逃走※2016.12.12に加筆しました
グロテスクな描写、残酷な描写、倫理に反する描写を含みます。ご注意願います。
張り詰めたお腹の裂け目から、真っ白な塩の塊がはみ出して、真っ赤な血の塊がこぼれ落ちる。まるで、暗い森の深い霧の中、アンナと二人、どちらが先に見つけられるかを競った、張り裂ける石榴の果実のように。
噴き出した熱い血潮があたしを真っ赤に染めた。
傷口のようすは、喩えるなら、悪魔の口唇だ。両手を差し入れると、顫動する肉に噛みしめられ、奥へと引き込まれるような錯覚に陥る。両手を奥に潜り込ませる。恐ろしい手触り。発狂しそうな意識を覚悟で繋ぎとめて、中を探る。あたしの五指は、暗い水の中を泳ぐ魚のように、羊水を掻き分けて進む。肘まで濡らしたところで、指先が異質な何かに触れた。小さな手に指先を掴まれたようだった。蛇が身をくねらせて背筋を這い上るような悪寒に襲われて、あたしの総身はわなわなと震えだす。
指が触れあったその瞬間に、あたしは雷にうたれたように、直感した。この赤ん坊は呪いの子だ。ニーダー・ブレンネンの悪意を核に、ヒルフェ坊ちゃまとアンナの怨念が結実して、生まれた子なんだ。
あまりにも禍禍しい。あたしは震えあがった。小さな手を振り払って、逃げ出してしまいたい惰弱な衝動と格闘して、苦戦しながらもやりこめて、あたしはぴくぴくと痙攣する口角を吊り上げる。
「いいのよ、それで、いいのよ。さぁ、いらっしゃい。あたしと一緒に、家族の復讐を遂げるのよ!」
あたしは小さな手をとった。それは契約だった。必ず復讐を遂げる。悪魔に魂を売り渡してでも、必ず。
小さな手を手繰り寄せ、小さな体を両手に包み込む。契約は結ばれた。あたし達の運命は、折れ曲がり捻じれて、固く結ばれた。
あたたかな母胎から引き剥がし、冷たい世界に引き摺りだした。
あたしが取りあげた血塗れの赤ん坊は、あたしの血塗れの腕の中で、小さな手足を突っ張って、口を大きく開けて、泣いている。閉ざされた瞼に触れて確かめると、瞼の裏側には瞳が隠れているようだった。アンナの娘は、五体満足で生まれて来た。
新しい家族の誕生に立ち会って、あたしの心は、小母さまや姉さま達から聞いていたような、神性な感動とは無縁だった。この子は、特別な子だ。この子は復讐を遂げる為に、この世界に産まれ落ちた。
今はこんなにも小さくて、柔らかくて、弱弱しいけど、この子はきっと強くなる。あたしと一緒に強くなる。あたし達の大切な家族の幸せを踏み躙った悪魔は、あたし達の足元に跪いて、涙ながらに許しを乞うことになる。
(そうでしょう? アンナ)
アンナはあたしの膝に頭をのせて、瞼をおろしている。びくびくと痙攣していて、唇の端から血と泡を吐き、晒された腹腔から湯気が立ち上っていた。無残な姿になってしまったけれど、アンナの唇は弧を描いている。だからあたしも微笑んでいられた。
あたしはアンナの髪を撫でた。アンナの唇が震えて、あたしの名前を呼ぶ。あたしは頷いて、アンナの額にキスを落とした。言葉なんて要らなかった。
悲しみに満ちた静寂を貫き、奇妙な音が聞こえてきた。
高く澄んだ笛が奏でるような音が、あたしが囚われていた独房の壁の先から、豊かに響いている。うぞうぞと蠢いていたカシママたちが一斉に引っ込んだ直後、頑丈な筈の石壁が弾け飛んだ。
轟音とともに瓦礫と粉塵の豪雨があたし達を襲う。赤ん坊を抱いたまま、唖然とするあたしに、黙然と佇んでいた大男が覆いかぶさった。烈風に対し、大男は白金に煌めく段平を掲げて耐える。吹き荒れる瓦礫を弾き飛ばし、あたし達を庇ってくれている。大男の献身自体、驚くべきものだったけど、何よりもあたしを驚愕させたのは、大男が掲げた段平の正体だ。段平は男の尾骶骨から伸びる、輝殻に覆われた尻尾だった。
(この男は……あたしたちと同じ、影の民の末裔なんだわ!)
