顧みられない弟
ラプンツェルは息をのむ。人間であったなら、飛び上がった心臓が喉に閊えてしまったかもしれない。息が苦しくて、一言も口にすることが出来なかった。
復讐を成し遂げる為には手段を選ばないと心を決めて、ラプンツェルは小瓶の封を切り、毒杯を煽った。誕生するかもしれなかった命の芽を、その未来を、摘み取ることの罪深さに、恐れは無いと言えば嘘になる。けれど、毒を以て毒を制すことを志した、あの日の決意に後悔は無い。
ラプンツェルの産んだ息子に、銀の神は祝福ではなく、呪いを授けた。ブレンネンを守護する神でさえ、復讐を誓うラプンツェルの背を押している。
銀の神の祝福を授かりし王子が王位を継承することがブレンネン王国の慣わしだから、息子は王位継承権を得られない。服毒によって胎を堕としたラプンツェルは続く子を望めない。
ラプンツェルではない他の女性との間に子を成すことはないという、ニーダーの独りよがりな誓いに嘘偽りが無いならば。悪魔に愛された女は、たったひとりの呪いの子を産み落とし、復讐劇の幕を開ける。
しかし、ニーダーはただ手を拱いてはいなかった。一途な愛を貫くことと、危うい立場に立たされる妻子を守ることを両立させるべく、身代わりを用意することにしたのだ……ノヂシャとリーナを利用して。自身の幸せを守る為なら、他者を蹂躙することも厭わない。その発想は、紛うことなき残酷な悪魔のそれだった。
(リディが話していた通り)
ラプンツェルはごくりと喉を鳴らした。リディの震える手から所望した小瓶を受け取ったとき、伝え聞いた話を思い出す。
ニーダーはノヂシャを罪人の塔に幽閉する心算だ。適当な「伴侶」をあてがって。反抗するようなら、ノヂシャも、その「伴侶」も、抵抗すべき四肢を切り落とされ、剥くべき牙を抜かれる。銀の神の祝福を授かりし男児が産声をあげるまで、ノヂシャも「伴侶」に選ばれた女性も、一切の自由を奪われる。死ぬことさえ許されない。
ニーダーの残酷な矛先が、曲がりなりにも王族に向けられたことで、座視するに忍びない、と密かに重い腰を上げた者たちがいた。ニーダーの企みを阻止するべく、ノヂシャを国外へ逃がす計画が秘密裏に進められている。幸いなことに……と言って良いのか悩むところだけれど……近いうちに、ルナトリアが隣国へ追放されることになる。その時こそ、ノヂシャが亡命する千載一遇の好機となる、筈だった。
ノヂシャが死んでしまったなら、憂国の臣下の目論見は外れる。それどころか、ニーダーとノヂシャ、銀の祝福を授かりし二人きりの王族が共倒れすれば、ブレンネン王家は断絶する。銀の神の加護が失われたとなれば、ブレンネン王国は大変な恐慌に陥るだろう。
ブレンネン王国の崩壊を予感するものの、それ自体は漠然としており、ラプンツェルが大局的な見地に立つには至らない。もとより、ブレンネン王国の行く末にはさして関心がない。ラプンツェルの関心はもっと身近なもの、肌で感じられるようなものに向けられる。
(ノヂシャは、知っていたの? ルナトリアとの間に授かった子を失ってしまって……心の傷はきっと、癒えることはなくて……それなのに、ニーダーは彼の勝手な都合で、ニーダーの手駒になる男の子を、ノヂシャに求めて。知っていたなら、ノヂシャはどう思うかな。ノヂシャはきっと……あんなになってしまっても、未だ……ニーダーを……彼のお兄様を、慕っているのに)
ラプンツェルの背を切り裂いたニーダーが、ひどく狼狽えて、逃げるように寝室を飛び出して行ったあの日。息子を胎に抱えたラプンツェルは、すぐにニーダーを追うことは出来なかったけれど。傷ついた体は、魂に刻みつけられた恐怖に支配され、凍えて震えていたけれど。それでも、ニーダーを独りにしておけなくて、苦労してニーダーを探した先で、ノヂシャはニーダーに縋りついていた。
ニーダーの肩口に埋めていた顔を、さも煩わしそうに上げたノヂシャの、青い瞳に射抜かれて、ラプンツェルの体に悪寒が走った。
体の芯を研ぎ澄まされた氷の刃に貫かれたかのような、凄絶な衝撃がラプンツェルを襲う。ラプンツェルは自身の体を抱きしめて、震えをねじ伏せようとしたが無駄だった。その絶望的な感覚は致命傷に近かった。ノヂシャがラプンツェルをその目に捉え、殺意が沸騰した瞬間、ラプンツェルは殺されていたのかもしれない。それほどまでに強烈な眼差しだった。高鳴る鼓動は葬送の太鼓の音のようだった。
逃げなければと、本能が警告するけれど、体が動かない。恐ろしいのに、目を逸らせない。魅入られたと言っても過言ではなかった。
ノヂシャの瞳の奥を覆い隠し、茫洋たる色に見せかけていた霧が晴れている。曝け出された瞳は光を宿さない。どこまでも続く青い深淵。見つめていると、まるで、空に堕ちてゆくよう。
高い塔の家族の愛と慈しみに抱かれ育ち、歪んではいるけれど、ニーダーからも一途な愛に抱かれるラプンツェルは、どうしようもなく無防備だった。生まれて初めて、明らかな敵意に晒されて、どうしたら良いか分からない。肌はちりちりと焦げるような痛み、背傷はさらなる痛みに絶叫する。息子を抱えた胎が重くて、苦しくて、逃げられない。
