再会
米神に埋まる石の心臓が、どくどくと脈打つ。高鳴る鼓動が荒廃した心に反響していた。踵を鳴らし、運命が迫り来る。
強い脈動が惹き起す頭痛さえ忘れて、ラプンツェルは窓辺に駆け寄った。窓の向こうに、血塗れの少女が佇んでいる。乱れ髪が張り付いた、窶れた頬が引き攣っている。喘鳴を漏らす罅割れた唇の動きを読むと、少女はラプンツェルを呼んでいた。姫様、と呼んでいたのだ。
ラプンツェルは窓を開け放つ。夜を渡った冷たい風が吹き込み、カーテンは白波のように揺れた。続いて、噎せかえるような血の香を痩身に纏わせて、少女が部屋に転がり込んで来る。
つんのめる少女を慌てて抱きとめると、少女はひっしとラプンツェルに縋りついてくる。少女は震えていた。
「リーナ! どうしてここに? こんなに……血塗れになって! ああ、こんなことって……リーナ、大丈夫? まさか……酷い、怪我を……!?」
ラプンツェルの体はがくがくと震えた。リーナは無言で頭を振るけれど、ラプンツェルには信じられなかった。リーナは、生き残った家族と同様に、罪人の塔に捕らわれていた筈だ。邪悪な謀をするニーダーが、虜囚を解き放つとは思えない。まして、王妃の庭に虜囚が足を踏み入れることを許す可能性は、万に一つも無い。リーナは逃げて来たのだ。
はっとして、ラプンツェルは開け放った窓の外に注意を向ける。辺りに、追手の姿は見あたらない。リーナが王妃の庭に駆け込むところを追手が目撃していれば、追手は死に物狂いで追いかけてくるだろう。リーナがラプンツェルと接触することを、何としてでも阻止しようとする筈だ。足で追い付けなくても、大声で王妃の護衛に警戒を促すことくらいは出来る。物影に身を潜めて、様子を窺うなんて、悠長なことをしている場合ではないだろう。何せ、その者の命がかかっているのだから。
騒ぎになっていないということは、リーナは追手をまいたのか。或いは、脱走を誰にも悟らせなかったのか。銀の星が降って来た、この混乱に乗じて、監視の目を掻い潜ってここまで来たということか。
(わからないけど……今はそれよりも、リーナの体が心配)
重ねた胸に染みる血は、まだ新しい。リーナが傷を負っているとしたら、その傷口は淋漓と血を流している。
リーナは、日常的に虐待されていたのだろうか。曲がったことの嫌いな娘だから、ニーダーとその手先の暴虐に憤り、反抗したことだろう。高い塔が焼き払われた際に、家族を守る為に奮闘したように。反抗的な態度が目に余ると、目の敵にされていたとしても不思議では無かった。
居ても立ってもいられなくなったラプンツェルは、リーナの怪我の具合を確かめる為に、リーナの肩に手を置き、その体を押し戻そうとした。ところが、リーナは離れることを嫌がり、もがくラプンツェルを、半ば強引に腕の中に納めてしまう。ラプンツェルは困惑した。苦痛に錯乱しているのかもしれないリーナの背を軽く叩いて、説得を試みる。
「リーナ、落ち着いて。怪我をみせて? 手当をしなきゃ。大丈夫。私はお医者様じゃないけれど……見様見真似だけれど、ちゃんとするから。ね? お願い」
「……いいえ、姫様。私に怪我は、ありません。私の血じゃ……ないんです」
リーナはくぐもった声で、それでも存外にしっかりとした声調で答えると、悲痛な嗚咽を漏らした。
ラプンツェルの肩口に顔を埋めて、泣いている。滅多なことでは弱さを見せない、気丈夫な少女が堪え切れずに流した大粒の涙は、言葉にするより雄弁に、悲惨な巡り合わせを物語っていた。ラプンツェルは堪らなかった。
「リーナ……。私、夢を見ているのかな? あなたがこうして、私に会いに来てくれるなんて……まるで、夢を見ているみたい。でも、夢じゃないよね」
瞼を焼くような熱い涙が溢れ、無暗に頬を流れる。涙の跡は火傷したようにひりついた痛みを訴えていた。
「ごめんね。怖かったよね、辛かったよね。私、何もしてあげられなかった。ごめんなさい、リーナ」
リーナはラプンツェルの肩先に額を押しつけるようにして、頭を振った。声を殺し、肩を細かく震わせて、リーナは泣いている。泣いていることを誰にも気取られたくないと意地を張る様子は、幼い頃から変わらない。
