孤独
運命が手繰り寄せられるように、赤子が眠る揺籠へ、リーナは歩み寄る。足取りはふわふわと宙に浮かび上がるようで、足元が覚束ない。瞬きを忘れ、乾いた瞳が、天蓋にうつり込む小さな人影を凝視している。揺籠を覆う天蓋が怯えるように揺れた。
リーナの震える指先が、繊細に編み込まれたレースを払いのける。すやすやと眠る赤子の寝顔を覗き込み、リーナは呟いた。
「……ニーダー・ブレンネンの息子……この子が……」
リーナは左手でヒルフェとアンナの娘を抱きながら、右手をニーダーとラプンツェルの息子へと伸ばす。ところどころ欠けて、罅割れた爪先を、こびりついた血がどす黒く彩っている。その爪を、鮮血が染め上げる……紅い予感の裏側に、母を求めるようにして手を伸ばす、息子の笑顔が透けて見えた。ラプンツェルの心は白く発火する。気がついたら、甲高く叫んでいた。
「やめて、リーナ!」
露骨に咎める、高く鋭い声調で制止され、リーナは竦み上がる。肩越しに振り返ったリーナの、顔を歪ませる疑念よりも、リーナが赤子へと伸ばした手を引かないことが恐ろしかった。曲げられた五指は、獲物を鷲掴みにしようとする猛禽の鉤爪のよう。不器用だけれど優しい父親の手に、慈しまれることしか知らない息子の柔らかい肌が裂かれ、血を流すさまは想像さえしたくない。
ラプンツェルは足を縺れさせながら、転がるように息子の許へ駆け寄った。リーナと息子の間に割って入り、息子を背に庇う。リーナの右手をとり、自らの胸にあて、両手で包み込む。人間のように、心臓が胸に埋まっていないからこそ、出来たことだ。逸る鼓動の真実を探り当てられることに、怯えていたから。
ラプンツェルはリーナに微笑みかけた。リーナを安心させる為ではなく、息子からリーナの気を逸らして、ラプンツェル自身が安心する為に。後ろめたい想いはきっと、微笑みを無残に引き攣らせただろうけれど。
「大きな声を出して、ごめんなさい。でも、わかって。あなたは、この子に触れては、いけないわ。ニーダーは、この子に夢中なの。信じられる? あんなに恐ろしい人なのに、この子が生まれてからは、目尻が下がりっぱなしで……目に入れても痛くない、溺愛ぶりなのよ。だから、ダメ。この子に近寄らないで。この子になにかあったら、ニーダーがあなたを、どうしてしまうか……怖いわ。怖くて、怖くて、私、どうにかなってしまいそう。だから、ダメよ。ダメなのよ」
ラプンツェルの背は、冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。ニーダーの勘気をこうむることは恐ろしい。けれど、唯一人、生き伸びてくれた家族に、裏切り者の烙印を押されることの方が、もっと恐ろしい。
私は何を口走っているのかしら。なんて白々しい真似をしているのかしら。己の口を塞いでしまいたいと思うけれど、今は失言より恐ろしい沈黙を避けたかった。両手で包みこんだリーナの右手が、氷のように冷え切っていて、どれだけ撫でさすっても、仄かな熱さえ帯びないから、恐ろしい。
縋るように握りしめていたリーナの右手が、するりと引き抜かれる。空々しい言葉を重ねるラプンツェルの唇に、リーナは人差し指を押し当てた。リーナはにっこりと微笑んでいる。それが心からの微笑みでないことは明らかだった。リーナの唇は、おざなりに弧を描くだけ。
「姫様ったら、どうなさったのかしら。ニーダー・ブレンネンは死にました。死者と生者は決して交わらない。それがこの世の理ですわ。ニーダー・ブレンネンの、悪魔の脅威は去ったのです」
リーナが目を細めるのは、瞳の中で磨ぎ澄ます猜疑心を隠すためだろう。ラプンツェルの目から隠すと言うより、きっと、リーナ自身の心の目から隠そうとしている。リーナは家族想いの、優しい娘だから、ぎりぎりまで、ラプンツェルの矛盾に気付かないふりをしてくれているのだ。家族の復讐を誓いながら、憎しみに心を委ねきることの出来ない、ラプンツェルの矛盾に。