あたしは大男の懐に抱かれて、大男を仰ぎ見る。覆面に隠された素顔が透けて見えるようだ。だけど、信じられない。だって、そんな、まさか。
吹き荒れる風が収まっていく。大男は唖然とするあたしをひょいと抱え上げると、晴れて行く白煙の中へ脇目も振らずに突っ込んで行った。あたしは慌てて赤ん坊を抱えなおす。首を捩って音のした方を振り返り、絶句した。
石壁に穿たれた大穴を囲む瓦礫の山を、白銀の蒸気を噴出させる無形の異形が這い進む……カシママの塊だ。
カシママがぶるりと体を震わせる。漣のように揺らめいた体の表面に、突起がびっしりと立ち並び、無数の触手に変化した。それらは獲物を求めて狭い通路を縦横無人に跳ねまわり、血塗れで倒れ伏すアンナに群がる。アンナを喰うつもりなんだ。
あたし達の命を奪う、唯一無二の存在が、死を願うアンナの前に現れた。これは、きっと神様のお導きなんだ。神様が、最期に慈悲を与えて下さったんだ。恐ろしくて、悲しくて、残酷なことだけど、救済に違いない。だって、ほら。アンナはあんなに穏やかに微笑んでいる。アンナの苦しみは終わり、安らぎがおとずれる。
わかってる。これで良いんだ。わかってる。わかってるのに……胸が張り裂けてしまいそう。
白銀の触手は歓喜に震えるように、身を揺する。カシママが鋭利な触手の先端を突き立て、アンナを貪る光景を、あたしが目の当たりにすることは無かった。大きな手があたしの顔を逞しい肩に押し付けていた。
覆面の大男は、あたしと赤ん坊を抱えて疾走した。カシママの暴食は、アンナの命を取り込んでも止まらず、あたし達を追いかけてくる。大男はあたしというお荷物を抱えていても野を駆る獣さながらに俊敏で、カシママが繰り出す触手の追撃を悉く避ける。水平に繰り出される白銀の円弧を飛び越えると、鞭のようにしなる一撃は空を切り裂いた。旋回する触手が、ちょこまかと逃げ回る獲物に対する苛立ちを露わにして、壁や天井を破壊する。罪人の塔は大きく揺らいだ。
追走する触手が糾われ、大波のように盛り上がって迫りくる。あたしの悲鳴を聞いた大男は肩越しに振り返り、舌を打つ。やかましい、と叱りつけられたような気がして、あたしは身を竦ませた。あたしの不甲斐なさに呆れた母様が溜息をついた時と、ちょうど同じように。
瞬時に大男の両脚が輝殻に覆われた。輝殻に覆われた獣の脚は、あたしたちを飲み込もうと迫る波濤から間一髪で逃げのびる。カシママが叩きつけられた床が陥没して、蜘蛛の巣状の亀裂がはしった。
捲りあがった石畳に足を取られ、大男の体が前方に大きく傾く。カシママはこの好機を逃すまいと、先端を鋭く尖らせた触手で刺突を放つ。あたしの血は凍りついた。
(ダメだ。死ぬ)
ぎゅっと目を瞑ったあたしの後頭部に手を添えて、大男は前方の床に身を投げ出した。カシママの触手は大男の丸めた背を掠め、突き当りの壁を粉砕する。
前転した大男は、目を回すあたしをしっかりと抱えなおすと、風が吹き込む大穴に身を躍らせた。
しんと静まりかえる、夜明け前の瑠璃色の空。夜を通り過ぎて冷えきった大気が、あたし達を包んでいる。ふわりと宙に浮かんだほんの一瞬の間、あたしは外の世界を懐かしむ。次の瞬間、あたし達は真っ逆さまに空から落っこちた。
烈しい風に嬲られて、悲鳴すら上げられない。右手で赤ん坊を抱え、左手で大男の頭にしがみついだ。後頭部にある覆面の合わせ目を掻き毟ると、編み上げ紐の合間に滑り込んだ指が、大男の頭髪に触れる。思いの外、柔らかい猫毛をしている、なんて、呑気な感想はすぐに頭から吹き飛ばされたけど。
落下の最中、白金のきらめきが視界の端を掠めた。抜き身の刀身が、ほたる火に似た燐光を帯びている。大男は尻尾から伸びた段平を逆手に握り、振りかぶって深々と塔の壁に付きたてた。
刀身が岩肌を削り、落下速度をも削っていく。輝殻で強化していても、重力は屈強な大男の肩を軋ませる。粉塵があたし達を強襲する。大男は歯を食いしばっている。萎えそうな両腕を叱咤し渾身の力を込めているんだ。