ラプンツェルは少女をぎゅっと抱きしめた。ぐんぐんと背が伸びて、あっと言う間にラプンツェルを追い越した長身を、少女が幼い頃にそうしたように、抱擁して慰めようとした。
(私より背が高くても、私よりしっかりしていても、私よりずっと強くても、それでもいつまでも、この娘は私の可愛い妹だもの)
ラプンツェルは少女の髪を撫でた。艶を失った蓬髪は、そっと触れても、きしきしと痛み、悲鳴を上げている。長い間、散髪や手入れはおろか、梳ることさえしていないのだろう。櫛のとおった長い銀髪の艶やかさはラプンツェルの自慢だけれど、それを、後ろめたく思う日が来るとは思わなかった。
アンナの頬をべっとりと濡らす血糊を袖で拭い、張り付いた髪を耳にかけようとして、ラプンツェルはぼろぼろと涙を零した。リーナには右の耳殻が無い。ニーダーの手先によって削ぎ落されてしまった。凄惨な場面の一部始終を、ラプンツェルは目の当たりにしていた。
リーナの痛々しい様子は、ラプンツェルの胸を締め付ける。それでも、ラプンツェルは罪の意識に蓋をした。己の罪深さにうろたえて、どうか許して欲しいと縋りついても、優しいリーナの心の負担になるだけだと思う。家族の無事を確かめたい気持ちが込み上げるけれど、それにも蓋をする。訊いてしまえば、リーナの心に刻まれた深い傷をさらに抉ることになってしまうから。リーナの想いを優先したい。
リーナは決死の覚悟で、罪人の塔を脱出したのだろう。その足で、この恐ろしい城から逃げ出すことも出来たのに、リーナはそうせず、牢獄に連れ戻される危険を犯して、ラプンツェルの許を訪れた。ラプンツェルに何かを求めて来たのだろう。
(リーナの想いに応えなきゃ。リーナが何を望んでも……どんなに困難でも、絶対に叶えなきゃ)
今の今まで、何だかんだと理由をつけて、先送りにしてきた悲願の達成。家族を地獄から救い出すということ。リーナの望みはきっと、ラプンツェルと同じだから。
ニーダーに交渉したところで、はぐらかされるに決まっている。しつこく食い下がれば、ラプンツェルが脅かされるだろう。
それでも、ニーダーに掛け合うより他にない。高い塔の家族は皆……幸いにも、リーナは例外だったけれど……四肢を切断されたと聞いている。彼らは逃げることが出来ない。宿り換えの体を人数分、秘密裏に用意するなんて、まず不可能だ。
(私を愛しているのなら、家族を解放して……なんて迫ったら、ニーダーはどんな顔をして、何てこたえるかしら?)
どうせ、ろくなことにはならないだろう、とラプンツェルは思う。ニーダーのひとりよがりな愛は、ラプンツェルの希望を奪い、絶望を与えるものだから。
(ノヂシャとルナトリアから、私とあの子を守ってくれたとき……ニーダーに感謝するのは、きっと、あれが最初で最後ね)
ラプンツェルはリーナの背を撫でて宥めながら、リーナが口を開くのを待っていた。ふいに、リーナはラプンツェルの背にしがみついていた手を放す。ラプンツェルの肩を流れる、長く豊かな銀髪を一房手にとった。細い指が、ラプンツェルの髪を梳く。懐かしい感触に、リーナだけではなく、ラプンツェルもまた涙ぐんでいた。
王妃とは名ばかりの虜囚の身ではあれ、髪の手入れを怠ったことはない。寧ろ、高い塔で暮らしていた頃よりも、念入りに手をかけている。ニーダーは妻の美しい髪を、特別に愛でており、貴重な薬湯や椿油を贅沢に、惜しみなく注いで、毛先まで丹念に手入れされている。それでも、なんとなくくすんでいた銀髪は、リーナが触れたところから、誇らかな輝きを取り戻す。リーナが目を細めると、睫の裏に溜まった涙がはらはらと零れた。
「姫様……あたしこそ、ごめんなさい。遅くなって、ごめんなさい。今、やっと……お迎えに上がりました」
ラプンツェルは耳を疑った。戸惑うラプンツェルの手をとり、リーナは重ねて言った。
