母の憎悪
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その夜明けは煌めいていた。カーテンの隙間から差し込む白銀の斜光は、バラ窓を通りぬけたかのように七色に彩られ、閉ざされた部屋の片隅でくるくると踊り巡っている。
ラプンツェルは寝台の上で膝を抱えて、ニーダーの帰りを待っていた。すぐに戻ると言い残し出掛けたニーダーは、ところが、ラプンツェルの肌に残る彼の温もりが消え失せても未だ、戻らない。
「ニーダーの嘘つき」
ラプンツェルは小さく呟いた。それから、頭を振る。ニーダーの酷薄な唇が嘯く、耳に心地よい囁きを、そもそも、真に受けてはいけない。ニーダーはラプンツェルの目を覆い耳を塞ぎ、両腕の輪という優しい檻の中に、ラプンツェルを閉じ込めてしまう。不都合な真実は隠蔽してしまうし、美しく取り繕った夢幻を信じさせる為ならば、実しやかに嘘を吐いてしまう。
(そう。ニーダーはいつまでも、私には秘密にしておけるって、たかをくくっているんだわ。高い塔の家族達を家畜に貶めたこと。私の生んだ王子は、ブレンネンの神を冒涜する呪いの子だということ。私には、その呪いの子の他に、こどもを望めないこと。ニーダーは、私を心地よい嘘で囲い込んで、それで守ったつもりでいる。その秘密は既に暴かれてしまった後なのに。ねぇ、ニーダー。空蝉を守る為に必死になって、空回りするあなたの姿勢は、どうしようもなく滑稽ね)
ラプンツェルはほくそ笑んだ。そこに愉悦は欠片もなくて、虚しいばかりだった。
ニーダーは、高い塔の家族の幸せを焼き払い、その残骸を礎にして、彼の夢物語を描いていた。ラプンツェルは、そうと知りながら、家族の現状を知ろうとせず、出来る筈の可能性から目を逸らしていた。無意識の内に、知ることを恐れていたのだろう。
ラプンツェルがぐずぐずしている間に、愛する家族の皆は、手足を落とされ、牙を抜かれ、最悪の方法で辱められていた。ブレンネンは、まるで家畜を交配させるかのように、高い塔の家族の男女を無作為に交わらせ、子を孕ませ、産ませていたのだ。心を砕かれ、果ては家族の絆まで断たれ……家族の大半の正気は失われてしまったと言う。
残酷な真実を赤裸々に伝えられなければ、惰弱なラプンツェルは、ニーダーの恐ろしさと紙一重の優しさ、痛ましい翳りに惑わされたまま、ニーダーとの子を産んでいたことだろう。我が子の誕生を心から望んだニーダーが、大変な試練を乗り越え産まれた我が子を抱き上げ、感極まる姿を見たとき。感涙に濡れた震える声で、ありがとう、愛していると、ラプンツェルの耳元で囁いたとき。もし、家族の現状を知らなければ、ラプンツェルは、ニーダーと感動を共有してしまったかもしれない。
たとえそれが、その瞬間に限ったことであったとしても、この男の子を無事に産んであげられて良かった、などと思ってしまったら、家族への裏切りが決定的なものになる。絶対の禁忌を犯すことになる。芽生えた想いを無に帰すことは出来ない。ニーダーは、彼の望むものを手に入れただろう。
ニーダーは悪魔だ。絶対に許さない。そう再認識したことで、ずっと、ニーダーの良いように転がされていたラプンツェルの心は、ようやく、ニーダーの掌から逃れることが出来た。
けれど、ニーダーの思い通りにはさせなかったと、胸を張って誇ることは出来ない。ラプンツェルの自力では、ニーダーに絡め取られたままだった。リディの手柄だ。リディのおかげで、ラプンツェルは辛うじて、腑抜けずにいられる。
ニーダーの子をお腹に抱えたラプンツェルに、リディは教えてくれた。罪人の塔に捕らわれた「影の民の末裔達の末路」について。
心揺れるラプンツェルは身も心も、ニーダーの優しさに包み込まれ、くらくらと酩酊したように、ニーダーの胸へとよろめきかけていた。ちょうどそのとき、見計らっていたかのように絶妙の頃合いで、リディはニーダーの悪魔の所業を暴露したのだ。
「塔に捕らわれた方々は、お妃様のご家族だと伺いました。陛下はお妃さまに、あのような、ご無体な仕打ちをなさったのに、お妃さまのご家族にまで、そのような……恐ろしいことをなさったのです!」
頬を紅潮させたリディの細い肩には力が漲り、エプロンを握りしめた拳はかたかたと震えていた。この話しを耳にした、心根の真っ直ぐなリディは義憤にかられ、居ても立っても居られなくなり、その足でラプンツェルの許へ馳せ参じ、人払いを願ったのだと言う。