ラプンツェルはニーダーの広い背中を一心に見詰めた。憎い仇に縋るしかない、己の無力を嘆くことさえ思いつかない。やっとの思いで開いた唇から漏れ出したのは微かな吐息だけで、助けを求める叫びは声にならなかった。喉がカラカラに乾き、ざらつく口腔が舌に絡んで、ぴたりとくっついた唇が紡ごうとする言葉を封じてしまう。
悲鳴すら上げられず、子兎のように小刻みに震えるしかないラプンツェルの様子が滑稽だったのか、ノヂシャはせせら笑う。ラプンツェルに見せつけるようにして、ニーダーの背をゆっくりと撫で回し、肩甲骨の膨らみを指でなぞる。妖しい愛撫だった。びくりと肩を揺らしたニーダーの顔を覗き込む、ノヂシャの表情を目にして、ラプンツェルは悟る。
ノヂシャはニーダーに縋りつくふりをして、ニーダーを縛めている。
ニーダーの恐怖に震えあがり、怯えて、ニーダーの奴隷に成り下がった哀れなノヂシャの姿は、擬態でしかなかった。ノヂシャの狂気は隷属ではなく、虐げられた者の叛逆でもなく、血を分けた兄への愛執なのだ。
ノヂシャは、目には見えない呪縛に操られ踊らされる、哀れな人形ではない。焼き払われる高い塔へ、ラプンツェルを連れ出したのは、ニーダーの命だろうけれど……ノヂシャはいつだって、彼の指針を失ったことはないだろう。ノヂシャは狂っているけれど、狂気に支配されるのではなく、狂気を飼い慣らしている。
ニーダーが優位に立つ力関係は、もしかしたら、ノヂシャが甘んじて受け入れているものかもしれない。ニーダーの前に跪くことではなく、ニーダーを跪かせることをノヂシャが望んだとしたら、今の力関係を引っ繰り返してしまえるのではないだろうか。それだけの執念と、底の知れない狂気をノヂシャは内包している。
同じように狂っていても、狂気に翻弄されるニーダーは、狂気を飼い慣らすノヂシャに敵わないのではないだろうか。
ラプンツェルがニーダーに助けを求めても、ノヂシャの狂気に絡め取られたニーダーには届かずに、ラプンツェルは今ここで、お腹の子諸共、ノヂシャに殺されてしまうのでないだろうか。
そんな不安に襲われ、心が絶望に閉ざされ、目の前が暗くなりかけたとき。胎に抱える息子に力強く腹を蹴られ、ラプンツェルははっと我に返った。なけなしの勇気を振り絞り一歩を踏み出した結果、ニーダーはノヂシャの抱擁を振り払い、ラプンツェルを抱き上げて、ノヂシャに背を向けた。
ニーダーの温もりに抱かれ、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、ラプンツェルは見てしまった。ニーダーに置き去りにされたノヂシャが泣いていたのを。
目から零れるのが涙でなくても、唇を割るのが嗚咽でなくても。それでも、ノヂシャは泣いていたのだ。幼い子どもが、唯一人、信じて頼りにする人に背を向けられて、悲しくて寂しくて、どうしようもなくて、泣いていた。
目と目が合う。ただそれだけで、あまりにも多くのものを感じ取ってしまった。ラプンツェルはノヂシャとの間に、不思議な繋がりを感じていて。ノヂシャが閉ざすことを止めた今、ノヂシャの心が流れ込んでくる。……そんな気がする。
ノヂシャはニーダーを想うあまり、ニーダーの愛情を独占するラプンツェルを妬み、憎んでいるのだろう。ノヂシャの憎悪が悋気に芽吹き、心に根差したものだと分かるから、ラプンツェルは彼女に殺意を抱くノヂシャを憐れまずにはいられない。
リーナは、そんなラプンツェルの心中を知る由もなく、肩を怒らせて、憤然と声を荒げた。
「ぞっとします! あの、青白い肌色の、痩せっぽっちで、どろりと蕩けるような目をした、気味の悪い男の子なんて……冗談じゃない! そもそも、あたしはノヂシャの趣味じゃないでしょうに。ほら、ノヂシャは年増……いえ、そうじゃなくって、えっと……年上の淑女がお好みなんでしょう? 男が乗り気じゃなきゃ、話にならない。ニーダー・ブレンネンは、適当に尻を叩けば、ノヂシャが子作りに励むとでも思っているんでしょうか? 母様のような知恵があれば、いくつか薬草を摘んで、男をその気にさせる薬を煎じることも出来るそうですけど……でも、毒薬の類ですよ。脆弱な人間が服用すれば命に関わります。ノヂシャも無事では済まない筈」
リーナがはっとして口を噤む。ラプンツェルの尖った眼差しの穿刺を、どのように受け止めたのかは定かではないけれど、リーナは決まり悪そうに目を逸らした。
「つまらないことを申し上げました。ええと、つまり、あたしが言いたいのは……」
歯切れの悪いリーナの弁舌が、不意に途切れる。不審に思ったラプンツェルは、リーナの固定した視線を辿り、その先にあるものを、その意味を知った。
リーナはラプンツェルの息子……高い塔の家族の不倶戴天の怨敵である、ニーダー・ブレンネンの息子が眠る揺籠を凝視していた。