「道案内はお任せください。あたし、秘密の地下通路を知っているんです。見張りのことも、心配なさらないで。カシママのこけらが王城に降ってきて、ブレンネンの人間どもは混乱しています。今が好機です。ご安心なさいませ。必ず、無事に王城の外へとお連れ致します。さぁ、参りましょう」
リーナは呆気にとられるラプンツェルの手をひき、バルコニーへと続く窓辺に誘う。そこから庭に出ることは容易い。リーナは欄干を跨ぎ超え、庭に飛び降りると、くるりと転向して、両腕を広げた。ラプンツェルを抱き降ろしてくれるつもりらしい。そうされるのは、初めてのことではない。初めて、この部屋から逃げ出したとき。ノヂシャがそうして、ラプンツェルを部屋から連れ出した。
秘密の地下通路の在り処は、ラプンツェルも知っている。ノヂシャの優しい言葉を信じて、ラプンツェルは彼の手をとった。ニーダーが裏で糸をひいているなどとは夢にも思わず、秘密の地下通路を通りぬけて、辿りついた生家は炎上していた。高い塔の家族の幸せを焼き払った男は、白銀の焔を宿した瞳でラプンツェルを睨みつけて、ラプンツェルを罵ったのだ。
『ラプンツェル。私を、裏切ったな』
目の前で揺れる蝋燭の灯を吹き消すことを恐れるように、密やかに囁いた男の瞳は失望に翳り、怒りに濁り、愛執に燃えていた。あの瞬間、ニーダーは恐ろしい悪魔と化していた。
(私の愚行の報いは、私の家族が受ける。私がニーダーを愛さないなら、私の家族は、ニーダーにとって何者でもない)
「だめ!」
掠れた声で、ラプンツェルはリーナを拒絶した。身を翻し、部屋に逃げ帰る。膝が笑い、立っていられず、へなへなとへたりこんだ。はためくカーテンに、欄干に飛びつくリーナの影がうつりこんだ。
「そんな……姫様、どうして!?」
問いただす声は悲鳴のように耳を劈く。リーナの表情を見る勇気はない。ラプンツェルは固く目を瞑って、ぶんぶんと首を振った。
「だめ。だめよ、私はいけない」
「だから、どうして!?」
繰り返し問いただす言葉が毛羽立っている。短気なところがある娘だから、声を荒げることはしょっちゅうだったけれど、ラプンツェルを相手に、苛立ちを露わにしたのは、ラプンツェルの覚えている限り、これが初めてである。ラプンツェルは首を竦ませた。びくびくしたのはほんの一瞬のこと、紫電のようにぴりりとした苛立ちは、ラプンツェルにも伝染した。ラプンツェルは声を押し殺し、けれど、鋭く言い返す。
「ニーダーがいる! あの男は、私が逃げることを決して許さない。あの男は、私を彼のものにする為なら、どんなに残酷なことでもしてしまうの。想像出来る? 私が逃げたら……残された皆が、どんなに酷い仕打ちを受けてしまうか……!」
ラプンツェルは言葉に詰まった。一度は逃げようとした。その報いを、ラプンツェルが一身に受けたなら、どんなに良かったか。恫喝され、殴られ蹴られ、髪を掴まれひき回され、繰り返し鞭打たれ。恐ろしく辛かったけれど、家族が巻き添えを食わなければ、こんな風に、ニーダーが恐ろしく堪らなくて、逆らうことを考えただけで心臓が潰れてしまいそうになることはなかっただろうと思うのだ。唇を強く噛みしめて、涙が溢れそうになるのを堪えていた。
ゆらりと、陽炎のように、影が揺れる。見上げると、リーナがバルコニーに立ち尽くしている。影が虚ろに言った。
「家族は皆、死にました」
強かに殴られたように、茫然とした。胸の前で合わせた手が震える。
「そんな、そんな筈ない……皆は……人質で……それに、それに……ブレンネン王家には、影の民の血が必要だって……だから、無事で……いてくれるって、私……」
「たとえ、心臓が鼓動していたとしても、死んでしまいたいと願っているなら、そんなの、死ぬよりもっとずっと、酷いじゃないですか!」
弁解のようなラプンツェルの言葉を、リーナの絶叫が遮った。首に縄をかけられ、引っ張られるかのように、ラプンツェルは顔を上げる。いつの間にか、目の前にリーナが跪いていた。
「生き残ったのは、あたしと、姫様と……この子だけです」
射るように強い眼差しがラプンツェルに突きつけられる。その腕には、血と羊水に濡れた、生まれて間もない、臍の緒がついたままの赤子を抱いていた。