告げられた真実の、あまりの凄惨さに、膝から崩れ落ちるラプンツェルを抱きとめて、リディはうろたえ涙しながらも、切々と訴えた。
「申し訳ございません。お妃さまと御子さまには、今が大切な時だと、重々承知しております。本来なら、このような恐ろしいこと、お妃さまのお耳にいれるべきではないのでしょう。ですが……ですが! このまま、お妃さまが何もご存じないままでは、あんまりです! 陛下があのようなご無体な仕打ちをお妃さまにされても、お妃さまは陛下のご寵愛に真摯に向き合われ、お心を悩ませていらっしゃるのに……陛下は、お妃さまの真心に向き合おうとはなさりません! 全て、ご自身のよろしいようになさって、お妃さまの御身もお心も傷つけてばかりで! 私には、わかりません。どうして神様は、あのような恐ろしいお方に、祝福を授けてしまわれたのでしょう!」
言っているうちにリディは昂り、わっと泣き出した。ラプンツェルを抱きしめ、泣きじゃくる少女は善意に満ち溢れている。リディの感情には不穏な類の入れ子はなく、ラプンツェルの為に憤り、憂い、嘆き悲しんでいるのだと分かる。
その思いやりを、ラプンツェルは嬉しく思った。けれど、心の仄暗い深部では、リディのお節介を恨めしく思ってしまった。リディの善意は、いつのまにか歩みを止めていたラプンツェルの背を押してくれたのだ。リディには感謝しなければならない。そうとわかっていても、理不尽な憤りを感じずにはいられなかった。
苦しくて、辛かった。目の前が真っ暗になった。足元が崩れ、どこまでも堕ちて行くような……楽園を追放されるかのような……そんな、絶望的な錯覚にとらわれていた。
ラプンツェルに突きつけられた事実は、銀の焔を纏う剣の切っ先となって、ラプンツェルに至死の苦痛を齎した。ラプンツェルは我が身可愛さに、愛する家族を蔑ろにしてしまった。憎い男に縋ってしまった。ニーダーを愛するなんてこと、天地がひっくり返ってもあり得ないのに……そうすれば、諦めてしまえれば楽になれると、きっと、心の何処かに潜む、姑息な彼女は思い至ってしまった。だから、何だかんだと、理屈をこねて理由をこじつけて、ニーダーに絆されてしまおうとしていたのだ。そうすれば安寧が得られる。母親として、我が子の誕生を喜び、我が子を慈しみ育むことが出来る。ニーダーがそれに満足して、優しい夫であり父であってくれれば、ラプンツェルもまた、妻であり母であることが出来る。
そんなことをしても、逃げられはしないのに。愛する家族との幸せな日々を奪われ、暴力と恐怖によって支配された記憶は、いずれ、ラプンツェルを狂わせる。破滅の運命からは逃れられない。
だから、ラプンツェルは心の内で、ニーダーへの感情を大きく育てることにした。ニーダーの優しさと孤独に触れた記憶が、憎悪を倍加する筈だから。光が眩く輝く程に、影が色濃く暗くなるように。
それなのに、肥大化した憎悪の行き場がない。
溜息を吸い込む、かすかな夜の音にじっと耳をすませる。ニーダーがラプンツェルの為に誂えた鳥籠は、大地を揺るがす騒動さえ切り離している。世界にひとりきりでいるようだ。赤子の安らかな寝息さえ聞こえ無かったら。
ラプンツェルは滑るように寝台を降りると、揺り籠の傍らに立った。ふくふくとした円い頬を涎でべたべたに濡らした息子は、小さな口をあんぐりと開けて、すやすやと眠っている。無造作に投げ出した短い手足を、時々ばたばたさせている。親の欲目かもしれないけれど、特別に可愛らしい赤子だと思う。そんな息子の寝顔を眺めていると、ラプンツェルの心は冷たく凍える。造作が、仕草が、どんなに愛らしくても、息子の姿を見れば嫌でも、その父親を思い出す。
「……ねぇ、あなたは、お父様が心配じゃないの? あなたのお父様が二度と帰らなかったら……あなたを愛してくれるお父様が居なくなってしまったら……あなたは、独りぼっちになっちゃうの。今はあなたのお父様が怖いから、皆が黙っているけれど……本心では誰も、あなたを歓迎してくれない。あなたは呪われた子だって、皆が口をそろえるわ。私のせいかもしれないね……可哀想な子。あなたのお父様がいなくなったら、あなたは……お父様と同じようになっちゃうのよ。怖くないの?」