リーナはラプンツェルを抱きしめてくれた。リーナは本当に優しい娘だと、ラプンツェルは思う。リーナが彼女の痩せた肩にラプンツェルの額を押し付けてくれたから、ラプンツェルは決定的な落ち度を、リーナの目に晒さずに済んだ。ニーダーの死を改めて告げられた瞬間の、ラプンツェルの欠落を。
ニーダーが死んだ。
(ニーダーが憎い。私はニーダーに全てを奪われた。ニーダーさえいなければ、私は今頃、愛する家族と一緒に、これからもずっと、幸せでいられたのに。私だけじゃない。高い塔の家族の皆もそう、ノヂシャもそう、ルナトリアだってそう。ニーダーに掛け替えのない、大切なものを奪われた。私たちは皆、ニーダーに壊された。何もかも、ニーダーが悪いのよ。ニーダーなんか、生まれて来なければ良かった。消えて無くなれば良い。そうよ。ニーダーは災厄を招く悪魔なのだから、一刻も早く、罪の焔に焼かれて、死ぬべきだったんだわ)
ニーダーの犯した罪はあまりにも重い。ニーダーは赦されない。
ニーダーは孤独な少年だった。孤独がニーダーを歪ませてしまった。孤独が彼の心を雁字搦めに縛り付けているから、彼はいつまでも独りぼっちのまま。可哀そうなニーダー。
同情の余地は、確かにある。けれど、許すことは出来ない。ニーダーの孤独が、ラプンツェルの愛する家族を奪うなんて、こんな理不尽なことはない。そもそも、愛する家族を虐げられ、惨殺されて、それなのに「仕方のない事だった」なんて。納得出来る理由は、この世界の何処を探してもありはしないのだ。
許す理由を見出してしまったなら、心は既に瓦解している。ノヂシャのようになってしまう。否、ノヂシャだって本当は、ニーダーを許してはいないのだろう。ノヂシャ自身は、気付いていないかもしれないけれど。
(私も……壊れているのかもしれない)
ニーダーが死んだ。憎い男が、家族の仇が、恐ろしい支配者が、死んだのだ。ラプンツェルは手放しで喜ぶべきだ。リーナのように。
それなのに、ラプンツェルは途方に暮れている。真っ暗な夜空に独り、取り残されたかのようだった。
ニーダーに全てを奪われ、ラプンツェルは復讐を誓った。ニーダーを憎んで、憎んで、憎んで、憎しみを心の拠り所にしていた。ニーダーの孤独に、歪なのに純粋な愛情に、夢のような優しさに。翻弄されたけれど、ニーダーを赦したことは、一度たりとも無い。
ニーダーが死んだ。憎い男は、もう、この世界の何処にもいない。それでも、ラプンツェルの心に深く刻まれた、ニーダーへの想いは、消えてくれないのだ。
ずっと追いかけて来た星が見えない。たったひとつ、頼りにしてきた道標が無くなった。忽然と消えてしまった。ラプンツェルはたったひとり、暗闇に取り残された。
(いいえ……独りじゃ、ない)
手探りで触れる、揺籠の中で眠るのは、ラプンツェルが産んだ、ニーダーの息子。母の憎悪と、父の罪の為に「呪いの子」として生まれ、忌避される運命を背負わせてしまった。可愛くて、可哀想な、愛しい子。ニーダーは死んだ。この先、ラプンツェルは息子を通してのみ、ニーダーへの想いを反芻することになる。愛すべき我が子に宿る、ニーダーの残像に、その痛みに、振り回されるだろう。
(この子を王城に残して、リーナと一緒に逃げてしまおうかしら。いいえ、いけない。この子は、ニーダーの子だもの。ここに独り残してしまえば、孤独を掻き毟って、そうして……ニーダーのようになってしまうかもしれない。罪のない誰かを、傷つけて、身も心も滅茶苦茶に傷つけて……悪魔と呼ばわれて、憎まれる……ダメよ。この子に、そんな、悲しい人生を歩んでほしくない。だけど……だけど、私が一緒でも……大丈夫じゃ、ないかもしれない。ちゃんと、この子を愛してあげられるのかどうか……自信がない)
私、良い母親にはなれそうにない。そんな泣き言を漏らしたところで、聞き届ける者も、慰める者もいない。大丈夫、大丈夫。と、呪文を唱えるように、ラプンツェルに言い聞かせるニーダーは、もういないのだ。
揺籠に爪を立てる。鋭い爪が揺籠の表面を抉る。息子がまだお腹にいた頃。揺籠の意匠の希望を問われ、答えに窮するラプンツェルに代わって、ニーダーが注文した意匠は、可憐な花模様だった。
