表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛憎のラプンツェル  作者: 銀ねも
第十八話 運命
175/227

夫の死 

 産まれたばかりの赤子を目にするのは、初めてではない。ラプンツェルのお産に立ち会ったニーダーは、元気に産声を上げた息子を抱えて、母子を対面させた。


 春の花が咲き、夏の日差しが輝き、秋の木枯らしが吹きぬける、その長きに渡って。胎に抱えていた息子が、震えるニーダーの腕の中にすっぽりとおさまっていた。落としたり、潰したりすることを怖がって、がちがちに緊張しているニーダーの、ぎこちなく不器用な抱き方は心地よい抱き方ではないだろうに、息子はおとなしく父に抱かれていた。


 息子は変わり者で、既に子をもつ年嵩のメイド達や、弟が赤子だった頃はせっせと世話を焼いていたと言うリディなどの、赤子の扱いに慣れ、長けた者より、ニーダーに抱かれ、あやされることを好むらしい。少なくとも、ニーダーはそのように認識している。


 ニーダーは時間が許す限り妻子の許へ足を運び、息子を抱いている。癖になってしまうと、心配するメイド達の諌言に耳をかさず、息子を片時も手放そうとしない。ニーダーにとって、赤子の体重など、ふわふわとした綿花のようなものだろうから、お疲れでしょうと、赤子を取り上げるわけにもいかないのだ。そもそも、ニーダーは妻子と過ごす水入らずのひと時を大切にしており、使用人の長居を煙たがる。だからメイドも親衛隊も、不用意に近寄れない。


 そうして、ニーダーの抱き方にすっかり馴染んだ息子は、他の者が抱くとそわそわと落ち着かない様子を見せるようになったらしい。この分では、近いうちに乳母が授乳の際に苦労するようになるのでは、とメイド達は頭を悩ませているようだ。


 仕える者たちの、そんな気苦労は露知らず、ニーダーは呑気なものだった。


「アクレイギアは赤子ながら泰然自若としていて、不機嫌になることは滅多にないが、私が抱いてやると、特に機嫌が良い。父親がわかるのだろう。賢い子だ」


 と、息子をあやしながら、ニーダーは誇らかに微笑む。そして、物言いたげな表情でラプンツェルを見つめる。父親のことがわかるのだから、もちろん、母親のこともわかるだろうと、言外に告げていた。つまり、ニーダーはこう言いたいのだ。そろそろ息子を抱いてやってはどうか、と。


 ニーダーはことあるごとに……執拗と言っても良いかもしれない……息子との触れ合いをラプンツェルに勧める。その都度、適当な言い訳を捻り出して、はぐらかそうとするけれど、うまく出来ているとは思えない。


 父親の不満を敏感に感じ取るのか、息子は真紅の瞳をくるりと巡らせて、おぼろげな視界にラプンツェルを捉える。手足をばたつかせながら、母に抱き上げて欲しいと強請るように、一際高く喃語を発した。


 ニーダーの持論では、親子の絆は何よりも勝るものだから、ラプンツェルが息子に対して余所余所しい態度をとることが解せないのだろう。両親に愛されなかったニーダーだから、持論というよりは、憧憬と願望から成る信仰なのかもしれないけれど。息子の柔らかな温もりを胸に抱けば、息子の愛らしさが、我が子に対する情が薄いラプンツェルをたちまち、慈愛に満ちた母親にしてくれると、ニーダーは信じている。


 ラプンツェルがニーダーに対する憎悪に支配され、彼の息子を床に叩きつける恐れがあるなど、ニーダーは夢にも思わない。


 ニーダーの面影を宿し、ニーダーに加勢さえする……ように思われる……息子を抱き上げて、正気でいられるか。ラプンツェルは自信がもてなかった。


 息子に触れられない。抱き上げるなんて、もってのほかだ。錯乱して、息子を投げ出してしまっては大事だし、それ以上にラプンツェルが恐れているのは、ニーダーの思惑通り母性が目覚め、息子の父親であるニーダーへの復讐の誓いに綻びが生じることだ。


 ニーダーが愛する息子を抱き上げて惜しみない愛情を注ぎ、あやされた息子が体中で喜びを表現する。幸福な父子は、ニーダーの理想を描いた一服の絵画のようだ。息子が産まれたその瞬間、父と子は特別な絆で結ばれていたように思われた。父親の無上の喜びは、産まれたての息子を幸せの結晶のように煌めかせる。眺めていると、惑わされてしまいそうで、怖くなるほどに。


