捨てきれないもの
ラプンツェルは復讐を誓った。悪魔に魂を売り渡すことになったとしても、必ず復讐を遂げる覚悟を決めた。
ところが、未だ捨てきれないものがある。それは、恐怖であったり、甘さであったりするけれど、最も厄介なものは情だ。悪魔が根こそぎ持ち去ってくれたら、楽になれるのに。ラプンツェルの魂には、悪魔に売り渡すだけの価値も無いのだろうか。
残酷な悪魔を影に潜ませて、輝く笑顔で、妻子を愛するニーダーの蕩けるような優しさに、ラプンツェルは今も、惑わされている。
「名残惜しいが、しばしの別れだ」
抱擁が解かれ、額に触れた唇が別れを告げる。うっとりとした微笑みは、扉の向こう側へ消えて行く。ニーダーの背中を、ラプンツェルはにこやかに、すやすやと眠る赤ん坊が目を醒まさないようにこっそりと、見送った。愛する妻子を室内に残し、ニーダーは扉を固く閉ざす。ニーダーが立ち去るまで、ラプンツェルは滑り落ちてしまいそうな笑顔の仮面を、疲れきった素顔に張り付けて、耐える。
ニーダーの様子を、自由に空を飛び回る小鳥に憧れた少年のそれになぞらえて、ラプンツェルは捉える。
憧れの小鳥の風切り羽を切り落とし、手中におさめた歓喜に震える。足に巻き付けた生糸の先を彼自身の指に巻いて、手許に引き寄せて。満足するまで戯れた後はすかさず、鳥籠に閉じ込めて、鍵をかける。欺瞞に満ちた笑顔で、守ってあげる、などと嘯いて。
尊厳を奪われた小鳥の輝きは瞬く間に色褪せる。苛立ち焦ることを理不尽だとは露とも知らず、彼は怒り狂う。恐ろしい手に握り潰されることを恐れ、矜持を曲げて媚び諂う小鳥を両手に包みこむ彼は、すっかり馴らしたと、得意になっている。恐怖による支配では、真の絆を繋ぐことは出来ないということを誰も、彼に教えてあげられなかったのだろう。
ニーダーの機嫌を損ねないように腐心する日々を送りながら、ラプンツェルは断片的に語られたニーダーの過去を手掛かりして、彼の心の深淵に思いを馳せていた。
幼い頃、ニーダーは暗闇に堕とされ、導く手もなく、どうしようもなくて、道を誤ってしまった。彼の魂は今も暗闇に取り残されていて、光り輝いて見えたラプンツェルを暗闇に引き摺りこみ、ひっしと縋りついている。見捨てないでくれ、と泣いて訴えるニーダーは道に迷った幼子そのもので、あまりにも憐れだった。
ニーダーは悪魔を心に宿した暴君だ。それでも、ニーダーは心から妻子を愛していて、掻き集めた優しさの残骸を惜しみなく差し出している。愛されていると実感する度に、ラプンツェルの胸は切なく締め付けられた。
ニーダーは世界中の誰よりも、彼自身よりも、ラプンツェルと我が子を愛している。大切な友人や、実弟を切り捨て、ラプンツェルと我が子を守ろうとした決意は、残酷だけれど、きっと、純粋なものだった。
だからと言って、ラプンツェルは忘れない。家族が被った苦痛と屈辱を、家族が奪われた絆と誇りを、家族の恨みと憎しみを、忘れてはいけない。家族の無念を晴らすべく、復讐を志した。復讐を遂げる為に、生きて死ぬと決めたのだ。
ラプンツェルはニーダーを憎んでいる。だけど、ラプンツェルを愛するニーダーは、恐ろしい癖に優しくて、ラプンツェルの心を掻き乱してしまう。
ニーダーはラプンツェルと我が子を抱擁するとき、万感の想いを込めて愛を囁き、幸せに浸る。優しい体温に抱かれて、熱い吐息に耳朶を擽られて、このままではいけないと、ラプンツェルは焦燥と恐怖に身を焦がす。ニーダーが幸せであることも、ニーダーの温もりを心地よいと感じることも、すべて家族への裏切りだ。絶対に許されないことだ。
ニーダーと触れ合うこと、肌を合わせることは、かつて、ラプンツェルを苛む苦痛でしかなかった。憎い男に触れられると、自慢の髪は艶を失い、肌は冷えきる。まさぐられる身も翻弄される心も、ひどく切り裂かれていた。