壁に深く長い切れ目を入れ、あたし達の落下は、あたし達が地面に叩きつけられる前に終わった。下を見れば、男の踵は辛うじて浮いている。殆ど、猶予はなかったんだ。大男が頑張ってくれなかったら、あたし達の体はぺしゃんこに潰れて、使い物にならなくなるところだった。
「……大丈夫?」
あたしは大男の顔を怖々と覗き込む。大男はこっくりと頷くと、右足を壁に突っ張り、深深と突き刺さった尻尾の刃を引き抜いた。反動で、背から地面に転がる。さしもの大男も、消耗しているようだ。しばらく呆然としてから、大男を下敷きにしていることに思い至り、あたしは泡を食って立ち上がった。腕の中では、赤ん坊が身を捩って泣いている。
首を逸らして見上げると、罪人の塔の頂に穿たれた大穴から、カシママの触手が飛びだして、ゆらゆらと揺れていた。血の気が引いたけど、カシママはやがて、塔の奥へと引っ込んだ。あたし達のことは諦めたんだろう。そうでありますように、とあたしは願った。カシママが向かった先に、愛する家族の皆がいませんように、とは願わなかった。家族の無事が、必ずしも、望ましいことではないと、思い知ったから。
ほっと胸を撫で下ろすと同時に、心にぽっかり空いた穴に風が通り抜けて、あたしは身震いした。大切な妹のアンナはもういない。あたしは半身を引き千切られたような喪失感と孤独感に、足元から崩れ落ちそうになる。だけど、あたしは堪えた。アンナがのこした赤ん坊を、復讐の誓いを胸に抱きしめて。
よろよろと立ち上がった大男が、断りも無くあたしの腕を引く。わっとおめくあたしを引っ張って、大男はずんずんと歩いて行く。低木の植え込みにあたしを押し込むと、お男は右手を指差した。あたしが首を傾げると、大男は舌を打つ。
「察しの悪い」
大男は苛立って、言った。地を這うような低音、それでもよく通る声だ。あたしは大男の顔を、覆面に隠した素顔を見つめた。落ち着いて、記憶と照らし合わせて、よく吟味する。やっぱり、間違いない。間違いようがない。物心ついてから、言葉を交わしたことは、一度も無かったけど、姫様に傅くこの男が、猫撫で声で話すのを、かげに隠れて聞いていたから、よく覚えている。
大男が鼻息をつく。狼の目が、あたしを見下ろしている。
「物影に身を隠し、慎重に迅速に、真っ直ぐ進め。しばらく行くと、高い剣状柵に囲まれた墓地に行き当たる。南側の立ち木の内、ただ一つきりの白樺の影に隠された横穴から墓地へ入れ。穴を出てすぐのところにある、ハシバミの木の隣にある墓石を退かせば、秘密の地下通路へと通じる入口がある。通路を抜けると、暗い森へ出られる。急ぎ王都を離れろ。あとは好きなように生きれば良い」
大男はいったん、言葉を切った。あたしの反応を窺っているらしいことは分かる。うんともすんとも言わずに、覆面を凝視していると、大男は押し殺した声でまくしたてるように言った。
「行け。これまでのことは全て忘れろ。石の心臓を隠し人に扮し、死ぬまで生きろ」
あたしは弾かれたように立ち上がり、立ち去ろうとする男の腕を掴んで引き止めた。背伸びをして、うるさそうに振り返る大男の胸倉を掴む。虚を突かれたように硬直する大男を見上げて、あたしは切り口上で言った。
「忘れない。忘れられる筈がない。あんただって、そうでしょう。家族を裏切って、捨てたのに、忘れられなかったんでしょう。だから、あたしを助けたんでしょう。……ねぇ、何とか言ったらどうなの?」
覆面の大男は、すぐには答えられなかった。あたしの体は、冷静な怒りで漲っている。あたしは重ねて言った。
「適当にあしらえると思っているんでしょうけどね、お生憎様。あたしだって、そこまでバカじゃないわ。だから、隠しても無駄なの。何もかも、打ち明けて貰うから。嫌とは言わせないわよ……ゴーテル」
大男の……ゴーテルの胸倉を掴み、引き絞る。あたしの指先に絡まった頭髪が、風に吹かれてそよいで、白銀に輝いていた。