 産まれたばかりの赤子を目にするのは、初めてではない。だからこそ、血塗れの赤子と、赤子を抱える血塗れのリーナの様子を異様だと思った。


 リーナの腕の中で眠る赤子の、血糊がべっとりと纏わりついた滑らかな肌は、光を跳ね返し、蛇蝎の鱗のように不気味な光沢を放っている。リーナはこの子を、遺された家族だと言った。目を凝らせば、小さな頭部に鴉の濡れ羽色の髪がはりついている。閉ざされた瞼の奥には、鳶色の瞳が隠れているのだろう。この赤子は、最も幼い高い塔の家族なのだ。それなのに、新しい家族を腕に抱くリーナの顔は、怨敵の首を狙い大上段に剣を振りかぶる瞬間の鬼気迫る形相に変わっていた。


 恐怖の冷たい鎖が、ラプンツェルの胸を締めつける。ラプンツェルは喘ぐように息を吸い込んだ。震える唇から、蚊の鳴くような声を絞り出す。


「その子は……?」

「アンナが産みました。ヒルフェ坊ちゃまのご息女です」


 リーナは間髪いれずに答えた。ラプンツェルは自ら訊ねておきながら……想定し得る事実であったにも関わらず……突きつけられた衝撃に耐えきれず、無様にうろたえてしまった。

 ヒルフェは高い塔の次の主として、アンナは高い塔の末っ子として、愛と慈しみだけに抱かれ育った。二人とも、こどものように無邪気で純粋無垢だった。いけないとわかっているのに、ラプンツェルは顔を背けてしまう。


 ヒルフェとアンナが被った苦痛と汚辱は、王の寵愛に守られ、ぬくぬくと過ごしたラプンツェルの想像を絶するものに違いない。血塗れの赤子に、二人の面影を見つけてしまうことが今はとても恐ろしくて、赤子を直視することは出来なかった。


「姫様は、カシママのこけら落としがあったことをご存じでしょうか? こけらの一片が、高い塔の家族が囚われる「罪人の塔」に堕ちたことは?」


 ラプンツェルの動揺を慮ってくれたのだろう、リーナの声調は幾分か和らいでいた。リーナはラプンツェルの膝先に跪く。ラプンツェルが恐る恐る顔を上げると、リーナと視線が絡んだ。ラプンツェルが頭を振ると、リーナは躊躇うように、視線を逸らす。けれど次の瞬間には、強い決意を宿して、ラプンツェルを真っ直ぐに射抜いた。


「あたしはアンナの最期を見届けました。その後すぐに、アンナに託されたこの子を抱えて、命からがらに逃げ出したんです。ヒルフェ坊ちゃまや、姉様、兄様達がどうなったかは、わかりません。けれど……逃げられたとは思えません」


 淡々と告げる言葉とは裏腹に、その瞳の奥では、揺るぎない決意の焔さえ凍える、痛切な悲しみが込み上げているようだった。善良な娘にはあまりにも酷なアンナの最期に想いを馳せると、不覚の涙がラプンツェルの冷え切った頬を流れた。当事者であるリーナは、心を強くもち、見事に自制してみせたと言うのに。己の心の脆さを恥じて俯くラプンツェルの髪を、リーナが撫でる。血に塗れていても、暖かなその手は優しい。


「泣かないで、姫様。家族の死はとても悲しいことですけど、嘆くことじゃありません。ねぇ、姫様? あたしはずっと、死はよそよそしくて、冷やかで、恐ろしいものだと思い込んでいました。どんな時も、死神は招かれざるものだって。でも、違ったんです。時として、死は救済になり得ます。アンナが生きている限り、心を壊される苦痛から解き放たれることはかないませんでした」


 ラプンツェルの弱さを責めず、慰めてくれるリーナの優しさは、脆く崩れ落ちてしまいそうな心に沁み入り、焼けつくような痛みをもたらす。辛いのは、ラプンツェルばかりではない。リーナだって、否、リーナこそ辛い筈だ。リーナはたったひとりの妹として、親友として、アンナのことを可愛がり、とても大切に想っていた。そんなアンナの死を、救済だと受け止めなければいけない、リーナの心痛は察するにあまりある。