呑気な寝顔に向けて、小さく囁きかけてみる。言外に、母は息子を愛していない。と、きっぱりと言い切った。
酷い母親である。我が子にかける言葉に、母親らしい愛情の欠片もないことに、安堵している。
ラプンツェルは息子の寝顔から目を逸らす。明るすぎる窓の外は、白銀に光り輝いている。
「カシママのこけら落とし……きっと、そう」
ラプンツェルはそっと、ひとりごちる。ラプンツェル達、影の民の末裔を喰らう、不定形の魔物。幼いリーナとアンナが、大げさな身ぶり手ぶりを交えて、その恐ろしさを教えてくれた。ブレンネン王国を囲い込む銀の瀑布は、海と呼ばれる巨大なカシママで、カシママは膨れた体をもてあますと、切り離して振るい落とす。それを、カシママのこけらおとしと呼ぶ。
「近くに堕ちたのかしら……皆は、大丈夫かな……?」
ラプンツェルは胸の前で両手を握り合わせ、五指を羽のように折りたたむ。どうか、家族の皆が無事でありますように。そう願うと、ラプンツェルの脳裏を薄暗い考えが過る。
(それとも……いっそのこと、カシママに食べられてしまえば、楽になれるのかな……)
ラプンツェルははっとして、ぶんぶんと頭を振り、恐ろしい発想を追い払う。まだ、わからない。リディはああ言っていたけれど、皆はまだ、諦めていないかもしれない。
(そう……生きているんだもの。希望を繋いでいるかもしれない……生きることを諦めていないかもしれないじゃない)
前向きに考えると、次の瞬間には、ラプンツェルの心は塞ぐ。家族が諦めず、耐え忍んでいるのなら、一刻も早く、家族を助けなければいけない。それなのに、ラプンツェルは何も行動を起こしていない。
(急がなきゃいけない。わかっているわ。だけど、ここで、迂闊なことをして、ニーダーの逆鱗に触れたら、どうなっちゃうの? 今よりもっと、酷いことになることだけは、確かだわ)
ラプンツェルはぶるりと震える。ニーダーより受けた暴力の痕跡は跡形も無いけれど、恐怖の証は魂に刻みつけられた。思い出すのも恐ろしい。さらに恐ろしいのは、あれで、ニーダーは手心を加えていたらしい、ということだ。ニーダーが本気になれば、その責め苦は、地獄の底で悪魔に嬲られるのと等しい苦痛となるだろう。大切な家族をこれ以上、ラプンツェルの為に苦しませてはいけない。
ラプンツェルが悪寒に震えると、よく眠っていた息子が、ぱっちりと目を開けた。ラプンツェルはぎくりとしたが、この赤子は不思議といつも上機嫌だ。突然の目覚めにも関わらず、にこにこしていて、意味のわからない喃語を繰り返している。もしかしたら、母を呼んでいるのかもしれない。愛する家族の身を案じているところに水をさされて、ラプンツェルは顔を顰めた。
「カシママのこけらが、あなたのお父様を殺してくれれば良いのに。あなたが神様に呪われて生まれたってことは、あなたたちの神様は、あなたのお父様を見放したってことでしょう。あんな、悪魔みたいな男に祝福を授けたことは神様の過ちなんだから、正してくれても良いじゃない?」
息子は母の殺意に満ちた険相を見上げ、きょとんと目を丸くする。けれど、やはり赤子には危険な激情は分からないのだろう。すぐにあっけらかんと笑った。
「……おかしな子ね」
無邪気な笑顔に毒気を抜かれ、ラプンツェルは溜息交じりに揺り籠の傍を離れた。虚を突かれたような息子の、抗議の唸りは黙殺する。息子のむずがるような唸りは、程無くして、安らかな寝息にかわった。
かつては白薔薇の蕾を飾った窓辺に立ち、ラプンツェルは瞳を閉じた。
(ダメよ。ここで死なれては困る)
愛する女を妻にして、その妻との間に息子を授かって、ニーダーは幸せの絶頂にいる。ここで死んでは、無念だろうけれど、それでも束の間の幸せは魂に残るだろう。それではいけない。ニーダーの幸福を裏返してやるのだ。ラプンツェルを愛したことを後悔しながら、ニーダーは死んでいかなければならない。そうでなければ、愛する家族の魂が報われない。
「私は復讐を誓う。必ず、なし遂げてみせる」
ラプンツェルが厳かに誓ったとき。ほとほとと、窓硝子を叩く音がした。ラプンツェルは飛び上がる。心臓が破裂しそうだった。
そうして、バルコニーの手摺を跨ぎ超え、窓硝子に張り付く、肩に届く黒髪を靡かせる少女の姿を見たとき、ラプンツェルの心臓はその瞬間、鼓動を止めた。