帰還※2017.3.17加筆しました
喧騒が遠い。眩暈がする。耳鳴りも。爪先がふわふわと浮き上がるようで、足元が心許ない。感覚が鈍っている。胸に抱く息子の存在さえ、輪郭が薄れ、曖昧になっていた。
ラプンツェルの心はここにはなく、小鳥のように飛び立ってしまった。たったひとりの男を探し求めて。
扉に耳を押し当てて、耳をすませば聞こえてくる。何よりも恐れていた足音。誰よりも憎んでいた声。いくつもの足音と声が重なり合って響いても、あの男の気配を間違えるなんてことはない。
ラプンツェルから大切な家族を奪った男。それでいて、新たに与えた男。ニーダー・ブレンネンだけが、ラプンツェルの身も心も、こんなにも震わせる。
(ニーダーは、生きていた? また、私の許へ帰って来る?)
足音が近付いて来る。声が聞こえる。それでも、ラプンツェルは確信が持てなかった。出来事が齎す衝撃の凄まじさに頭の芯を砕かれ、夢と現の区別をつけることが難しい。
掠れた悲鳴が、冷えた夜気を鋭く切り裂いた。ラプンツェルははっと我に返り、がくがくと総身を震わせるリーナを見上げる。リーナの顔色は真っ白だ。目を大きく見開いて、きょろきょろと彷徨う瞳が、唐突に突きつけられた、想像を絶する現実を拒絶している。罅割れた唇をついて、リーナを苛む恐慌が噴き出した。
「そんな……まさか……ニーダー・ブレンネンは死んだ筈……! まだ生きているなんて、まさか、そんな……そんなことって……!」
リディが扉をノックする。リーナは飛び上がった。けれど、逃げることも隠れることもしない。そうしたくても出来ないのだろう。驚愕と、それを凌駕する恐怖に痺れて、足が思うように運ばなくって、真っ直ぐに立っているだけで精いっぱいなのだ。怒りでも悲しみでも、復讐心でさえ、リーナを支えきれず、崩れ落ちそうになってしまう。ニーダーの悪意は、それ程の恐怖と苦痛をリーナの心に刻みつけていた。
潮が満ちるように、ラプンツェルの心は熱をもつ。何もかも空しくて、虚ろになっていた世界が、真紅の怒りに彩られる。ラプンツェルはそこから、ニーダーへの限りない憎悪を手繰り寄せた。
身体を揺らすほどの動揺を抑え込み、ラプンツェルは跳ね起きる。リーナの肩を掴んで揺さぶった。
「しっかりして、リーナ、しっかりするのよ! 赤ちゃんを連れて、逃げるの、今直ぐ!」
焦燥にかられ、尖った声を押し殺し、ラプンツェルは茫然自失のリーナを急かす。まごつきながらも、床に寝かせたヒルフェとアンナの娘を抱き上げたリーナの背を押して、窓辺へと押しやった。開け放った窓から吹き込む冷たい風の頬を打たれて、リーナははっとした様子だった。今起きている事実を認めなければならないことに気が付いたのだ。
「姫様も一緒に」
「いけない」
ラプンツェルは震えるリーナの懇願を遮り、きっぱりと拒絶した。肩越しに振り返ったリーナの顔は引き攣っていて、痛々しいけれど。涙に潤んだリーナの瞳を、ラプンツェルは真っ直ぐに見返す。痛む心を切り裂いて、溢れだす鮮血のような、独りよがりな願いを伝えた。
「リーナは、その子を連れていって。その子は高い塔の子。高い塔の家族の、大切な子よ。あなたは、その子との幸せな未来を望んでいて。復讐なんて望まないで。家族の為の憎しみは忘れて、家族の為の愛だけを覚えていて。あなた達は、幸せになって……お願い」
リーナの双眸の縁から溢れた熱い涙は、削げた頬を伝い流れ、ラプンツェルの手の甲に滴り落ちる頃には、すっかり冷え切っていた。
激昂したり、悲嘆に暮れたりして、取り乱すことさえ、リーナには出来なかった。身も心も、散々に痛めつけられて、とうに限界を超えていたリーナは、唯一つ、復讐心を支えにして生き延びた。それを、唯一人の同志だと信じていたラプンツェルが取りあげようと言うのだから、リーナの絶望は真に悲痛を極めるだろう。
復讐を諦めて、憎しみを捨てて、幸せになって欲しい。大切な全てを奪われたリーナに、こんなことを願うなんて、残酷だと言うことは百も承知の上である。
復讐心を失えば、そこには手をかける場所がない。まるで、虚空に放り出されてしまったかのように。絶望は虚無へと帰結する。ラプンツェルがそうだった。
ニーダーが死んだと、リーナが告げたとき。また全てを失くしたと思った。その全てとは、きっと、復讐心だった。ニーダーへの復讐が永遠に叶わなくなってしまったから、ラプンツェルは放心から立ち直れない程に、うろたえていたのだ。
ニーダーが生きていると知ったとき。恐怖は無かった。もちろん、夢のような恍惚もなかった。ただ、不思議な安堵だけがあった。憎むべき男は生きている。復讐の誓いは果される。全てを奪われたラプンツェルにとって、復讐こそが全てだから。
ラプンツェル自身がそうだからこそ、リーナにはそうであって欲しくないと思う。復讐の為に生きるなんて、どうしようもなく虚しくて、苦しいことだから。
ラプンツェルはリーナをバルコニーへと押し出して、ぴしゃりと窓を閉めて鍵をかける。追い縋るように、窓硝子に張り付いたリーナのあどけない泣き顔に向けて、ごめんなさい、と囁く。