 だから、悲嘆にくれて、リーナを煩わせてはいけない。それなのに、ラプンツェルは嘆いてしまう。


「神様は、高い塔の家族を愛してくださらないの? どうして、こんなに惨い仕打ちをなさるの? 酷い、あまりにも、酷いわ」

「神は試練を与え賜います。ですが、それだけではありません。神は慈悲も与え賜うのです。カシママのこけらはきっと、神のご慈悲なんです。苦しみに囚われた家族の魂を解放し、家族の仇を討ってくださります」


 嘆くばかりで何も出来ない、不甲斐ないラプンツェルを、リーナは辛抱強く宥めてくれた。けれど、ラプンツェルの涙を止めたのは、優しい慰めではなく、その言葉尻から聞きとった、奇妙な陶酔の響きだった。耳に触るそれを聞き取り、ラプンツェルの嗚咽はぴたりと止まる。呼吸さえ忘れていた。リーナは血塗れの赤子に頬ずりをして、恍惚とした表情で、高らかに叫んだ。


「ニーダー・ブレンネンは死にます。神意が悪を滅ぼすのです! ええ、ええ、そうです。そうなんですよ、姫様。ですから、姫様はもう、怯えなくて良いんです。邪悪な魂は地獄に堕ちる……いいえ、あるべき処へ還ります! ニーダー・ブレンネンはカシママに喰い殺されるんです。ニーダー・ブレンネンは愚かにも、自らの意思でカシママの顎を潜り抜け、腹の中へと潜りこんで行きました。度し難い抜け作ですよ! 今頃は跡形もなくなっていることでしょう!」


 唖然とするラプンツェルの前で、リーナの歓喜の叫びは長く尾を引き、やがてけたたましい哄笑に変わる。


「ニーダー・ブレンネンは死んだ! カシママに喰い殺された! 神は悪魔を裁き、苦痛に満ちた死を与え賜うた! ええ、そうに決まっています。カシママの宿主はニーダー・ブレンネンを恨んでいたそうですから。じわじわと嬲り殺したに違いありません! あの男は、地獄の業火に焼かれる苦痛に苛まれ、すじりもじり死んだでしょう。良い気味だわ! ざまあみろ……ざまあみろ!」


 リーナの可憐な口唇を割って噴出する怨嗟の言葉は、おどろおどろしい黒い煙となって、目に見えるようだった。リーナの苛烈な憎悪は、彼女が耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ、心の拠り所だったのだろう。こんなにも、強く、硬く、大きく、禍禍しく育てなければ、リーナの心を支えることは出来なかったのだ。


 リーナは、ラプンツェルと復讐の愉悦を分けあうことを望んでいるのだろう。ラプンツェル自身も、そうするべきだと考え、そうすることを望んでいた。目をそむけたくなる程に恐ろしくても、リーナの胸に渦巻く憎悪は、高い塔の家族皆の憎悪の結晶なのだろう。ならばラプンツェルも、それを受け容れるべきだ。


 ラプンツェルはリーナと笑声を重ねて嗤おうとした。ところが、ラプンツェルの心を占めるのは、憎しみをかきたてる、高い塔の家族と共に過ごした薔薇色の日々ではない。

 見捨てないでくれと縋る、憎むべき男の惨めったらしい泣き顔。それを目の当たりにして感じた、戸惑いと動揺だった。


「ニーダーは……なぜ、そんなことを?」


 魔法にかけられた泥人形のように、ラプンツェルは漫然と訊ねていた。リーナの嘲笑は、心臓に氷水を注ぎ込まれたかのように、凍りつく。ラプンツェルを復讐の同志として捉えていた眼差しが色を変え、猜疑心を覗かせる。ラプンツェルは慌てて頭を振った。


「違うのよ。ニーダーが……私達を残して、独りで死のうとするなんて……考えられないの。ただ、理由が知りたくて……それだけなのよ。だから、違うの」


 違うと、リーナの疑いを否定しながら、何を否定しているのか、ラプンツェルにはよくわからなかった。ついさっき、口走った言葉の真意が、自身の心が、わからない。


「カシママに捕食されたノヂシャを連れ戻そうとしたようです。……ニーダー・ブレンネンは恩情に富む兄だ、なんて、思い違いをなさらないで下さい。血を分けた弟へ情けをかけるなら、ノヂシャは壊れていなかったでしょう」