しかし、授かった我が子に愛おしさを覚え、ニーダーを頼ってしまってから、ラプンツェルの感覚は狂ってしまったようだ。
優しく髪を撫でられれば心地よく、優しく抱擁されても心地よく感じる。夜の営みで肌を合わせることがめっきり無くなったことで、気が抜けているのだろうか。そうだとしても、おぞましい兆候であることに変わりはない。愛する人を傷つけた男の温もりに馴染んでしまったとしたら、汚らわしいこの身を八つ裂きにしても未だ足りない。こんな恥知らずに成り果てしまっては、愛する家族にあわせる顔が無い。
ニーダーが立ち去った後、残されるのは徒労感と虚しさばかりだ。ラプンツェルは息子の健やかな寝顔を眺めて、やりきれない想いを噛みしめる。そうして、息子が目覚める前に息子を乳母に預ける。ニーダーが戻るまで、出来るだけ、息子を遠ざけるのだ。
ニーダーが戻れば、また、息子を愛する母親になりきることが出来るけれど、ニーダーが傍にいなければ、ラプンツェルは母親のふりをすることさえ出来ない。円らな瞳でラプンツェルを見上げ、無垢な笑顔を浮かべる愛くるしい赤子のことを、愛すべき我が子ではなく、憎むべき仇の子なのだとしか思えなくなる。
ニーダーは彼の面影を色濃く宿す息子を溺愛している。ニーダー曰く、目許はラプンツェルそっくりらしいが、ラプンツェルにはよくわからない。わかりたくもない。
息子をあやすニーダーの、蕩けるような微笑を……ラプンツェルの家族を蹂躙した悪魔が至上の楽園に辿りついた証を……消し去る、最も容易く、最も卑劣な手段が、母子二人きりで向き合うと、頭を掠めてしまう。
ラプンツェルが迂闊であったばかりに、お腹に抱えていた息子を、失う危機に瀕したとき、ラプンツェルは我が子を愛おしく想った。息子がとても大切な存在であることは確かだ。だから、出来る限り、息子を母の憎悪に巻きこみたくないと、切に願う心に嘘は無い。けれど、その一方で、父親にあやされて歓声をあげている様子だとか、父親とそっくりの寝顔だとか。その類を見せつけられると、憎悪は際限なく湧き上がり、何の罪も無い、愛おしい我が子さえ、飲み込もうとする。
復讐鬼に身を窶したのならば、躊躇わずに、我が子を抱いて銀の焔に身を躍らせるべき、なのかもしれない。けれど、これ以上、罪の無いひとを巻き込みたくない、傷つけたくない。
致命的な甘さだ。ニーダーは彼自身の悲願を叶える為ならば、その他の全てを、躊躇い無く焼き払う。そんな悪魔に立ち向かおうと言うのに、生半可な覚悟では、とても太刀打ち出来ない。
それでも、母に抱き上げて貰おうとしているかのように、短い腕を精一杯伸ばす息子を害してしまうこと……殺めてしまうことだけは、出来なかった。
復讐を誓いながらも、為す術は無く、無為に過ごす日々に、ラプンツェルは疲弊していく。まどろめば繰り返し夢に見る。何もかも奪われて、家畜と貶められた家族が、悲嘆と怨嗟を叫んでいる。
ゴーテルは、ラプンツェルがニーダーの全てとなり、ニーダーの全てを奪うことこそが復讐なのだと断言した。ラプンツェルはゴーテルの示した指針を信じていた。ところが、ニーダーの子を産み落とし、復讐の第一歩を踏み出したところで、ラプンツェルは惑っている。ラプンツェルと息子は、間違いなく、ニーダーの全てとなった。あとは、奪うだけ。それなのに、どうしたら良いのか、わからない。
やり方はいくらでもあるだろう。けれどその選択肢に、無垢な息子を傷つけずに済む、奇跡のような方法を見つけられるとは思えない。父の罪科と母の憎悪に、息子を巻き込んでしまうことになる。
ニーダーを破滅させる為に、手段の是非は問わない。何を犠牲にしてでも、復讐を遂げなければならない。
それなのに、ラプンツェルは今日もまた、父と子の交歓を、途方に暮れて眺めることしか出来なかった。
そんなある日のこと。運命の歯車は、煮え切らないラプンツェルに業を煮やして回りだす。銀の星が降って来た。