「ごめんなさい、リーナ。あなたは大切な妹よ。だけど、だけどね。あなたも、ヒルフェとアンナの赤ちゃんも……この子も……私の大切な家族なの。だから、あなた達は幸せになって。逝ってしまった皆の為にも」
その後の言葉はうまく出て来なかった。言葉を尽くしたとして、リーナの理解が得られるとも思えなかった。結局、さようならを告げて、カーテンを引いて閉めるしかなかった。直後に、寝室の扉が開かれる。
ラプンツェルは体ごと振り返る。後ろ手に扉を閉めて、外のざわめきを黙殺する男の姿を見て、さぁっと鳥肌がたった。
(ニーダーが、帰ってきた)
ニーダーだった。すぐに戻ると言い置いて、キスを落として、出掛けて行ったニーダーが、ラプンツェルの許へ帰って来た。血塗れになって。ラプンツェルが招き入れて、そして、追い出したリーナと、ちょうど、同じように。
ところが、ラプンツェルを襲った衝撃は、血塗れのリーナの姿を目の当たりにしたときと、血塗れのニーダーの姿を目の当たりにしたときとでは、まったく別のものだった。殆ど無傷であっても、リーナは酷く傷つけられた可哀想な犠牲者だった。ニーダーはそうではない。
ニーダーは苦痛に喘ぐ手負いの身であっても……ぎりぎりまで追い詰められたからこそかもしれないけれど……相対する者を、その壮絶な気迫で圧倒する。
「ラプンツェル」
ラプンツェルはびくりと肩をはねあげてしまう。如才なく振る舞わなければいけないのに、体が言うことを聞いてくれない。
息子が生まれてからと言うもの。ラプンツェルの名を呼ぶニーダーは、ひたすら優しかった。美しい微笑を浮かべるニーダーが、ありったけの愛情をこめて、ラプンツェルを慈しもうとしていることに、疑う余地はなかった。
いつの間にか、それが当然になってしまっていた。けれど今、ラプンツェルを呼ぶニーダーの声はなんとなく、固く冷たいようだ。ニーダーの態度はまるで、生きた感情をどこか、よそに置いてきたかのようだった。
ニーダーが歩み寄って来る。両足の向こう脛に酷い裂傷があった。しかし、傷に障らないよう、歩調を緩めたり、足を引き摺ったりはしない。足の運びはしっかりとしている。まるで痛みを感じていないかのようだ。余程、我慢強いのか、或いは、痛みを感じない程に、昂っているのか。
ニーダーはラプンツェルの正面に立つ。戸惑い、俯くラプンツェルの顎を、ニーダーは親指と人差し指で掴んで、もちあげた。ずたずたに切り裂かれた左手が恐ろしい。柔和な微笑みとは裏腹に、赤剥けの指の力強さは、支配力を維持しようとしている。
身を固くするラプンツェルの腕の中で、息子はきゃっきゃと、跳ねるようにして、はしゃいでいる。父親の帰りを無邪気に喜ぶ息子に視線を落とすニーダーの表情は、愛情深い父親のものだった。けれど、ラプンツェルを見る目は、いつもと違うような気がする。
ニーダーはいつも通りに息子の頭を撫でようとし、躊躇った。空を切った右手。その手首より先が消失している。創部を直視する度胸はラプンツェルにはなかった。悲鳴さえあげられない。閉ざした瞼の裏側に、ニーダーのこの手によって、右手を失ったノヂシャの狂気の微笑が過る。
父親は優しいばかりの存在であると信じきっているらしい息子は、愛撫してくれない父親を、非難するように唸っている。怖々と目を開くと、ニーダーは可愛らしく駄々をこねる息子を見守っていた。愛情深いニーダーの微苦笑は、こんなに近くにあるのに、なんだか遠い。ニーダーはラプンツェルをいつも傍らに留めようとするから、爪弾きにされたかのように感じるのは、はじめてのこと。鼓動が高まり、頭が割れそうだった。
戸惑いがさらなる戸惑いを呼び、波紋がひろがる。自慢の長い髪が、憎むべき男の血に染まり、深紅に塗り替えられてゆく。
ニーダーは傷だらけだ。リーナが思っていた通り、ニーダーは確かに、死に瀕していたのだろう。息子を撫でる手を失い、ラプンツェルの顎を掴んだ指先は欠けている。ニーダーを襲った殺意は本物だったのだ。
それでも、ニーダーはこうして生きて帰ってきた。
(ルナトリアは、思いきれず、ニーダーに情けをかけたのかしら?)
ルナトリアは、ニーダーに想いを告げたのだろうか。親友の秘めた想いを知って、親友に命を狙われて。ニーダーの心には変化が生じたのだろうか。
憶測は思いがけない鋭さで、ラプンツェルの心を切り裂いた。ラプンツェルは眉間に皺を寄せて、傷のありかを探ったけれど、見つからず、結局は、ニーダーへの嫌悪感だと結論付けた。それが最もしっくりきて、安心できる答えだった。
尤も、いまの状況は、安心とは程遠いものであるけれど。
「やっと、私達の子を抱いてくれたね」
ニーダーは言った。微笑んでいるけれど彼の目は、その対局にある感情を、雄弁に物語っていた。
ニーダーはラプンツェルを柔らかく抱擁する。息子を抱いたまま、ラプンツェルはニーダーの腕の中に閉じ込められる。
噎せかえるような血の香に包まれていた。けれど、息が詰まるのは、その所為ではない。
額を合わせ、睫が絡む至近距離で、ニーダーはラプンツェルを見つめている。長く切れた二重瞼の間に、悪魔の影が見え隠れしていた。忘れもしない。ラプンツェルを恐怖と苦痛で支配しようとした悪魔の眼差しを、忘れられる筈がない。