 リーナはおもむろに口を開いた。饒舌さはなりを潜め、慎重に言葉を選んでいる。警戒心を剥き出しにされ、ラプンツェルの心は傷ついたけれど、リーナを責めるのはお門違いであることは、きちんと弁えている。だから、リーナが思索に耽る間に、ラプンツェルは引き出した情報を精査しようと試みた。


 ノヂシャがカシママに捕食された。カシママに捕食されたノヂシャを、ニーダーが連れ戻そうとした。なぜ? ニーダーは、実弟を蛇蝎の如く忌み嫌っていたのに。


 ノヂシャは、ニーダーの親友であるルナトリアの心を奪い、ニーダーの最愛の息子の命を奪おうとした。ニーダーは決して、ノヂシャを許しはしない。


 だから、ニーダーがノヂシャを連れ戻そうとするのは、情けではなく、もっと冷たい理由の為。冷徹な打算を働かせてのことだろうと思う。

 

 しかし、そうだとすれば、下の者に命じるのではなく、ニーダー自らが救出に赴くのはおかしい。襲われたのが、ノヂシャではなくルナトリアだったなら、納得も出来るのだけれど。そもそも、ノヂシャがカシママに襲われるのは妙だ。カシママは石の心臓をもつものを捕食するもの。血肉をもつものを喰らうことはない。カシママが血肉をもつ女を襲うのは、女の胎に寄生して成長する為なのだ。


 そこで、ラプンツェルははっと気がついた。


(さっき、リーナは言っていた。カシママの宿主は、ニーダーを恨んでいたって。血肉をもつ男性が……ノヂシャがカシママに襲われたのは……宿主の近くにいたから。宿主が、ノヂシャに執着していたから。ノヂシャを想い、ノヂシャが仲良く一緒に過ごす女性は、ルナトリアしかいない!)


 ラプンツェルは苦しい胸を抑えた。恐ろしいけれど、そう考えればつじつまが合う。ニーダーはルナトリアを見限ったつもりでいたようだけれど、いざ、親友が窮地に立たされれば、見捨てることは出来なかったのではないか。


(ルナトリアの為に、ニーダーは命を懸けた? あの子を殺そうとしたのは、ノヂシャだけじゃない。ルナトリアもそうしたのよ。ルナトリアはニーダーを愛していた。だけど、壊れてしまった今では、きっと、ニーダーを恨んでいる。それなのに、ニーダーはまだ、ルナトリアのことを大切に想っているの? 私と、あの子よりも大切なの? 私から愛する家族を奪った癖に、自分は友情に殉じて死んだの? そんな最期を迎えるのなら、どうして、私の愛を求めたりしたの!?)


 噛みしめた唇が破れ、血の香が口腔にむわりとひろがり、強い塩味が舌を突き刺す。眉を顰めたのは、ぴりっとした痛みの所為ではなく、腹の底から込み上げる不快感の所為。そうと気付いて、ラプンツェルは戦慄した。


 ニーダーが死んだ。そう伝え聞いた心にこみあげるものは無かった。突然のことで、感情が追いつけなかったのかもしれないけれど、ラプンツェルは只管、戸惑っていた。

 ところが、ニーダーが唯一人心を許した女性が、彼の死因となった可能性に思い至った途端に、胸を満たした憤怒。家族の仇が死んだと言うのに、こんな、身勝手な感情に振り回されるなんて、恥ずべきことだ。


 血の気が引いた頬は、病的に蒼褪めて見えただろう。鋭い目つきでラプンツェルを凝視していたリーナが、たじろぐ気配がした。リーナは手を差し伸べて、ラプンツェルの頬に触れようとして、けれど思い止まって、太股の上に落とした拳をぎゅっと握った。頭を軽く振り、仕切りなおす。


「ニーダー・ブレンネンがノヂシャを連れ戻そうとするのは、ノヂシャに流れる血に利用価値を見出したからに他なりません。ブレンネン王国では『銀の祝福』を授かりし王子が、父王亡きあと国王に即位します。姫様もご存じでしょう。では、このことはご存じでしょうか? 高い塔の女の血がブレンネン王家に『銀の祝福』を授けるということは?」


 リーナは、ラプンツェルの答えを待たなかった。驚愕に目を瞠ったことで、ラプンツェルは既に、リーナの疑問に答えていた。リーナはひとつ頷くと、ひび割れた声で言った。


「ニーダー・ブレンネンは、あたしにノヂシャをあてがって『銀の祝福』を授かった男児を産ませるつもりでいたんです」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