いている。カーテンを引いて開けるつもりだろうか。透き通る硝子の向こう側では、まだ、リーナが立ち尽くしているかもしれないのに。
「ニーダー、何をするの?」
ラプンツェルは言った。鋭く、咎める声調になってしまって、ひやりとする。ニーダーは答えず、重厚なカーテンに手をかけようとしていた。
「待って、窓は開けないで!」
ラプンツェルは叫び、ニーダーの許へと駆け寄った。振り返らないニーダーの前に回り込む。泣き疲れて、ぐったりとした息子を、見せつけるようにして、抱え直した。
「この子がいるのよ。風邪をひいてしまうわ。まだ風が冷たいもの。窓は閉めたままにしておいて」
何もおかしなことはない、とラプンツェルは自分自身に言い聞かせた。そうしなければ、自身の言動が不自然であると認めてしまえば、ラプンツェルは立っていることさえ出来なくなる。
ニーダーは静かな一対の目でラプンツェルを見返す。ラプンツェルと息子の頭をそれぞれ撫でる。唇にだけ微かな笑みを刷いていた。妻の「他愛ない我儘」を受け止め、譲歩するときの微苦笑とは、まるで違う表情。
ニーダーの手がさっと伸びて、カーテンをつかむ。迅速な動作だった。ラプンツェルがその腕を掴むことが出来たのは、ニーダーがそうすると、予測していたから。或いは、恐れていたからかもしれない。
「ねぇ、聞いているの? 私は、窓を開けないで、ってお願いしているのよ。この子は風にもあてられないって、先に言ったのはあなたじゃない。忘れちゃったの?」
つっけんどんにニーダーを詰ったとき、暴力的な思念が苛烈な焔のように、ラプンツェルを焼いた。ラプンツェルを床に捩じ伏せ、思い切り体重をかけ、ひとまず、肩の関節を外してしまうことを、ニーダーは望んでいた。
ニーダーは感知している。不適切な来訪者を、ラプンツェルは夫婦の寝室に招き入れた。さらに、それを隠し通そうとしている。ニーダーはラプンツェルの行いを、紛れもない裏切りとして受け取っただろう。
狂暴な獣の衝動は、確かにニーダーの肚の内で蠢いていた。それを、ニーダーはすぐに解き放とうとはしなかった。ニーダーがしたことと言えば、軽く腕を振ることだけ。たったそれだけのことで、ニーダーはラプンツェルの矮躯を振り払ってしまえる。
体制を崩したラプンツェルを引き戻してから、ニーダーはラプンツェルに背を向けた。彼の肩が怒り、直立した背筋が張り詰めていることに、ラプンツェルはこのときようやく気づいた。
ニーダーはラプンツェルに対して怒りを抱いている。それでも、ラプンツェルに手を上げなかったことが、彼の言う「赦し」なのだろうか。だとしたら、それは意気地のないラプンツェルにとっては涙がでるくらい、ありがたい温情だ。けれどこの瞬間に、ラプンツェルが求めた「赦し」は得られそうにない。
「待って、やめて、お願いだから、窓を開けないで!」
ニーダーの背に飛びついて、腰にしがみついてみるけれど、息子を抱いているから、片手しかつかえない。もっとも、両手があいていたとしても、掣肘を加えることにはならなかっただろう。
カーテンが引かれる。眩い射光の中、窓が開け放たれる。