後になってリディに聞いた話だけれど、本来なら王子の誕生を願い、勇ましい意匠を凝らすものらしい。その場に居合わせた者が皆、一様に戸惑った様子で押し黙っていた理由はそれだった。
そんな中、ニーダーだけは嬉しそうに微笑んでいた。出来上がった揺籠の出来栄えにも満足していたようだった。大きなお腹を抱えたラプンツェルを抱えるように立ち上がらせると、彫刻を指先でなぞらせ、ニーダーは笑った。「君の花だよ」と言って。
ニーダーは死んだ。その死に様は、どのようなものだったのだろうか。その死に顔は、どのような表情をしていたのだろうか。
ニーダーはカシママに食い殺された。壮絶な最期を迎えたのだろう。それでも、ラプンツェルが思い出すのは、笑顔ばかりだ。怒り狂い、嫉妬に狂い、ラプンツェルを呵責する恐ろしい形相を目の当たりにしたと言うのに、それらはいつの間にか、遠ざかり、霞みがかっていた。
(赦さない、赦さないわ、ニーダー。私は、あなたを赦さない。高い塔の家族に酷いことをして、私のすべてを奪って、たくさんの人を傷つけた。あなたを、絶対に許さない。あなたは罰を受けるべきよ。苦しまなきゃいけないわ。それなのに……ニーダー。あなたは、どうして、死んでしまったの? 愛しているって、ずっと傍にいるって、言ったじゃない。私達を守るって、誓ったじゃない。それなのに……どうして、独り、消えてしまったの?)
ラプンツェルの髪を、リーナが優しく撫でる。赤子をあやすように、ラプンツェルの矮躯を腕の中で揺すって、リーナは言う。
「泣かないで、姫様。もう、怖いことはありませんから」
そのような慰めの言葉を、リーナの優しい声が紡いでいる。けれど、ラプンツェルの涙は止まらない。両手をリーナの背に回して抱きしめて、感謝と愛情を伝えることも出来ない。只管、揺籠に彫り刻まれた、花の模様を掻き毟る。そんな仇事を止められなかった。
「それにしても……驚いた。血も涙もない悪魔でも、我が子は可愛いものなのね」
ラプンツェルの耳元で、リーナはぼそりとひとりごちる。ラプンツェルは呼吸を止めた。リーナの吐息は、危うい熱を孕んでいるよう。胸騒ぎがする。リーナの微笑は陰湿で、快活な彼女にはふさわしくない。
「ニーダー・ブレンネンの死は神罰です。悪は滅びました。しかし、釈然としません。私たちの目から見ると、あまりにも突然で、とても呆気ない幕切れに思えてなりませんもの。姫様も、そのように思召すでしょう? ええ、そうでしょうとも。だから、良かった、本当に。神は私達を愛してくださるんだ。だって、ねぇ、姫様。神は、やり場の無い恨みの矛先を定めてくださいましたもの」
リーナはラプンツェルをぎゅっと抱きしめる。リーナとラプンツェルの胸に、生まれたばかりの赤子が挟まれる。潰してしまっては大変、とラプンツェルはリーナの体を押し返した。
赤子の無事を確かめようと視線を落として、ラプンツェルは息をのむ。
赤子は黒い瞳で、ラプンツェルを見上げていた。その瞳は暗くて、怖い。怖い怖いと思うから、そのように錯覚してしまうのかもしれないけれど。深淵を覗きこんでしまったかのような戦慄に襲われて、ラプンツェルは身動きできなくなった。
ヒルフェとアンナの娘を抱え直し、ラプンツェルを抱きしめて、リーナはくすくすと、楽しそうに含み笑う。高らかにうたう小鳥の囀りのように、朗らかに、リーナは言った。
「神よ、感謝します。あなたのお導きのもと、あたしは誓いを果すことが出来る。この子に、悪魔の血の味を、肉の味を、復讐の愉悦を、味あわせてあげられる。この子は復讐を果たす為に生まれた子。この子の目を通して、あたしはアンナに見せてあげられる。ニーダー・ブレンネンの破滅を。愛する我が子の苦痛と絶望は、きっと、あの男自身のそれよりずっと、あの男を打ちのめす筈……ねぇ、そうでしょう? 姫様! ほら、よくよくご覧なさいませ、姫様! ニーダー・ブレンネンの生き写しです。そこに転がる赤ん坊は呪いの子。父の罪を贖う為に生まれたのです!」




